第1話 ただいま
東京駅を発車する新幹線の揺れは、なんとなく心地よかった。窓際の席に体を沈め、革鞄を膝に抱えた。スーツの上着は脱ぎ、ネクタイも軽く緩めている。それでもなお、どこか息苦しい気分が残る。
「たまには休め、命令だ」
あの無機質な上司の声が頭をよぎる。無理して得た連休ではない。ただの押し付けだ。それでも、自分にとって逃げる理由になるなら悪くないと思ったのだ。
車内アナウンスが次々と到着駅を告げる。そのたびに悠真の耳は反応するが、目は窓の外の景色を眺めていた。田畑が点在する風景。家々が少しずつ密集を失い、丘陵地へと溶け込んでいくその様子。
これから向かう故郷の町、あの景色も、いまの東京から見えるような線で描かれるものと変わらないのだろうか――彼はそんなことをぼんやりと考えていた。
故郷の駅に降り立つと、冬の空気が肌を刺すようだった。風は弱く、穏やかに感じたが、東京の乾いた空気とはどこか違った。懐かしい、とすら言えなかった。それほど長く足を向けていなかったのだ。
駅のロータリーに並んでいるタクシーを横目に見ながら、悠真は最寄りのバス停を目指した。この町は基本的に車がなければ不便な場所だ。それでも、一度地元を離れてから「戻る」となると、バスや電車を使うことが自分らしいと思える不思議があった。
バスが動き出すと、坂道を緩やかに登っていく。その先には山肌を隠すように並ぶ木立。記憶の片隅にあるものが確かにそこに存在している。しかしそれは、少しだけ色が変わった絵画のようで、馴染み深さと異物感が同居していた。
「変わってないな……いや、変わってないと言えば嘘か」
悠真は小さな声でそう呟く。
家に帰り着いた時には夕方になっていた。玄関のドアを開けると、かすかに感じる懐かしい匂いがした。それは風呂場の湿り気に混ざる石けんの匂い、そして古びた家具が漂わせるかすかな木の香りだ。
「おかえり、悠真。寒かったでしょ」
リビングに座る母親の声が響く。
彼女は特に外見に大きな変化はなかったが、どこか小さくなったように感じた。父親はまだ仕事から帰っていないという。
母親が用意した夕食は、特別なものではなかった。煮物にサラダ、味噌汁とご飯だけ。しかし、妙に温かい。幼い頃は当たり前のように感じていたそれが、今では貴重なものに思える。
「あんたも忙しいんだろうけど、ゆっくりしなさいね」
味噌汁のおかわりをよそう母親の仕草が優しかった。悠真は、もう少しこの温かさを感じてもいいかもしれないと思った。
食後、悠真は庭に出てみた。夜の静けさが町を包む。寒さで耳が痛む。星の光が東京では見えなかったほど鮮やかに輝いていた。
小さな庭先の隅、雑草が生える地面をじっと見つめると、なぜか胸がざわついた。そこには子供時代に遊んだ片鱗があったはずだ。しかし、いくら記憶を掘り起こしても、どうしても具体的な風景が蘇らないのだった。