東京上京と聖書の学び
日本に帰国後、東京で働くことを決め、上京した。アルバイトをしながら、就職活動をしていたが、最初は本当にうまくいかず、次第に自信を失っていった。
海外ではなにかの殻を突き破ったかのように、積極的に行動して、生き生きとしていた私はどこへ行ってしまったのだろう。
日本での社会人経験がなかったので、社会人マナーや感覚が良くわからず、うまく立ち振る舞えなかったことも一因だった。留学前まで日本で生活していたのに、日本での社会に馴染めない。心だけが焦る。
海外と日本のどっちつかずの自分が存在する。どこに合わせて、生きていけばいいのかが分からず、内面は軸がないまま、表面では自分をよく見せようと、もがきながら生きていた。
けれども、幸運なことに、ある時、やりたかった仕事に就くことが決まった。ようやく何も見えなかったトンネルの中に光が射したようで、心の底から嬉しかった。
そうして、働き始めて間もないある休日のことだった。買い物を終えて一人でいた私は、新宿駅西口で若い二人の女性に声をかけられた。
「手相の勉強をしてるんです。少し見せて頂けませんか」
よくわからなかったけれど、もう用事もなかったので、少しならいいやと思い、手を見せた。
「わぁ、はっきりとした線ですね。お姉さん、今転換期を迎えてませんか」
と聞かれた。東京に出てきて、やりたい仕事で働けている。
「はい、新しい職場で働きはじめました」
すると、すかさず女性が言った。
「すごいですね。やっぱりそうなんだ。あの、もしよろしければ、ここから近いところに、私の先生がいるんです。もう少し詳しく見てもらいませんか」
働き始めてすぐのこのタイミングで、心がとても満たされていたから、何でも応じられたのだろう。
「少しだけならいいですよ」
と伝えて、彼女達の後に続いた。
着いた場所はアパートの一室だった。部屋は三室ほどあり、奥の机と椅子がある個室へ通された。少しぽっちゃりとして、気がよさそうなおじさんがいた。小さい目でこちらを見て、愛想よく自己紹介をされた。
「僕は彼女達の先生で、普段鑑定をやってる者なんです。よろしくお願いします」
四柱推命を使って総合的にみてくださった後で、最後におじさんは言った。
「ここは心や聖書について学んでいくところなんです。『陰徳積善』という言葉を知っていますか。人が見えないところで陰で徳を積んで、善を積みなさいという意味で、積み重ねていったら、不思議とご縁も変わってくるんですよね。よければ、一緒に学んでみませんか」
すぐにうんとは言えなかったが、お試しで数回行ってみることにした。
そうして、心や聖書の勉強は始まった。週一ぐらいのペースで、三十分程の映像をみて、それについての感想を書き、お茶を飲みながら、担当と感想を話す。映像の内容は、過去のテレビで放映されていた人物系ドキュメンタリー番組や聖書の講義などだった。
昔から人の生き方を垣間見ることに興味があった私にとって、伝記やドキュメンタリーは好きなジャンルの一つだった。歴史の偉人が何を考え、どのように生き、時代に足跡を残していったのかを知ることが面白かった。高校生の時には司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にはまり、卒業後、一人で高知県にある坂本龍馬像を拝みに行き、しばらく龍馬の携帯ストラップをつけていた程である。
そして、聖書の講義にも興味深いものがあった。というのも、留学して、亜耶ちゃんのホームステイ先のメリッサという女性がとても敬虔なクリスチャンだったからだった。食事の際のお祈り、バイブルスタディ、日曜礼拝など、メリッサの生活の中にクリスチャンの習慣は含まれていた。亜耶ちゃんに会いに彼女の家に行くと、生活の中に信仰がある彼女の姿を直に見ていたし、彼女と一緒に食事をする時には神様や聖書の話も聞いていた。
私自身は正月の初詣、お葬式は仏式といったいわゆる一般的な日本の家庭で育ち、神様は困ったときの神頼みぐらいであった。
高校はたまたまキリスト教系の学校で、そこで初めてイエスキリストの話を知っていった。けれども、聖書の話はあまりにもファンタジーな内容で、礼拝でも面白そうな説教以外はほとんど目を閉じて子守歌のように聞いていた。海外に出るとメリッサのような人達には出会ったけれど、基本的には「人は人、自分は自分」という他人がすることを尊重するが、自分は染まらないスタンスであった。
それでも、一つだけ疑問に思っていたことがあった。それは、イエスキリストが隣人愛を説いている一方で、一神教ゆえの他宗教に対する排他性や宗教戦争がなぜ起こるのかという矛盾についてであった。神様によって救われるのなら、世界が平和になる道を知りたかった。
そうした理由で聖書の学びに抵抗はなく、むしろ興味があった。
「人類の祖であるアダムとエバは堕落したけれども、神様は私達人間の親であって、本当は時満ちれば、アダムとエバに神の祝福を与え、家庭を築くことを願われていた。だから、男女が純潔を守って、幸せな家庭を築いていくことが大切なんだ」という内容は、これまでファンタジーに過ぎなかった物語から現在を生きる私達にも通ずるメッセージだったのだという気づきを与えられるきっかけを私にもたらした。そして、世界平和が実現されれば、宗教も必要ないのだという。そういう内容が私の心を惹きつけ、結局私は続けて通うことにしたのだった。
学び続けて半年くらいたったある日のこと、この聖書の解釈がある新興宗教の教えであることが明かされた。聞いたこともない宗教名だったので、家に帰ってインターネットで検索してみた。
日本では過去マスコミにより報道され、社会問題もあったヤバい宗教らしい。その事実を知って一抹の不安は感じたが、そのまま続けることにし、担当の人に連絡をした。
いつもの担当の人が迎えてくれて、そのままお茶を飲みながら話した。
「新興宗教と聞いてどう感じたかな?」
担当の人の方がそわそわと少し緊張しながら、私の方を見つめている。そんなに危ない宗教なのだろうか……私は率直に伝えた。
「インターネットでは調べました。確かに社会的に色々言われていることはありますが、私はここで学んでいることや担当さんに変な思いは感じないので、自分が見たことを信じて続けようと思います」
自分の言葉に嘘はなかった。理由は二つあった。
一つは日本のマスメディアをあまり信用していなかった。一度海外に出て、日本に戻ってきてから、朝テレビのニュースを見ようとチャンネルを変えても、どの局も同じような内容を繰り返しやっているように見えて、報道されていることは一部であると感じるようになっていた。
そして、もう一つは組織の不祥事や問題と組織全体は必ずしもイコールではないと思っていた。
宗教団体や企業関係なく組織の中で不祥事が生じると、その不祥事そのものやその対応、責任に目がいくし、信頼も失う。けれど、それは常に問題イコール組織全体のわけではないから、物事の全体像や詳細を捉えながら判断することが必要だと常々感じていた。
だから、今の時点で自分の中ではさほど大きな問題として捉えることなく、そのまま続けたのだった。




