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2022年 光の家庭  作者: ヒトミ
第二部 日本の陰陽結び
23/26

三輪山と親子の陰陽結び

 十一月二十二日、降水確率百パーセント、関西は朝から大雨が降っていた。予定では、今日奈良の三輪山や石上神宮に行くつもりだった。石上神宮で鎮魂祭が行われる日だったからだ。   

 けれども、この雨だ。早々に諦めた。

 一方で、島根での陰陽結びが成就したことによる浄化の雨とも感じた。昨日も秋晴れの快晴で、明日も晴れ予報が出ていて、完全に今日だけの大雨だったからだ。

 しんしんと降りそそぐ雨を眺めながら、奈良へ行く日程を延期した。


 十一月二十五日、早朝、奈良県桜井市にある大神神社へまずは向かった。父さんも一緒について来てくれた。大神神社おおみわじんじゃ大物主大神おおものぬしおおかみを祀っており、ご祭神が鎮座する山そのものがご神体となっており、本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの形を伝えている最古の神社である。


 『大物主大神が「饒速日命」とわかって、改めて大神神社の調査をした。

  ここは、饒速日命が住んだ場所で、この辺一帯の三輪の地に

  子孫一族が住んでいた。

  父、須佐之男は出雲の須賀の三室山(別名を須我山、御室山という)の麓に

  住み、饒速日はそこで生まれた。

  大和へきた饒速日は、自分の住居の後ろの山を「三室山みむろやま」と名付けた。

  三諸山みもろやま三輪山みわやま等、いろいろな呼び名になっているが、

  正しくは、三室山だった。

  さらに墓陵は、須佐之男の熊野山と同じ作り方の日本でも珍しい磐座形式である。

  (中略) 須佐之男は住んでいた須賀の地の前に出雲中の物々交換の市を

  開いたと伝わっているが、この饒速日も父にならって、自分の住居の東に

  海石榴市つばいちという市を開いて、そこで大和中の物資の交換市をやった。

  とにかく、父の須佐之男を非常に尊敬して、大和へきても、

  そういうことをみんな父親の須佐之男の通りにやったということが残っている。』 

  原田常治『記紀以前の資料による古代日本正史』(同志社、一九七六年)

  一七四、一七七頁、


 本に書いてあった、須賀の地に先日訪れ、今、大神神社、三輪山を目の前にしているのだ。それも、父を慕って饒速日が生きたこの地に、今、父さんと来ている。流れるように導かれて来たこの瞬間に、ワクワクすると共になんだか不思議な気分を感じるのだった。

 神社の入口にある茶色の木製の二の鳥居をくぐると、森のような木々の中に入り、歩を進める。その先には、左側に心身を祓い清める祓戸の神様を祀る「祓戸神社」と夫婦岩があった。

 さらに参道を奥に進むと、檜皮葺で、唐破風向拝がついた切妻造の拝殿だ。横約十七メートル、縦約八メートル、白木造りで立派な拝殿は三ツ鳥居と共に国の重要文化財に指定されているらしい。残念ながらコロナ禍で、実際の三ツ鳥居は見ることができなかったのだが、禁足地と拝殿の間には結界として、明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた三ツ鳥居が設けられているという。

 拝殿を前に左手側には参集殿があり、その側にあるスロープを通って下りると、檜を用いた木造の大きな祈祷殿があった。祈祷殿を前に左側には「くすり道」と呼ばれている細道があり、進んでいくと、三輪の神様の荒魂を祀る「狭井さい神社」に到着した。ここに三輪山の登拝口がある。社務所にて受付をし、「三輪山参拝証」のたすきをもらい、入山した。

 古来より、大物主大神が鎮まる神の山とされてきた三輪山は、かつては禁足地として、入山が厳しく制限されていた聖域である。登拝中には、白い行衣を着て裸足で登っていく女性の姿も見かけた。標高四六七メートルの三輪山は山頂まで約二キロメートルの道のりで、登下山に約二時間かかる。遠くから眺めるとなだらかな円錐形の山なのだが、登拝だと急な勾配や階段もあり、なかなかの道である。

 登拝口を入ると、階段の急坂を上がり、しばらく平坦な尾根道を歩く。その先、細い岨道の急坂を上っていくと、休憩所の小屋が見えてくる。ここには「三光の瀧」と呼ばれる瀧があり、滝行をするための更衣室が小屋の中に設置されている。

 三光の瀧の先、さらに急な岨道を登っていくと、大岩と大木が連なった「中津磐座なかついわくら」と呼ばれる磐座が鎮座している。ここで、少しお祈りをして、その先を進む。急勾配な道が続いた後、少しなだらかな道に入り、最後急坂を登れば、「高宮神社こうのみやじんじゃ」と呼ばれる社が見え、その奥が山頂だ。巨大な石群を注連縄で囲んである「奥津磐座」が鎮座している。ここに饒速日命がいらっしゃるのだ。深く感動し、手を合わせ、目を閉じ、この日本を創って下さった祖である饒速日命に感謝を捧げた。

 参拝を終え、下山し、たすきを返納した。狭井神社を出て、「山の辺のやまのべのみち」と呼ばれる古道を通って約一・五キロメートル北側にある「檜原神社ひばらじんじゃ」へ向かった。

 三輪山の北麓にある檜原神社は、第十代崇神天皇の代、伊勢神宮鎮座前に、豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことが皇居に祀られていた天照大御神をお遷し、祀ったのがはじまりである。伊勢に天照大御神が鎮座された後も、祀り続けられ、元伊勢とも呼ばれている。

 神社には、大神神社と同じ形の三つの鳥居が連なった三ツ鳥居がある。鳥居越しにご神体である三輪山を拝む形をとっていて、拝殿・本殿はない。

 ここでの参拝を終え、近くにあった茶屋で三輪そうめんを食べ、次に向かった。

 奈良県天理市布留町にある石上神宮を目指し、山の辺の道を進んだ。奈良盆地の山裾を縫うように南北に走るこの古道は、桜井・三輪から天理・奈良へと通じ、桜井駅から天理駅までは約十六キロメートルの距離だ。

 沿道には古墳や遺跡、古い社寺が多くあり、各所に標識やトイレが設置されていて、観光客に配慮されたコースとなっている。秋の清々しい天気の中、ハイキングを楽しむたくさんの人達とすれ違い、挨拶を交わす。柑橘系の実や柿がたくさん実った果樹園の側、家屋の間の裏道のような細道、大きな古墳の周りの道、踏みならされた山道など、道中、様々な道を通っていった。のどかでゆったりとした空気と風景を楽しみながら、私達は進んでいくのだった。歩きながら、父さんは言った。

「おまえとこうやって、この山道を歩くとは思ってもみなかった」

 その言葉がこそばゆくも、とても嬉しかった。父さんは山歩きが好きで、言葉数は多くないが、穏やかで優しい人だった。一方で、私は人と深い話をするのが好きだから、好きな人とはよく話す。けれども、大好きな父と話す共通の話題みたいなものが少なく、父と深く繋がりきれないことに、どこかもどかしさを感じていた。そして、昔の私は山歩きにもあまり興味がなかった。

 だから、遠い昔に放った「父と深く関わりたい」という願いが、このような形で、今回実現できたことが何よりも嬉しかった。そこに多くの言葉があったわけではないけれど、同じ道を歩き、同じ時を共有して、父が与えてくれた言葉が、私をなによりも幸せにしたのだった。

 石上神宮に到着した。布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ布留御魂大神ふるのみたまのおおかみ布都斯魂大神ふつひみたまのおおかみを主祭神とし、古代の豪族、物部氏の総氏神として信仰されてきた日本最古の神社の一つである。

 この主祭神が須佐之男と饒速日命のことであると「古代日本正史」の本で書いてあった。


 『須佐之男の父親がフツ(布都)、須佐之男がフツシ(布都斯)、

  大和へきて天照国照大神になった五番目の饒速日はフル(布留)という。

  このフルを中心にして四代を祀った天理市の石上神宮を布留の社といい、

  その辺りを布留の川、布留の里等、いろいろこの布留という言葉は、

  万葉集などにも歌われている。(中略)

  フツ、フツシ、フル、ウガ、ミククル等、出雲一族には、日本名と別に

  蒙古満州系の名前があることが判明した。

  これで、石上神宮が、日本最高の神宮であったことが理解できた。

  布都──布都斯──布留──宇摩志麻治と四代を祀り、

  この宇摩志麻治から政権を受け継いだのが養子の神武天皇であった。』 

  原田常治『記紀以前の資料による古代日本正史』(同志社、一九七六年)

  一一八、一一九、一八七頁


 早速、境内に入ってみた。山の辺の道から来ると、左手に鏡池があり、その先には放し飼いにされているニワトリが約三十羽いる境内に繋がる。白や黒、茶色が混ざったもの、大小様々なニワトリ達がきままに動き回っている脇を通って、朱色塗りの柱に緑の窓格子が目を引く廻廊がある右側へと進む。石段を登っていくと、檜皮葺き入母屋造の壮麗なる楼門が構え、その先に檜皮葺き入母屋造で一間の向拝がつく国宝の拝殿が堂々と建っていた。この神宮には、元々、本殿はなく、古来より禁足地が崇拝の対象とされてきた。しかし、明治時代に大宮司が、政府の許可を得て禁足地を発掘し、神剣をはじめ、玉類、剣、矛が出土し、その後、神剣を祀る本殿が建てられたそうだ。禁足地は現在でも拝殿後方にあり、最も神聖な霊域とされ、石瑞垣で囲まれている。

 その他に、楼門の向かい側には、摂社である出雲健雄神社、天神社、七座社もあった。

 全ての参拝を終え、天理駅に向かった。桜井駅から天理駅までの約十六キロメートルの道を歩ききったのだ。へとへとだったけれど、親子で成し遂げたという達成感を感じた一日だった。父須佐之男と息子饒速日の親子の和合の陰陽結びのエネルギーをこの地で受け取ったのだった。

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