6-4 呪文習得 後編
レダが、アルが帰った事をエリックに報告に行ったのは、日が沈んでからかなり経った頃の事だった。彼はすこし前に食事を終え、書斎で手紙の整理などをしている所だったが、羊皮紙にペンを走らせる手を止めて彼女に尋ねた。
「アル君はこんな時間まで習得作業をしていたのですか」
「はい、初めて見る記号を読み解くのについ時間をかけてしまって、気がついたらこの時間になっていたというのです」
エリックは持っていたペンを置き、首を傾げた。
「朝作業を始めてから、10時間近くになりますね。1つの記号にそれほどの時間をかけたということでしょうか」
初めて見る記号を1つ読み解きするのにかかる時間は2時間前後というのがエリックの感覚であった。もちろん記号によっては難易度もあるし、魔法使いの見習いであればもう少し時間がかかっても不思議ではない。だが、10時間というのには違和感があった。
「私もそう思って尋ねたのですが、彼が言うには、初めて見る記号は8個あったので、それぐらいかかったのだと言うのです」
レダの話にエリックは目を見開き驚いた顔をした。記号の読み解きにはひどく集中力を使う。<呪文発動>に際して一度読み解いた記号を再度読み解きするというならともかく、初めての読み解きは1日に1個か、せいぜい2個ほどだろう。
休憩もはさまずに8個の記号を続けて読み解いたとは、とても考えられない事だったのだ。
「ちょっと待ってください。初めて見る記号は8個だったと言ったのですね。であれば、他は既知の記号だったと……いうことですよね。つまり、アル君は第3階層である浮遊眼の呪文の書を1日で読み解いたということですか」
アルに話を聞きたいとエリックは思わず立ち上がったが、レダによると彼はおなかが空いたと呟きながら既に帰ってしまったらしい。
「本当に読み解いたのでしょうか? 私は習得を始めて2ヶ月になりますが、読み解きはまだ終わっていません……」
レダは下唇を噛みしめながら呟いた。彼女は1日も休むことなく、着実に毎日1つか2つずつ記号の読み解きを行ってきた。もちろん見習いとしての仕事をしながらなのでアルの様に長い時間を割いたわけではない。だが、彼がそれをたった1日で読み解いたとすると、この差は彼女にとって辛いものであった。
「既知の記号についての扱いの差と言ってしまえばそうなのでしょうが、これほどの差がでるとは。アル君が呪文習得している部屋に行ってみましょうか」
2人は頷き、アルが呪文習得で使っていた部屋に向かった。そして、光呪文で照らされた部屋の中で、一面半透明の緑色に塗られびっしりと赤い文字が浮かんだ呪文の書を見つけたのだった。
「文字が浮いている? これは……幻覚呪文?」
エリックは幻覚発見呪文で確認した。間違いなくアルが使った幻覚である。アルが布に書いて貼り付ける代わりに、幻覚呪文を使ったと理解して、彼はそのやり方に感心したが、それと共に疑問もわいた。布に書くのとは違って幻覚呪文には効果時間があるのだ。彼の知識からすればせいぜい1日、習熟度が余程高くても2日といったところだろう。その2日で彼は読み解きを終わらせるつもりだったのだろうか。
「彼は既知の記号シンボルをまず積極的に憶えていくという事でした。幻覚呪文を使ってそれを塗りつぶし、彼なりの効率化を図ったのでしょう。問題はそれで記号の誤理解がどれほど発生するか、そして、うまく<呪文発動>できるかどうかです。彼はオプションについて何か言っていましたか?」
「はい、視界と表示サイズ、そして浮遊眼そのものの移動速度と出現場所についてはオプションになりそうだと」
浮遊眼の呪文は一番最初に術者の掌の上に直径2㎝ほどの透明の球体が作られ、それと同時に他者からは見えないが術者の視界の右上に20cm四方の窓のようなものができる。透明な球体は術者の思念によって人間が歩くほどの速度で空を飛び、視界に現れた窓には球体から見える情報が映し出される。そうして周囲や離れた場所の状況をみることができるという呪文である。
レダがアルに聞いた話によると、オプションによって他者からは見えないその窓というのはサイズが変えることが出来、また球体が写す範囲を、まるで水晶玉を通してみるように歪めることにより見える範囲を変える事もできそうだということであった。移動速度はその球体を移動させる速度であり、走る速さぐらいにまで上げることが出来る。また、出現場所は掌の上でなくても視覚範囲内であれば可能になるだろうということであった。
「なるほど、どの記号か具体的に聞きましたか?」
「はい、それはもちろん」
「もう読み解き済ですか?」
「はい、それらは全て読み解き済みです」
エリックは考え込む。もしかしたら読み解き済みでなかった方がよかったのだろうか。とはいえ、レダはまだ<呪文発動>に成功していない。それまでに読み解きしなおせば大丈夫なのかもしれない……。
「試してみましょう。レダ、アル君が指摘したことを考慮して再度、その記号の読み解きをし直してみてください」
「はい」
レダは少し涙目であった。それをみてエリックはかるく微笑む。
「レダが気にすることはありません。時間がかかっているのは、既知の記号について先入観を持たずに改めて読み解きをするように指示しているためなのです。もし、このやり方が成功するようなら、私のほうが認識を改め、君たちに謝罪をしなければいけない。効率の悪い方法を指示してきたのですから……」
エリックの言葉にレダはあわてて首を振った。謝罪などとんでもないという気持ちなのだろう。
「とはいえ、結論はまだです。読み解きを誤ったために発動に余計時間がかかる可能性もありますし、その後も正しく使えないという状況に嵌ってしまう不安を私は拭いきれません。もうすこしアル君には話を聞きたいですね。明日も来ると言っていましたか?」
レダは頷いた。
「もう遅い時間です。話はまた明日しましょう」
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翌日の夕方、アルはエリック邸の呪文習得に提供された部屋の床に両手両足をなげだし、ぐったりした様子で仰向けに寝転がっていた。
朝から<呪文発動>を試みてはいるのだがまだ成功していないのである。とはいえ、浮遊眼呪文は第3階層の呪文であるので、1日で成功しないといっても、それは彼にとっても当たり前の話であった。それもかなり手ごたえを感じているので成功するのにあともう少しというところまではたどり着いている感覚はあった。
「こんにちは。お邪魔します」
部屋にやってきたのはエリックとレダであった。
「その様子ではまだ成功はしていないようですね」
アルはあわてて起き上がる。
「はい、まだです。もう少しだと思うのですけど……」
「昨日は<読み解き>をずっと10時間、今日は<呪文発動>を8時間、よく気力が続くものだと感心します」
エリックにそう言われてアルは少し照れて頭を掻いた。アルとしては少しずつ成功している感覚があって夢中になって試しているだけなので、大したことではないという感覚なのだが、エリックやレダからすれば、飽きずに8時間続けて呪文行使の試みを続けているのは信じられない集中力だと思えたのだった。
「明日はまた仕事なので、次はいつ来れるかわからないんです。なので、できれば、今日発動したかったんですが、ちょっと無理そうです」
アルの言葉にエリックは首を振り、軽く微笑んだ。
「これだけの速度で習得を進めているのです。あまり無理はしないように。呪文発動には発想の転換が必要な時もあります。たまには早く切り上げてみるのもいいかもしれませんよ」
エリックの言葉にアルは軽く頷いた。たしかに今回、グリィの協力もあって、読み解きもいつもの倍以上の速度で進んだ。疲れているのかもしれない。そんなことを考えると急にお腹が空いてきた。
「そうですね、今日は一旦終わりにして、呪文の書の損傷を確認しておくことにします。おそらく大丈夫だとおもうんですが……」
エリックは頷いた。アルは名残惜し気に呪文の書を眺めてから、かるく手を振った。それを合図に呪文の書の表面を覆っていた幻覚が一気に消える。その様子をみてレダは横にあった手つかずの膠や布などを片付け始めた。
「アル君の幻覚呪文はどれぐらい維持できるのか聞いてもいいですか?」
維持できる時間を聞くということは熟練度を聞くのと同じことだ。エリックの問いの声も遠慮がちである。
「3日ぐらいです。幻覚呪文は爺ちゃんが得意にしていた魔法なので、いろいろ教えてもらったし、考えれば考えるほどいろんな事が出来て……かなり面白い呪文です」
幻覚呪文を得意とする魔法使いと聞いてエリックは20年ほど前、領都の新年の祝いのときに見た龍の幻覚を思い出した。その龍の幻覚とは昔に隣国テンペストとあった戦いの際に、敵の目を欺き敵の騎士団を大混乱に陥れたという、半ば伝説の幻覚で、その幻覚はレイン辺境伯に仕える魔法使いが見せたものだという話だった。空を飛ぶ巨大なその姿に彼は大きな感銘を受けたものだった。
「アル君のおじい様は昔、辺境伯に仕えておられた?」
エリックが龍の話をすると、アルは首を傾げながら、祖父かもしれないがわからないと答えた。アルが生まれたころには祖父はもう引退して彼の故郷であるチャニング村で暮らしていたが、それ以前は確かに領都の辺境伯騎士団に魔法使いとして所属していたはずであった。
「今度、父ちゃんに聞いておきます。爺ちゃんはもう年で死んじゃったけど、そんな功績を上げたか父ちゃんなら知ってるかもです」
「そうだね。もし機会があればお願いします。きっと関わっておられたのだろう。なにかお話など教えてもらえると嬉しいです」
エリックは感慨深げにつぶやいた。
「エリック様、浮遊眼呪文を使うときの注意事項とか教えていただけませんか? きっと辺境伯の御館で使ったらダメなんですよね」
「もちろんです」
エリックは一転引き締まった顔になり頷いた。浮遊眼呪文で作り出す透明の浮遊眼は熟練度によって術者から離れることのできる距離というのは限られているものの、城の近くで行使すれば中を自由に覗けてしまうことになる。
「辺境伯の領主館はもちろん、重要な場所には警戒のための魔道具が設置されている事が多いですから、すぐに見つかってしまいます。誰が行ったかという所まで特定できますから、興味本位で使うようなことは無いように気を付けてください」
エリックの話では、透明発見、幻覚発見、魔法発見といった効果を持つ魔道具というのがあり、辺境伯の城などの要所には設置されているのだという。浮遊眼呪文で作り出す透明の浮遊眼は透明発見、魔法発見の両方に反応してしまうらしい。
もちろんどこに設置されているかは公開されていないが、これに発見されると、術者を特定することが可能な情報も同時に記録されるため、場合によっては衛兵隊に追われることになってしまうとのことだった。
「ここにも?」
アルはそういって周囲を見回した。
「非常に高価なものですので、それほど数は多くないですが、この屋敷の中にもあります。場所はもちろん内緒ですが」
エリックはそう言ってほほ笑んだ。高額収入を得ているはずの魔法使いが非常に高価だというからには、そうなのだろう。
「都市の門とかには?」
「私なら、魔道具そのものが盗まれるのが怖くて設置しませんね。それなりの対応ができる場所でなければ見合わないです」
彼が言うのは、魔道具では探知ができるだけであって解除ができるわけではないということだろう。解除ができる魔法使いがすぐに対応できるような場所でなければ、その魔道具を設置する意味はないということか。辺境伯の領地内で透明発見呪文が使える魔法使いはそれほど居ないだろう。
「わかりました。ありがとうございます。気をつけて使うようにします」
良い話を聞いた。隠蔽呪文を使っていい場所もこれである程度見極めがつくようになった気がする。アルはこっそりとそう考えて、思わずにっこりしたのだった。
説明を書いていると長くなってしまいました。
読んで頂いてありがとうございます。
月金の週2回10時投稿を予定しています。よろしくお願いいたします。
誤字訂正ありがとうございます。いつも助かっています。
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