2-3 昨晩はお楽しみでした
《赤顔の羊》亭は長期滞在の冒険者を対象にしている宿屋らしく、部屋は1人部屋か2人部屋ばかりとなっていた。護衛の仕事で長期間出かける時のために、屋根裏部屋を使って荷物だけを預かる貸倉庫のような事もしているらしい。アルに用意してくれた部屋も1人部屋であった。彼のように夜遅くまで呪文の書を読み習熟を図る魔法使いにとっては有難い話である。
彼は夕食を食べ終えるとご馳走様との礼もそこそこにして、急いで部屋に戻った。そして早速大事そうに新しく手に入れた隠蔽の呪文の書を取り出したのである。呪文の書を手に入れたからといって、呪文をすぐに使えるわけではない。習得にはかなりの期間が必要であった。この呪文は第3階層の呪文なので、一般的には毎日1時間学習して1年かかると言われるものである。呪文の習得には非常に集中力を必要とするので、普段の生活で疲れている上ではそれが精一杯であり、ほとんどの魔法使いがいくつかの魔法を習得したところで満足してしまう。
だが、アルの場合はそうではなかった。彼は魔法が大好きなので毎日5、6時間継続しても疲れることがなかった。さらに、彼の場合は呪文の書を読むのが大好きだったので、呪文の書の内容をほとんど記憶していた。その結果、複数の呪文の書を比較しその意味を考えたりできたので効率的に習得することができていたのである。
その結果、最近に習得した同じ第3階層の鈍化呪文の場合、行使できるようになるまでおよそ20日、おおよそ失敗なく行使できるようになるまででも1ヶ月に短縮できていたのだ。
その彼は新しい呪文の書を手ににやにや笑いが止まらない。
「さて、どういう風な構成の呪文なのかな……」
アルは鼻歌交じりに呪文の書の巻物を広げた。上下30㎝、幅は2m程の羊皮紙には複雑に絡み合う円と記号、そして文字がびっしりと描かれている。それぞれの記号や円は様々な要素を示しているのだ。顔を近づけゆっくりと眺め始める。途中で持ってきた羊皮紙の束を取り出すとそれと見比べながら、これはこれで、あれはあれでとブツブツと呟く。
……。
………。
幾度繰り返しただろうか、彼が顔を上げ自分の肩をもみながら周囲を見回したのはうっすらと朝日が昇り始める頃になってからだった。窓から入ってくる朝日に気付いて彼は大きく伸びをしながら顔を顰めた。
「あー、もう朝か、またやっちゃった。新しいのが手に入るとつい……ね」
働き者の人々はそろそろ家を出る準備をしているに違いない。彼はばたばたと散らかしていた呪文の書や羊皮紙を片付け始めた。光呪文で灯した明かりを消すと、部屋の中はうっすらとした朝の光だけが残った。彼はベッドに倒れ込む。
「少しだけ寝よう……幻覚呪文と雰囲気が似てる気がするなぁ、でも、対象を選択するところはちょっと違う感じか。幻覚と違って出現したイメージをコントロールしなくて済むから……」
彼は横になってもブツブツと呟いていたが、余程疲れていたのかすぐに寝息を立て始めた。
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アルが《赤顔の羊》亭に泊まった翌日、宿にある裏庭ではラスの妻であるローレインと娘のアイリスは洗濯物を洗ったり干したりといった仕事を手慣れた様子で行っていた。太陽はそろそろ一番高い所にまで登ってきた頃なのでちょうど12時といったところだろう。
「ねぇ、ママ。あの人、まだ起きてこないね」
アイリスは母親であるローレインに尋ねた。彼女の言うあの人というのは、昨日父親と兄を連れて帰ってきてくれた恩人であるアルの事だった。年はおよそ彼女と同じぐらいに見えたが、冒険者として働くのは慣れた感じであった。聞いた話では魔法使いだというのにあまり偉そうにも振舞わず、他の冒険者たちのように乱暴な物言いもしない、彼女にも優しく接してくれていたのは少し嬉しかった。
「うーん、そうね。長い距離を旅行してきて疲れているのかもしれないけど、さすがに少し遅いかもしれないわね。ちょっとドアをノックして声をかけてみてくれる? もう子供じゃないのだから部屋の中に入っちゃだめよ」
「うん、わかった」
彼女は洗い物の手を止めて立ち上がると、母親からのおさがりで色の褪せたエプロンドレスの裾を軽く直した。中庭から建物に入り、階段を上ろうとする。そこで2階でドタドタと走る音と扉を開け閉めする音に気がついた。
「! この音は起きたのかも?」
彼女がそう呟いたのと、アルが慌てた様子で2階の踊り場に姿を見せたのはほぼ同時だった。
「おはようございます。わぁ、すっかり寝坊しちゃった」
彼はそう言いながらスタタタと階段を下りてきた。服のボタンは留まっているが、背中に届くほどに伸びっぱなしの長い金髪は自由奔放にうねっている。アルはアイリスの顔を見て少しバツが悪そうに自分の髪を弄る。
「あの、部屋の掃除は自分でしますから、できれば中には入らないで……もらえますか? あと中庭の井戸は使っても?」
アルのその様子を見てアイリスはにっこりと微笑んだ。
「はい、部屋には入らないようにします。だからといって貴重品は残さないでくださいね。井戸は使ってもらっても構いませんし、横に置いてある桶もご自由にお使いください。ただし、そのまま飲むとお腹を壊しやすいので気を付けてくださいね。もし汚れものがありましたら、洗濯は1枚につき30銅貨でお受けしていますのでよかったらお申し出ください。ただし汚れ具合や素材によっては別料金になりますのでご注意ください。それと、あと……髪がすごいことになっています」
「え?」
慌てた様子でアルは思わず自分の髪を触る。その様子を見てアイリスは思わずクスクスと笑った。
「あー、子供の頃は姉さんに切ってもらってたんだけどね。寮に入ってからは面倒でさ……。そろそろ切らないとなぁ」
「アルさんはお姉さんが居らっしゃるのですね。寮と言うのは?」
「うんうん。ついでに言うと兄さんが2人、妹が1人だよ。寮は領都にある中級学校の寮だよ。今年卒業したばっかりなんだ」
彼はそんなことを言いながら何度も髪を手櫛で梳いていく。ぼさぼさの髪は少しずつまとまってゆき、しばらくするとようやく1つに纏めることができた。最後に紐を何度か巻き付けて縛る。
「良かったら髪を切りましょうか? それほど上手というわけではないですが、一応うちの家族の髪は全部私が切っています」
「へぇ、そいつは助かるな。でも今日はいろいろと用事があるから、また時間がある時にお願いしてもいい?」
アルはそう言うと嬉しそうに微笑んだ。
「はい、もちろん。気軽に声をかけてください」
「うん、じゃぁ、僕は出かけてくる……そうだ、レビ商会の店と冒険者ギルドの場所を教えてくれない?」
「もちろん良いですよ。この都市は丘を利用して建てられていて領主様の館が一番高い所にあります。そこから放射線状に東西南北に大通りと呼ばれる道路が伸びています。そして同心円状に環路と呼ばれる広い道路があり、領主の館に近い方から1番環路、2番環路と名付けられています。この店は東大通りと3番環路に一番近いので東3番街です。同じ東3番街でもうちのように東大通りの北側は比較的安全ですが、南側の方はあまり治安が良くないので気を付けてください。レビ商会の本店は北1番街、冒険者ギルドは西2番街にあります。どちらも大きい建物で大通りと環路の交差点に近い所にありますので行けばすぐわかるでしょう」
アイリスの説明にアルは頷いた。計画的に作られた都市というだけあって、広い通りはかなりわかりやすく作られているようだ。二人の会話を聞いていたのか、近づいてきた母親のローレインが黒パンを一切れ差し出した。
「悪いけど、もうシチューは片付けたから朝食はこれだけだよ。うちの宿では朝食は朝2番の鐘から3番の間、夕食は日暮れの鐘が鳴ってから1時間後までの間にテーブルについてくれないと出せないって事になってるのよ。そうしないと片付けられないからね」
「学校の寮も同じような感じでした。もちろんそれで良いです」
アルは素直にそのパンを受け取るとぱくりと咥えた。もぐもぐしながらベルトのナイフやベルトポーチを確かめる。
「OK、じゃぁちょっと出かけてきます。日暮れの鐘までには帰ります。昨日言ったように怪しい男たちが居るかもしれません。気を付けてくださいね」
「わかったよ。忠告ありがとう」「アルさんも気を付けて」
彼はローレインとアイリスに軽く手を振り元気に出かけていったのだった。
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2023.5.4 中庭→裏庭に訂正