6-2 訪問者
翌朝、新たな発見とその興奮で、また明け方近くまで<呪文の書>を読んでしまっていたアルはアイリスの遠慮がちなノックの音で起こされた。
「おはようございます。アルさん、お客様です。バーバラとおっしゃる方です」
寝ぼけ眼のまま、リネンのベッドからのろのろと身体を起こす。まだまだ藁だけのベッドが一般的であり、彼も田舎ではそうだったのだが、ここの宿ではありがたいことにリネンのシーツが敷かれているのだ。大きなあくびをして、ゆっくりと目が覚めていく。
「アルさん、起きていますか? お客様ですよ。お待たせするのは良くないのでは?」
返事のないアルにノックの音は少し大きくなった。
「ああ、ごめんなさい。アイリスさん。すぐ下りますって伝えてくれる?」
アルは慌てて立ち上がり、とりあえず服を着た。伸び放題の金髪は後ろに束ねて紐で巻く。つけたままだった部屋の明かりを消し、傍の机に広げたままだった<呪文の書>は丁寧に巻きなおしてから秘密の場所に片付けた。もう一度大丈夫かなと部屋を見回してから急いで降りて行ったのだった。
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「おはようございます。バーバラさん」
アルが下りてくると、バーバラは宿泊客用のシチューを食べていた。
「おはよう、アル。ここの料理はなかなか美味しいね。朝は食べてきたんだけど、早かったし、いい匂いでさ。お願いして用意してもらったよ」
そういって、彼女はにこやかに笑う。今は太陽の角度からして、まだ朝2番の鐘が鳴ったか鳴らないかの時間だろう。夜明けからまだ1時間ほどしか経っていないはずだ。いったい朝何時から働いているのだろうか。
「昨日の話で来てくれたんですか?」
「そうさ、朝の確認で詰め所に居たらレビ会頭に呼ばれてね。すっかりお前さんとの連絡役になってるね」
アルはアイリスに自分の分の朝食も持ってきてもらえるようにお願いして、バーバラの座っているテーブルの向かいに座る。
「レビ会頭からの話だけどね、明後日の朝3番の鐘がなる頃に、領主館にラドヤード卿を訪ねて欲しいって事らしいよ。ナレシュ様の臨時雇いの従者の立場で護衛も兼ねるっていう話だってさ。ああ、ラドヤード卿ってのはナレシュ様の守役でね。古くからレスター子爵閣下に仕える騎士さ」
従者というのは弓や剣を持って戦ったりして仕事をこなす従士とは違って、個人の使用人に近い立場だ。館内で仕事をすることになるのだろうか。
「報酬はどうなります?」
「日当銀貨10枚。あまり高く交渉できなかったとレビ会頭は残念がってたけど、あたしは結構良い金額だと思うよ。従者だったら基本的に命の危険は低いだろうしね」
以前、魔法使い見習いの報酬が2週間で銀貨30枚であった。あちらは食事つきであったので単純に比べることはできないが、確かに安いというわけでもないだろう。危険があまりないというのなら尚更だ。半年ほど前まで請け負っていた領都でのゴブリン討伐の報奨金が1体につき銀貨1枚だったことを考えると非常に高いとも言える。今は療養中のオーソンが復帰してくればもっと稼げるかもしれないが……。
「ただ、たしかナレシュ様は1週間後に予定されている蛮族討伐の騎士団遠征に参加されるはずだから、そっちは気になるね。その時に一緒に従軍するのなら戦いには巻き込まれるかもしれない。でもまぁそういう時は逆に稼ぎ時さ。それにレビ様はナレシュ様に手柄を挙げることを期待しておられる。せいぜいそれに協力してやっておくれよ。そうすればレビ様からたんまりと褒美を貰えると思うよ」
アルは少し考えたが、まぁ良いかと頷いた。ここで暮らしていく上でこういう実績を積むのも悪くないだろう。
「わかりました。とりあえず行ってみますってレビ様に伝えておいてください」
そう聞いて、バーバラはにっこりと笑った。そして蝋で封された羊皮紙の巻物と革の小袋を取り出すとアルに手渡した。
「片方はレビ様の紹介状だ。封蝋の印がレビ商会になっているから証明になるだろう。開封せずに直接ラドヤード卿に渡してくれとの事だった。あともう一つはパトリシア様を護衛してきた報酬さ。10金貨ある。上手くやったみたいだね」
10金貨! それは有難いと革袋を受け取ってから、アルはなんとなく首を傾げた。問題なく送り届けたという意味では成功したとは思うが、バーバラの表情からはなにか違うニュアンスを感じたのだ。
「パトリシア様の事さ。どう見てもあんたに首ったけじゃないか。でも気をつけなよ」
いやいや違う。アルは慌てて否定したが、バーバラはニヤニヤするばかりだ。パトリシアはたしかに美人だと思うが、アルとは違う世界に住む人間である。たしかにそういわれてみれば好意を持たれていたのかもしれないが、だからと言ってどうしたらよいのかわからない。
「本当に本当かい? いや、今回はそれが賢いとは思うけど……。そんな男も居るんだね。線も細いし、髪の毛も長い。実は男じゃないとかないよね」
バーバラはなかなか信じてくれなかったが、最後にはようやくアルの言い分を半分ぐらい信じてくれたようだった。
「もし、そうだというのなら、忠告しておいてやろう。おまえさんみたいに野心のかけらも持たない男は近づくのをやめておいたほうがいいってね。今回、テンペスト王国は内乱でかなり力を落とした。数年のうちに周囲の国のいくつかはテンペスト王国領に手を出すだろう。彼女のテンペスト王家の血を引く姫というのは大きな旗だ。彼女を手に入れてテンペスト王を名乗ろうってのが出てくるとあたしは思うよ。レビ会頭は呑気にしているが、ナレシュ様も可能性はあるだろうね」
アルはそう言われて肩をすくめた。王座を狙おうとする男がでてくるかどうかまでは知らないが、彼女は政治的に大きな力を持つのは確かだろう。そこまで考えたとき、アルの脳裏には、テンペスト様のお導きだと嬉しそうに言ってアルを見つめるパトリシアの笑顔が浮かんだ。深く澄んだ緑色の瞳、そういえば彼女はずっとアルの事をじっと見つめていた。彼女の視線はすこしドキドキしたものの決して嫌なモノではなかった……。
アルはあわてて首を振って微笑みを作った。
「報酬はもらいました。ありがとうございますとレビ様にはお伝えください。紹介状は明後日、ラドヤード卿に直接渡します」
「あいよ、じゃぁレビ様には伝えておくよ。ラドヤード卿は時間にうるさいから明後日は寝坊しちゃダメだよ」
バーバラはそう言って立ち上がり、ちょうどアルの分を持ってきたアイリスに美味しかったよと告げて出て行く。アルは朝食を無言で受け取り、何か気持ちに引っかかるものを感じながら黒パンを口に運び始めた。
「アルさん、何か気になることがありました?」
アルの様子が気になったのか、アイリスが話しかけてきた。いつの間にか食堂でまだ食事をしているのはアルだけになっていた。
「ん? ううん、何でもないんだ。次の仕事が決まってね。明後日から領主館で働くことになりそうなんだ」
領主館と聞いてアイリスは目を丸くした。領主館で働くという事はかなりの出世ということだと思ったようだ。
「え? まさか、冒険者を辞めちゃうってことですか? もしかしてここも引き払っちゃうとか?」
アルはあわてて首を振る。昨日光呪文の代わりに宿代が無料という話をしたばかりだ。
「詳しくは明後日にラドヤード卿って人に話を聞くことになってるんだけどね。あくまで臨時雇いだよ」
アルの説明にアイリスは胸をなでおろした様子であった。
「そう言えばアルさんが居ない間に、マーカスって人が来ましたよ。仕事でしばらく帰ってこないと言ったら、そうかとだけ言って帰って行きました」
マーカス? どんな人かと聞くと、アルより少し背が高い男性で黒いローブを着ていたらしい。黒いローブという所でエリックのところの見習い魔法使いがそういう名前だったことを思い出した。そういえば、エリックのところで呪文の書を見せてもらえることになっていたのだった。全く忘れていたわけでもなかったが、いくつか未習得の呪文の書があったので、ついそちらを優先してしまっていた。
「そっちも行かないとな……」
昨日の様子からして、今日はまだオーソンが仕事に行くことは無いだろう。アルはエリックのところに行こうと心に決め、残った朝食を急いで食べ始めた。
2024.8.23 マーカスとルーカスを双子と書いてしまっていました 訂正します。
読んで頂いてありがとうございます。
月金の週2回10時投稿を予定しています。よろしくお願いいたします。
誤字訂正ありがとうございます。いつも助かっています。
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