私の願いと少女時代
「わたし」という人生がたった一度っきりならば、最高の人生と幸福を味わってみたかった。
「最高の人生」「最高の幸福」が何によって形づくるのかは人によって違うだろう。
私にとっては、深いレベルで繋がり、全てを話せる関係と「生きる」を共有し合える場、そして、それは最高のパートナーと築く家庭だった。
「結婚はある程度妥協だからね。百パーセント全ていいってわけにはいかないよ。」
お酒の席の会話でなにげなく出た年上の既婚の友人の言葉だった。彼がどれだけ酔っていたのか、本意だったのかはわからない。
けれども、その些細な言葉がなぜか私の心にチクっと刺さって後を引いた。
妥協を感じる結婚をなぜしたのだろう。諦めなのか?結婚した後の実感なのだろうか。
どこか妥協した結婚というものがその友人の中では存在していたかもしれないが、私の中ではありえなかった。
そうはっきりと言えるのは、とても恵まれた家庭で育ったからなのだと思う。
経済的・物質的な豊かさだけでなく、縁や絆、愛情という部分においてもとても恵まれていた。
両親は正反対の気質を持っていたが、お互い尊重し、仲が良かった。勉強や時事問題について聞くと、いつも丁寧に教えてくれた知的で優しい父親。一方で、大らかでおしゃべり好きな母親は、録画したドラマを二倍速で見る、快活な人だった。
両親だけでなく、親戚もそうだった。常に夫婦漫才をしているかのような大阪の叔父ちゃん、叔母ちゃん夫婦。陽気な関西人気質の横浜の叔父さんと上品な叔母さん夫婦。絵画やアートが共通の趣味の岡山の叔父さん、叔母さん夫婦。夫婦の個性やカラーは違えど、みんな夫婦仲が良かった。
夏休みや年末年始にはそんな親戚家族が祖父母の家に一堂に集まる。たくさんの笑顔と尽きることのないおしゃべりは夜まで続き、子供達は子供同士で遊ぶのだった。長女だった私は、いとこのお兄ちゃん、お姉ちゃんに遊んでもらうことが大好きで、ずっと後をついてまわった。
とりわけ母方の親族達は、とても賑やかだった。祖母が話すのを見て、「お義母さんはマシンガンのように話すなぁ」とカルチャーショックとばかりに父が母に言っていたし、母が若かった頃は、田舎から出てきた親戚の子ども達が祖母の家で下宿していたこともあり、母達の従姉妹・兄弟同士の横の繋がりは強く、仲がとてもよかった。
昭和初期に建てられた木造の祖母の家は、世代にわたって親族・家族が過ごした場所で、私自身も幼少期、父が単身赴任をしていた際、母と弟と生活した場所だったので、たくさんの思い出がつまっていた。大きな広間で、祖母のひざに座って時代劇を一緒にみたり、布団を何枚も敷き詰めて、従兄弟達と川の字になって夜までコソコソ話して、いつのまにか寝ていたり、ここで起こったこと全てが宝物だった。
そういう家庭環境で育ったので、大人になるまで、不倫や離婚というものは、ドラマや小説の中だけの話としか思っていなかった。高校を卒業し、留学した先で仲良くなった友人に、親の離婚の話を聞いて、初めてそういうものが実世界に存在するのだと知ったのだった。




