幕開けの断末魔
明るい陽射しに目を細めて俺は窓の外をぼんやりと眺めていた。教室の中には俺以外の人間はいない。クラスメートは今頃外のグラウンドで走っているはずだ。自分は絶対に走らないくせに生徒にはペースアップばかり強制してくる中年の体育教師の顔を思い浮かべて俺は髪をかき回す。体育教師を名乗るくせに脂肪の塊のような身体に成り果てた男の言う事なんかきいてられナイ。
幸いこの学校のロッカーと言うのがちょっとした別室状態になっているのだ。ロッカー室と呼べるほど大した物じゃないのだが、何と説明すればよいか、教室の奥に壁と扉が取り付けられていて、その中に小学生のランドセル入れのようなロッカーがあるのである。鍵もないロッカーなのでお互いのプライバシーなぞナイに等しいが、移動教室の授業をやり過ごすには最適な空間だ。どうせ教師はおざなりな出席確認しかしないのだからバレる事もない。
溜息をついて広げていた数学を閉じた。授業をサボってるからって煙草吸ってる訳でもなけりゃエロ動画にウツツを抜かしてる訳でもない。俺はこれでも優等生なのだ。見かけによらず勉強なんかしちゃってるのだ。あぁ神様オドロキデスこの僕がベンキョーなんかしちゃった日にはもう。
胸中で投げやりに呟いてスマートフォンのグループ機能で隣のクラスの志摩由希人に通話する。都合よく隣も休み、といいたい所だが実は最初から移動の時間が噛み合ってる事は確認済みである。
三回のコール音の後でやたらと間延びした、のんびりとした少年の声が答えた。
「リョウ? そろそろだよねぇ、ふわふわ」
気の抜けた欠伸をかましてヤツが立ち上がったのが気配で分かった。ちなみに隣は今本当なら芸術選択のはずだった。
「オレから行こっか? 一緒に動く?」
ヤツの声は相も変わらず呑気な物だ。もうすぐ三月だが、ヤツの言葉がこれからの季節結構な子守歌になるに違いない。今に始まった事でもないが。
ともかくも待つだけだった頭を切り替える。お仕事の時間だ。教室の後ろのドアを引き開ける。静まり返った校舎にガラガラとデカい音が響いてぎくりとする。見つかったら元も子もない。首だけ出して廊下を覗く俺に同じように首だけ出した志摩が口の動きだけで『オッケー』と言って頷いた。頷き返して俺たちは同時に廊下に踊り出る。
夜でもないのにヤツらの気配が強烈に俺の感覚を刺激した。教室のドアを閉め、素早く両手の指を組み合わせる。大きく振りかぶり、杭を打ち込むように地面へと叩きつけたその手の平から、収束した力が校舎中に張り巡らされた結界符へと、幾筋もの光の鎖を描いた。
もちろん俺や志摩にしか見えない特殊な光だ。鎖が校舎を包み結合した刹那、微かに視界が霞んだ。昼間の明るい空に見えるはずのない黒い月が浮かび、濃厚な紫色の霧がたちこめる。よし、完璧だ。志摩がゆっくりと口元を吊り上げ、天使のようと称される微笑からシニカルなひねくれた笑みへと表情を一変させる。
視界のうまく利かない校舎の奥で、生物室から髪の長い一人の少女が飛び出してきた。俺の妹の、冴島恵子だ。キッと睨み上げて動かない視線の先、生物室の扉をブチ破って、デカい上半身が現れた!
志摩が走り出す。それを追いながら俺はその巨大なツラを睨んだ。見れば見るほど凶悪な面構えだ。馬鹿でかい体躯に似合わない小さな頭部の殆どをトンボのような複眼が占めている。唇も何もないただの亀裂がヤツの口だったらしく、咆哮とともにその亀裂が信じられないほど大きく広がった。
手にした呪符を投げつけて、恵子はセーラー服の裡から恵子の二の腕まである大きなデザートイーグルを取り出した。いつも思うのだが一体どうやってあのデカい銃を隠しているのだろう……。
後退しながら引き金を引いた恵子の指に、巨大な銃が火を噴いた。突き進んだ散弾が複眼を吹き飛ばす!
ぎしゃあああぁぁぁぁぁっ‼
錆びついた鉄を擦り合わせたような耳障りな咆哮を上げて、巨大な上半身が仰け反る。傷口から噴き出した気色の悪い緑色の液体が志摩と恵子にかかる寸前に、追いついた俺が突き出した腕を軸に展開した結界で楯を作る。
ジャッと油をひいたような音が響き、結界の表面にぶちまけられた液から白煙が上がった。結界を解くと同時に強烈な酸の匂いが鼻をつく。
「ナイスタイミングお兄ちゃんっ!」
大粒の汗を流して、恵子がこちらを振り向きもしないまま歓声を上げた。やはり厳しい視線を眼前の化け物に向けたまま、志摩が軽口を叩く。
「酷いねぇ恵ちゃんオレには何にもないの? リョウよりオレのほうが速かったのになー」
「だって由希ちゃん速かったけど何にもしてないじゃん。それよりこいつ、あたしの手に負える相手?」
その言葉に俺も志摩を見た。俺も初見のこの生物、俺の管轄なんだろうか?
返事よりも先にヤツは眉間に皺を寄せて飛び退いた。吹き飛んだ複眼を抑えてヤツが俺達を、見た!
「うおっ! 危ねぇッ!」
叫んで間一髪身を捻る。棍棒のようなヤツの腕が力任せにさっきまで俺の立っていた場所を薙ぎ、ついでに階段の手摺を粉砕していく。ケタ外れの破壊力に、掌に汗がにじむ。
「由希ちゃん、どうなの⁉」
恵子が叫んだ。志摩が怒鳴るように返す。
「恵ちゃん、戻れ! こいつはリョウの相手だ!」
「ちッ、俺か‼」
舌打ちと共に覚悟を決めて跳躍する。腰の鞘からランドールナイフを引き抜いて左手に構え、空いた右腕を顔の前でとめる。ソレの頭上から俺は全体重をかけてランドールナイフを繰り出した。右手で張った結界を楯代わりに、ナイフはそのままに跳び退る。
嫌な手応えがあった。失敗、だ。ヤツは怒り狂った眼でそれを払いのけ、とうとう生物室の壁をほぼ全壊にまで破ってその巨体で突進してきた。
慌てて避けながら払いのけられたナイフを取り返す。志摩が緊張に強張った表情で恵子を庇い、両腕を胸の前で交差させた。その手に、志摩の身長の二倍はあろうかという大振りな赤光の槍が浮かび上がった。夜叉槍と呼んでいる志摩の愛槍だ。そのデカさからは想像もつかない素早さでヤツがその光に反応する。ごつい上半身とは見合わない細い足で立ち上がり、潰れた眼から手を放して咆哮する。振り下ろされた腕を、志摩が夜叉槍で受け止めた。その怪力に、志摩の額に脂汗が浮き出た。恵子がデザートイーグルにショットシェルを装填する。俺は無防備になったヤツの背後で、ランドールナイフを床に突き立てた。
ナイフを透かして彫り込まれた魔法陣が黒い月光に影を落とす。複雑な紋様を刻んだ冥界と人間界のゲートが大きく口を開けた!
「急いでお兄ちゃん!」
叫んだ恵子のデザートイーグルが再度火を噴く。腕が吹き飛んで、またも酸が飛び散ったが今度は俺が飛び込んでいる余裕はなかった。恵子を抱いて志摩が跳ぶ。微かに志摩の制服から白煙が上がった。
「さぁ、頼むぜ!」
祈って俺は組んだ腕を額につける。念を込めて、喚ぶ。
「出でよ魔界の使徒、闇の眷属よ! 滅びの翼以て我に力を貸し賜え! 出て来い、魔精霊‼」
魔法陣の中央から俺の召喚した契り魔が跪いた姿勢でせり上がってくる。背に大きな羽根を持った全身が純白の少年だ。その体に体毛はなく、頭部から首筋にかけてを青い鱗が覆っているのみだ。かっと見開いた目は金色で、その中央の細く長い瞳孔が、きりっと険しく腕を飛ばされて膝を突いたヤツを睨んだ。
「我ニ任セヨ、召喚士ヨ」
呟いて魔精霊はヤツの背中に飛び乗った。身軽な動きは猿のようだ。奇妙な容姿だが、俺の持っている悪魔の中ではまあ強いと言える。違和感に身を捩ったヤツの背の上で、魔精霊の全身から光が迸った。収束したそれは一筋の直線を描いてヤツの心臓を貫く。断末魔の、凄絶な悲鳴と共にソレは倒れた……! 屍が黒い光を放って輝きだし、その収束と同時に小さな玉に変貌する。紫色のその玉を、志摩が拾い上げた。恵子が立ち上がる。三人とも、いきなりの強敵で冷や汗をかいていた。
「はい、リョウ。待ってるよ魔精霊」
「ああ、魔精霊!」
俺の呼び声に答えて魔精霊が俊敏な動きで俺の元へと戻って来る。片膝をついて辞儀をした彼に、俺はその玉を手渡した。目しかナイのだからどんな表情なのかいまいち分からないが、魔精霊は素早くそれを受け取って大切そうに握り締めた。
悪魔の魔力の結晶である『玉』。大抵の悪魔がそれを喰って生体エネルギーを得るのだが、玉と悪魔には相性のようなものがあるらしい。紫の玉は魔精と精霊の中間にいる悪魔しか受け取らない。本当は最強の悪魔を喚びたかったのだが、俺の使う悪魔は原則として倒した獲物の玉を報酬としてしか働かないので、仕方なく魔精霊を召喚したのである。
しかしまぁ、サイアクの場合はめちゃめちゃ強い悪魔に対して最低レベルの悪魔しか召喚できない事もあるので……今回は運が良かったと言える。ま、当然だが逆の場合でめちゃくちゃ弱い悪魔相手に大天使とか竜神とか最強のヤツしか喚べない時もある。それはそれで空しかったりするので、そう言う場合は自分の手で倒すのだが。一礼して消えた魔精霊を見送って、俺は溜息をついた。毎度のことながら終わった瞬間に疲れがここぞとばかりに襲ってくる。
「お疲れ様リョウ。でもまだ先は長いよ」
しれっとした志摩の言葉に俺は目を剥いた。恵子が疲れたように嘆息して俺を見る。
「あたしも今聞いた。このガッコに四体いるんだってさ。まぁ、レベル別にざっと聞いたとこで、今のヤツが最強っぽいから、そうしんどくないけど」
「あっそ……」
それだけ呟いて前髪をかき回す。よくもまぁそんな呑気な事が言えるな、こいつらは……。改めてその神経の図太さに呆れるばかりだ。
「急いで、この時間中しかないよ、三人で回れるのは」
志摩の言葉に俺はしぶしぶ重い腰を上げる。仕方がない、癪に障るがヤツの言うとおりである。
「大丈夫だよ。この学校には悪魔はあと一体だから。残りは恵ちゃんの管轄」
「しょうがねぇ、行くか!」
気合いを入れなおした俺に恵子が呟いた。
「その必要ナシ。向こうからきてくれたみたいだよ」
三人に緊張が走った。壊滅状態の階段の下から響いていた靴音が、ぴたりと止まった……。