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2022年 光の家庭  作者: ヒトミ
第二部 日本の陰陽結び
15/26

吉田茂翁と大磯の地

 六月にメッセージを受け、二月に渡来人のことを調べてからずっと気になっていた大磯のことが頭に浮かんでいた。やっぱり一度行ってみようと思い立ち、大磯について調べてみた。大磯ロングビーチぐらいしか聞いたことがなかった大磯は明治中期から昭和初期にかけて多くの政財界の要人達が邸宅や別荘を築いた避暑地として有名な地だったことがわかった。

 吉田茂、伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、どの人物も名だたる近代歴史の大物達だ。その中でひときわ目についた人物がいた。

 吉田茂翁──私は翁と誕生日が同じである。戦後の首相だったことは知っていた。けれども、政治には疎かったので、翁について調べてみた。

 戦前は外交官として長年勤め、戦後、総理大臣として、サンフランシスコ平和条約や日米安全保障条約に調印し、優れた国際的な視野を持って、日本の現状を捉え、混迷期にあった日本を立て直していった人であった。

 ウィットに富んだジョークを交わすユーモアさや頑固な一面も持つと同時に、常に国を愛し伝統保守に務め、国のために尽力した人だと翁の生い立ちやエピソードを読んで感じたのだった。

 そして、翁の「グッド・ルーザー(よき敗者)」という言葉が心に残った。


 『戦後の日本において成し遂げられたことは、

  ある意味では明治の日本においておこったことの再現であり、

  ある意味では明治の日本において始められたことの完成であった。

  戦後の日本も、明治の日本も、ともに、

  大きな挑戦にこたえて大胆に行動した。

  明治の日本人は見知らぬ強力な文明に直面した時、

  長い間親しんで来た習慣を捨てて、異国の文明を取り入れることを恐れなかった。

  同じように、戦後の日本人は、敗戦と占領という状況に直面したとき、

  占領軍の指示した大変革に対して男らしい態度をとり、

  改革のなかに日本を再建する方法を見いだそうとした。

  日本人は「グッド・ルーザー」(よき敗者)だったのである』

  吉田 茂 『日本を決定した百年 附・思い出す侭』

(中央公論新社、一九九九年)一二二、一二三頁


 幕末・明治時代、尊王攘夷に敗れた武士達が、明治維新で異国の文明を取り入れて、列強国の一員として勝ち残るという目的を達成した。また、終戦後は敗戦を受け入れ、復興、経済発展を成し遂げた。その約七十七年の流れで捉えるなら、二○二○年東京オリンピックを開催するか否かで世間は今揺れているけれど、これが起点となり、開催を受け入れた令和の私達は、ここから大きく変容を遂げ、新しい時代の日本の国の形が出来てくるのだろう。

 翁を通して、そんな気づきを与えられ、六月二十五日、神奈川県大磯の地に行った。


 大磯駅に着き、観光協会で地図をもらう。目的地の旧吉田茂邸と高麗山・高来神社は真逆に位置していた。駅から旧吉田茂邸までは片道約三十分、大きな道をひたすら真っ直ぐ進む。

 途中、旧大隈重信別邸や陸奥宗光別邸跡がある明治記念大磯邸園も少し覗きながら、目的地へ向かった。家々の間からは時折、海も見えた。相模湾はすぐそこなのだ。

 しばらく歩くと、大磯城山公園の大きな敷地が見え、その一画に邸宅はあった。ここが、翁が晩年まで過ごした場所で、引退後も翁の意向を伺いに、多くの財政界の要人達が絶えることなく訪れた地なのだ。大磯の翁への訪問はいつしか「大磯詣で」とまで言われるようになったそうだ。

 私も翁に会いに、「大磯詣で」をしているような気分で、檜皮葺き屋根の兜門に足を踏み入れた。綺麗な日本庭園が広がり、すっきりと整った外観が見えた。

 近代数寄屋の邸宅は和と洋が融合された造りとなっており、応接間棟と後に増築された新館が連なっているが、これらは二○○九年に一度焼失し、復元されたものらしい。

 まず、楓の間と呼ばれる応接間に入る。日がよく入るフローリングの部屋で、そこには客人と談話するソファーセットが置いてあった。二階へ進むと、書斎がある。限られた身内以外は許可なく入れないプライベートな和室の空間には、掘りごたつと書棚があった。そして、部屋の隣には舟形の風呂もある。

 一階に降り、新館へと移る。ローズルームと呼ばれる大きな食堂はアールデコ調で皮張りの壁となっており、中央には長テーブルが設置され、ここで来客をもてなしていたようだ。

 食堂を出ると、階段があり、二階には金の間と銀の間の二部屋がある。金の間は賓客をもてなす応接間として使われ、箱根や富士山、相模湾といった景色を一望できる場だ。一方で、銀の間は書斎兼寝室として使われ、ここで翁は最期を迎えたという。

 邸宅を出て、庭も回った。明治維新の元勲と吉田茂達を祀った「七賢堂」や愛犬の墓もあった。

 そして、吉田茂像に向かう。相模湾が綺麗に見渡せる場所に銅像の吉田茂翁はどっしりと立っていた。にっこりと気前よさそうに笑って、暖かく迎えてくれている。翁と同じ誕生日で、こうして縁をもって、この場所に来れたことが嬉しかった。翁が生きていたら、今のこの日本を見てどう感じるのだろう。

 激動の時代に国を愛し、国家再建に尽くしてくださった吉田茂翁に感謝の言葉を伝え、深々と一礼をした。翁からは今を生きる私に時代のバトンを渡されたような気がした。翁の後ろ一面に広がった海は青くキラキラと輝き、翁と共に応援してくれているようだった。

「この時代を精一杯生きよう」

 心に固く誓って、高来神社へ向かった。


 高来神社に着いた頃には夕方に差し掛かっていた。旧吉田茂邸とは真逆の方向に位置する神社は大磯駅を越えてさらに先にあり、バスで向かった。車中、下校中の小学生達が賑やかに群がりながら乗り込んできた。この辺りの小学生はバス通学があるようだ。身長の高低があり、学年も様々な子がいたが、降車の際、高学年の子が低学年の子に気を使って声をかけていて、見ていて微笑ましかった。

 降車駅についた。このあたり一帯が「高麗こま」と呼ばれている。六六八年、朝鮮の高句麗が滅亡後に、高句麗の王族であった若光の一味が渡来して上陸した地だとされている。

 高来神社は神皇産霊神かみむすびのかみ、瓊々杵尊ににぎのみこと、神功皇后、応神天皇を祭神としている。元々、高麗寺に属していたが、明治の神仏分離によって、高麗神社となり、明治三十年に現在の社名に改称されたようだ。

 大きな白い石鳥居を二つ通ると、石畳の参道が続き、その先の階段を上れば、本殿だ。古めかしい素木造りの建物は、日高市の立派な高麗神社の本殿とは似ても似つかず、少し拍子抜けしてしまったが、静かに佇んで歴史を感じさせるものだった。

 境内の裏からは高麗山へと続く道がある。標高一六八メートルの高麗山は、江戸時代まで高麗寺の霊域とされていた山である。女坂の山道を登り、頂上にある小さな石祠も参拝し、一日を終えた。たくさんのことが感じられた、大磯との出会いだった。

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