9-5 噂
昼過ぎ、市場から帰ったアルが、部屋に引きこもって呪文の書の解析作業を進めていると、アイリスが階段を上り来客だと教えてくれた。それも大人の女性だという。アルは首をひねりながら階段を下りていくと、そこで待っていたのはジョアンナであった。パトリシアと一緒にテンペスト王国を脱出してきた女性騎士である。ジョアンナはアルの姿を見ると一礼してきた。実は彼女自身も男爵家の長女であったはずで前触れなしにここに来るような身分ではないはずだがいったいどうしたというのだろう。なにかすこし重苦しい雰囲気であった。
自分の部屋に通すというわけにもいかないので、アルはアイリスにお願いして一室を借り、そこに彼女を通したのだった。
「どうされたんですか?」
アルが尋ねると、ジョアンナは最初すこし言いにくそうにしていたが、やがて意を決したように話し始めた。
「ルエラ殿からアル様が帰ってこられているらしいと聞いてな。迷ったのだが、姫があまりにも落ち込んでおられるし、私はそなたと相談すべきだと思ったので館を抜け出してきたのだ」
アルは首を傾げた。一体何があったというのだろう。
「領主館の中でいま一つの噂が流れているのだ。今度10月末にレイン辺境伯からきのこ祭りに参加する名目でユージン子爵閣下と辺境伯の三女セレナ様が来られる予定らしいのだが、祭りに参加するという名目で来られるにしては位が高すぎる。別の目的があるのではというのだよ」
ユージン子爵とセレナが来るというのは以前のパトリシア様とお会いした茶会でルエラからも聞いていた。たしかその時にジョアンナも居たはずだ。その時には、セレナ様が嫁ぎ先であるレスター子爵の嫡男サンジェイを見に来るのではないかとルエラが話していた。
「そうなのだ。だが、領主館では最近、それとは別の噂がまことしやかに話されているのだ。それはレイン辺境伯閣下が自らの次男であるストラウド様とパトリシア様との婚姻を図ろうとして、腹心であるユージン子爵を送り込んだのではないかというのだよ」
ジョアンナが聞いた噂では、『最近、レイン辺境伯家からシルヴェスター王家にテンペスト王国への出兵を提案したようだ』『その証拠にナレシュ様が国境都市パーカーでテンペスト王国の難民を受け入れ始めている。義勇軍を準備しているのではないか』とつながって、『テンペスト王国では内乱がおこり国内はかなり混乱状態にある。そこで王家の血を引くパトリシアと次男ストラウドを結婚させ、テンペスト王国の混乱を治めるという名目で出兵を行おうという目論見ではないか』というのだ。
結婚相手がレイン辺境伯の嫡男でないのは、嫡男はすでに別の高位の貴族から正妃を娶っているため、次男であるストラウドに白羽の矢が立ったのではないかという話だった。
「うーん、まぁ、あり得る話だとは思う」
アルは素直に頷いた。国家間の争いでは名目が大事だ。レイン辺境伯と国境を接しているセネット伯爵家はテンペスト王国の騎士団に攻められて滅んでいる。セネット伯爵家出身の母親を持つナレシュやパトリシアという旗印を使えば義勇軍も期待できるだろう。状況を知っている者からすれば普通に考え得る話だろう。
「そなたがそれを言うのか?! あれほど姫様は悩まれているのに」
ジョアンナは机を叩いた。激高した様子で頬も赤い。
「コ、コホン……すまぬ。パトリシア様にはタガード侯爵家の御嫡男という婚約者が居られる。彼の生死も判らぬのに不謹慎だと思わぬか? それに、ストラウド様は今31才だそうだ。まだ正妻が決まらぬ程のかなりの放蕩家だという話もある」
アルはパトリシアが刺繍の入ったハンカチを差し出すときの伏し目がちに自分を見るあの顔を思いだした。まだ13才だ。ジョアンナが気を揉むのも判らなくはないし、アルとしてもパトリシアをかわいいと思う気持ちがあるのは否定できない。だが、高位貴族の家に生まれた者としては仕方ない話なのではないのだろうか。隣国が混乱しているから出兵するという考え方自体はあまり共感できないところはあるが、次男が結婚するとなれば、辺境伯も本腰をいれて出兵することになるだろう。
「タラ子爵夫人はどういう話を?」
「タラ子爵夫人は良い話だと喜んでおられる。嫡男サンジェイさまの生母であり第二夫人であるアグネス様もだ」
“パトリシア、かわいそう。アリュ、あの指輪! あげよう?”
アルは頭を掻いた。自分に何ができるというのだろう。グリィもあの指輪をあげないほうが良いと言っていたのに。気持ちがかわったのか。
「まだ、全部噂ですよね。それに、御立場としてはそれが全て真実だとしても断わることは難しい」
「それはそうなのだが……」
二人はじっと沈黙した。
「パトリシア様がこっそり外出するのは……たぶん無理ですよね」
アルの言葉にジョアンナは頷いた。そういえば第二夫人であるアグネスが魔道具を髪留めと称して渡していたのもおそらく追跡か盗聴といった類だろう。
「キノコ祭りの当日にレビ商会に行かれる話は以前からルエラさんの約束でしょうからきっと大丈夫でしょう。噂はそれまでにはっきりしているでしょうし、僕からはお話はその時に……としか」
ジョアンナはがっくりとした様子で頷いた。
「つい先日まで実は僕はお二人にお会いしたクラレンス村まで行っていたんですよ。そこで、国境都市パーカーに行商に行っていた行商人が市を開いていましてね。そこでセネット伯爵家のゆかりの騎士が手放したのであろう品を売っていたんです。お二人にと思って買ってきたんですよ」
アルはジョアンナに少し待つように言うと、自分の部屋に急いで戻り、例の2個一組になっている指輪が入っている包みをとってきた。
「おそらく美術工芸品だとおもうんですが、波の模様とかが綺麗で……」
そういって、アルはその包みをジョアンナに渡す。ジョアンナは暗い表情でそれを受け取った。そしてその包みを傾けて中身をだす。一組の指輪が彼女の掌の上に転がった。そして、それをみて、彼女は驚きの声を上げた。
「えっ? これはトレメイン男爵家の家宝、契りの指輪……では?」
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