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とある聖女の受難

「ニーナ=ベネット。お前は聖女の身分を偽り教会入りしただけでは飽き足らず、陛下や我が弟をたぶらかしたとして国外追放を言い渡す!」

「はぁ……」

「なんだその気の抜けたような返事は!」

「その件は陛下や第二王子には確認済みでしょうか?」

「ふんっ、味方となってくれる彼らはいない。公務でまだしばらくは戻らないだろうな」


 第一王子は胸を張って堂々と言い張る。

 だが私が身分を偽ったという証拠もなければ、陛下達を誑かしたという証拠もない。二人に確認すら取っておらず、今回の件は第一王子の独断で動いた、と。



 国の宝である聖女を国外追放しようというのに、証拠もなしとは呆れて声も出ない。


 軽く辺りの様子を窺ってみるが、宰相や他の聖女達は静観している。この場に居合わせた者の多くが彼らのように静観を貫いている。


 第一王子とはいえ、陛下を誑かした宣言は陛下への無礼に当たる。

 だがこの場で一人もそれを指摘しないのは、私が身分を偽って教会入りをしたという発言が事実かもしれないと疑っているからだ。



 聖女とは特別な力を持った女性を指す。

 力が発現した時点で、国の施設である教会に引き取られ、最高ランクの衣食住を保証される代わりに自らの力を国の発展に役立てる。



 大抵の聖女が教会入りを果たす際には、特別な力がどのような物であるかを明かすのだが、もちろん例外もいる。


 現在、私を含めた三人の聖女が能力を秘匿している。

 もちろん陛下や教会のトップを含めたごく限られた者にのみは明かされている。


 そのごく一部の人間に第一王子は含まれていない。

 彼とその母親は私の能力を悪用する可能性が高い人間だと判断されたからだ。


 第一王子は陛下からも、第二王子からも信頼されていない。

 彼が生まれた理由は、当時使用人だった側妃のフェロモンにあてられた陛下がヒートを引き起こしてしまったから。オメガの発情を前に、本能に逆らえなかったのだ。


 本来であれば国家反逆の罪を課せられるか、そうでなくとも金を持たされて領地送りにされるところだ。だが生まれた子どもがアルファだった。


 アルファはカリスマ性が高く、あらゆるものへの才が突出している。


 王妃様との子どもの性別が分からない・第二子の出産が未定の状況下で母子ともに切り捨てることは出来なかった。


 結果として元使用人であったオメガ女性は側室の座を獲得した。


 もしも一ヶ月遅れで生まれた第二王子のバース性がアルファもしくはオメガであったのなら、第一王子がここまでふんぞり返ることもなかっただろう。とはいえ、性別のことをああだこうだと文句を言っても仕方ない。


 第二王子はベータとはいえ、それをカバーするだけの努力は怠らないし、何より国民を大切になさっている人格者だ。

 来年生まれてくる弟君のバース性にもよるが、彼こそが次期国王になるだろうと専らの噂だ。



 だが第一王子と側妃は、アルファである第一王子こそが次期国王になるべきだと考えている。


 権利を十分に与えられていないことを自覚していながら、全くもって図々しい話である。


 おおかた、この追放も私が陛下や第二王子の子を孕めば自分の地位を揺るがす人間が増えると考えたのだろう。



 現在陛下・第二王子は公務で国を離れている。

 王妃様は二ヶ月前の妊娠発覚以降、生家である公爵領にて療養中。


 邪魔者を排除するにはこれ以上ないチャンスと考えたのだろう。


 だがそれは王家サイドとしても同じ。

 国に有用な聖女を勝手に追放すればその罪が追求されることとなる。

 第一王子に真っ当な理由があるとも思えないので、陛下達の帰還後切り捨てられることだろう。



 宰相達に裏切られた可能性もなくはないが、彼が悪事に一枚噛んでいるなら追放ではなく処刑を選んだだろう。


 私が万が一でも生き残れば今度は彼と彼の家族が危険な目にあう。

 そのことを彼はよく知っている。


 そう、宰相もまた私の能力を知る者の一人なのだ。

 私の能力は人のバース性が見られること。またオメガの発情を予測出来る。


 その力を活かして、五年前には発情抑制剤を、三年前にはアルファのための発情ブロッカーを作成した。


 どちらも元々出回っていたものとは比べものにならない精度を誇っており、現在はバース性の判定キットの精度向上を計っている。


 抑制剤・ブロッカーも材料次第ではまだまだ改善の余地が残されているので、今の物よりももっと身体の負担が少なく、かつ効力の高い薬の開発も夢ではない。


 アルファである宰相本人はもちろん、オメガである彼の妻や愛娘もその恩恵を受けている。彼は身を以て私の有用性を実感しているのだ。


 だが強い薬は毒にもなる。

 いくら薬師長の手を借りなければ完成出来なかったとはいえ、私はその全ての過程を目にしている。他の国の薬師と手を組めば再現は可能で、それ以上を作り出すことも不可能ではない。


 発情ブロッカーの完成を報告した際、宰相は真っ先にとある質問を投げかけた。


『発情ブロッカーを突き破る人工的発情香を作成することは可能だろうか』

 それに私も薬師長も『不可能ではない』と即答した。あと数年も研究を続ければ作成が可能だろうとも付け足した。


 私はこの世のアルファ・オメガの敵にも味方にもなりうるので、聖女達の中でも最高ランクの待遇を受けている。


 第一王子が誑かした云々と勘違いした陛下達の行動は私を国に囲い込んでおくための行動である。



「先ほどから黙っているが、恐怖で声も出ないか」

「いえ、承知いたしました」

 第一王子の断罪計画をスタートするなら事前に教えて欲しかったが、詳しい事情は帰ってきてから聞けばいいだろう。


 そもそもこの聖女追放自体どれくらい前から用意されているものだか分かりはしない。


 最悪、昨日の夜に突然言い出してそれに乗っかったという可能性も……。


 第一王子ならあり得る。

 アルファは本来優秀なはずなのだが、彼は周りを引きずりおろすことばかりに目が行き、自らの才を磨いては来なかった。精神年齢が極めて幼いというのもあるだろう。


 どちらにせよ、私が仕えるべき相手ではない。


「随分素直だな」

「私の味方はいないようですから」

 衛兵に囲まれ、私はそのまま馬車に乗せられる。

 荷物を取りに行くことも、聖女服を着替えることすら許されず、ゴトゴトと揺られながら旅費はどこから工面するべきかと考える。



「服についた装飾品を取って売るべきか、浄化の魔法が付与されたリボンを売るべきか……」

 お金にはなりそうだが、どちらもそこそこな値段が付く代物である。どこで降ろされるかにもよるのだが、高すぎて買い取ってもらえない可能性もある。国境越えてすぐのところで降ろされれば買い取り可能な店を探すだけでもかなり時間がかかる。


 衛兵達が宰相の味方ならその辺りは何かしらの配慮があるのだろうが……なんてことを考えているうちに馬車が止まった。


「ニーナ様。到着しました」

 手を借りて馬車を降りると、目の前には綺麗な海が広がっていた。近くには我が国の国旗が飾られている。


 ということはまだ国の外には出ていない?

 海沿いの町はいくつかあるが、国境付近となると一つしかない。


「ここは、パルシャオ?」

「はい。この道を真っ直ぐ行かれますと、パルシャオの観光名所である噴水広場に出ます。そちらで担当の者が待機しております。生活に必要なもの等ありましたらその者に申しつけください」

「ありがとうございます」

「二週間前後でお迎えにあがる予定ではありますが、掃除が長引いた際には少し遅くなってしまうかもしれません。ご理解頂けますと幸いです」


 宰相様が張り切ってますのできっと綺麗になりますよ! と帽子をクイッと上げた衛兵の顔には見覚えがあった。


「第二王子付きの近衛騎士であるあなたがなぜここに?」

「第二王子の指示です。自分達が留守の間に狙われるとしたらニーナ様だろうとのことで俺とあいつが残されました!」

 彼がもう一人の衛兵を指さすと、ぺこりと小さくお辞儀をされる。

 第二王子達が国を発ってしばらく経つが、二人が国に残っていることには全く気付かなかった……。


 聖女の中には見た目を変える能力を持つ者がいるので、彼女の力を借りて姿を変えていたのだろう。


「なるほど。それで待ってくれている人のお名前と特徴は」

「少し前まで城にいた薬師のジグです。って、ああ、そこに」

「ニーナ様! お待ちしておりました!」

「噴水広場で待つという話だったと思うが」

「待ちきれなくて……。それで今回のご旅行の目的は? どのくらい滞在されるのですか? ああ、それよりもお食事、いや服を買うところからですかね!」


 なぜ彼はこんなにもテンションが高いのか。

 いや、城にいた頃から顔を合わせる度に爛々と目を輝かせていたが、今日は以前の比にならないほどだ。


 どんな服がお好みですか~と身体を左右に振っている。

 以前、聖女仲間から実家の犬の話を聞いたことがあるが、こんな感じなのだろう。


 さすがに綱は咥えていないが、代わりにポケットからいかにも大金が入っていそうな財布を取り出し始めた。


「えっと……」

「申し訳ありません、ニーナ様。なにぶん昨晩決まったことなので、詳しい連絡が追いつかず……」

「昨晩……」

「急に言い出しまして……」

 あり得ない話ではないと思っていたが、本当に昨日の夜だったのか……。

 変に粘ったりせず、サクッと追放を受け入れる姿勢を取っておいて正解だったらしい。城に残っていたら残っていたで、絶対面倒臭いことになる。


 お疲れ様です、と頭を下げると悲しそうな笑みを返される。

 帰ってからも仕事が残っているのだろう。一人だけ先に逃げてなんだか申し訳ない。



「ニーナ様?」

「宰相様がネズミの尻尾を見かけたとかで、急に大掃除すると言い出しまして、大体二週間くらいお世話になると思います」

「ネズミですか!? あいつらは一匹見かけたら十匹はいるといいますからね、宰相様が駆除を急ぐのも分かります。二週間と言わず、好きなだけ居てくださいね」

「何かお手伝い出来ることがありましたら言ってください」

「お気になさらず! 実家だと思ってゆっくりしていってください」


 実家、か。

 その言葉を聞いて頭に浮かぶのは赤い屋根だけになってしまった。

 昔は思い出せるものも多かったが、帰る予定もない場所だ。覚えていたって仕方がない。


 私が教会入りしてからもうすぐ二十年が経つ。

 五歳の時に頭のおかしな子として町の病院に連れて行かれて以降、家族とは会っていない。もっと大きな病院で調べなければと私一人が王都に連れて行かれた。家族は誰もついてきてはくれなかったし、初めに連れて行かれたのは孤児院だったので、捨てられたのだろう。


 孤児院に入った数日後に陛下が視察に来て、私を教会へと連れて行ってくれた。そこで初めて自分に特殊な能力があることを知った。


 もし孤児院に入れられなかったとしても、王都から遠く離れた田舎の村でバース性を判別する力など何の役にも立たない。私が無能でなくなったのは、陛下に見つけてもらえたから。



 陛下へ少しでも恩を返すためーーそれがベータの私が新薬開発に携わる理由である。


 もちろん衣食住が保証されているというのも大きな理由だが、それだけならもっといい条件の国だってある。逃げ出す機会は過去に何度もあった。さすがに今は逃げ道を塞がれてしまっているけれど、残っているのは私の意思なのだ。



「店の二階が居住スペースになっているんですよ」


 さぁさぁと案内された場所は噴水広場からほど近い場所に構える薬屋だった。

 看板には『ルーベル薬屋』とある。ルーベルは薬師長の名前だ。ジグの師匠でもある。


 ドアを開けてもらい、店に踏み込んだ途端、一気に薬草の香りが鼻を責め立てる。くすぐるなんて可愛いものではなく、長年蓋をしたままの薬瓶を鼻の近くで開封したくらいの衝撃だ。


 うっと思わず顔を顰めてしまう。

 だがジグは慣れているらしく、平然とした表情で首を傾げる。

 数秒遅れでようやく慌てて窓を開くが、しばらく鼻からこの香りが消えることはないだろう。


「すみません! 慣れてて全然気付かなくて」

「急にお世話になるといったのはこちらですので。それに、なんだか懐かしいです」

「懐かしい?」

「初めてジグ様とお会いした時も似たようなことがあったなと思いまして」

「……忘れてください」

「そう簡単には忘れませんわ。一週間経っても匂いが落ちなかったんですから」



 ジグと初めて会ったのは四年前。

 発情抑制剤に続き、アルファにも有用な薬を開発して欲しいとの命を受け、毎日のようにルーベルの部屋に通っている時だった。


 ルーベルに頼まれて作っていたらしい薬を持ってきたジグが、足下に散乱していた本につまずいて盛大に薬を溢したのだ。


 そのとき作っていたのは畑に蒔くための防虫剤である。

 それも植物にそのままかけるのではなく、畑の周りに薬を染みこませた布を置いて使うとかで、とにかく匂いが強かった。


 それを背中一面に浴び、着ていた聖女服は即廃棄。

 身体についた匂いはルーベル特製石けんを使っても抜けるまで十日以上かかった。


 強烈な匂いに顔を顰める私に、ジグは床に額をつけて謝ってくれたのが初対面なので、これからも忘れる事は出来ないだろう。それくらい印象的な出会いだった。


 しかも彼が額をつけた場所はちょうど薬が広がっていたところなので、彼の頭からもしばらくその匂いが抜けることはなかった。


「その節は本当に申し訳ありませんでした!」

「いいですって。良い思い出ですから」

 ふふふと笑いながら、必要なものを書き出し、買い物に行き、夜はジグが作ったシーフードカレーを食べた。


「港町で食べる魚ってこんなに美味しいんですね」

 王都から海までは最短でも馬車で二刻ほどかかるので、搬送途中に鮮度が落ちてしまうのだ。


 教会で出される魚はもっぱら干物やオイル漬けになっているものが多かった。稀に煮魚や焼き魚を出してもらえるが、それは私の食事が普通の聖女達よりも良いものだったから。普通の聖女の食事には魚なんて滅多に並ばず、肉が一般的だった。


「美味しいです」

「気に入って頂けましたか?」

「ええとっても」

「今日は夜なので煮込みにしましたが、獲れたてはもっと美味しいんですよ。明日は生でいきましょう生で」

「生で食べられるんですか!?」

「貝も魚もいけますよ。生以外でも網焼きなんかオススメです」

「網焼き! 美味しそうですね」

 服を選んでいた時よりも反応が良い私にジグは嬉しそうに笑った。


「明日も明後日もその先も喜んでもらえるように頑張りますから」

「そんな……。ただでさえ置いてもらっている身ですから、食事がいただけるだけでもありがたいくらいで」

「いえいえ、誠心誠意尽くさせて頂きます! 魚以外でも食べたいものがあったら言ってくださいね。なんでも用意しますから!」


 ジグはその言葉通り、薬屋として働きながらも毎食私のために料理を作ってくれる。


 手伝おうとしてもやんわりと断られ、楽させようとパンがいいと強く出ればパンをこねるところから開始した。


「本当は小麦から作りたかったんですけど、それだと長くお待たせしてしまうので、今回は市場にあった小麦粉を使わせてください」


 パルシャオではパンは高価なのだろうか。

 今回の滞在でかかった費用は後で返すつもりだが、生活を圧迫しているなら後でなんて悠長なことは言っていられない。


 ジグに頼んで市場に向かい、価格帯を調べる。買いたたかれようがリボンを売って少しでも家計の足しにしようとすれば今度は外出までもやんわりと断られるようになった。



『第一王子の手のものが紛れ込んでいるやもしれませんので』



 そう言われれば私も強く出ることは出来ず、一日中薬屋の中で過ごすしかない。


 薬を作ったり、売ったり、ご飯を作ってくれるジグの背中を見守ったり。彼が買い物に出かければ鍵のかかった家で留守番をして帰りを待つ。


 ルーベルが王妃様と共に公爵領に向かってからは薬の開発も進められず、この二ヶ月は以前よりもゆっくりと時間が流れているような感覚だった。


 だが今は城に居た頃よりももっとゆっくりで、食事の種類と窓から見える空の色だけで時間を判断するようになってきつつある。


 迎えまで二週間前後と言っていたので、パルシャオに来てからまだそう長い時間は経っていないはずなのになぁ……。


「ふあああぁふ」

 昨日も夕食後すぐに寝たはずなのに、もうすでに眠い。

 大きなあくびをすれば生理的な涙が溢れてくる。これは城に戻ってから生活リズムを治すのに時間がかかりそうだ。


 涙を指先で掬い、ゆっくりと目を開ける。

 すると目の前には見慣れた顔があった。


「眠かったら寝て良いんですよ」

「っ、おかえりなさい。いつお帰りに!?」

「今さっきです」

 ジグである。

 どうやら私がうとうとしている間に買い物を済ませられる時間が経過していたようだ。


 このまま戻ればそのうち怠惰聖女・惰眠聖女なんてあだ名が付けられてしまうかもしれない。


 このままではいけないと軽く両方の頬を叩く。


「それにしてもおかえりなさいって良い響きですね」

「そ、そうですか?」

「はい。ニーナ様と一緒に暮らしているんだなって実感できます。あの、ニーナ様さえよければ夜も寝る前におやすみと言っていただけたりなんて……」

「そんなことでよければいくらでも言いますよ」

「本当ですか!? ありがとうございます」


 そんなに一人暮らしが寂しかったのだろうか。

 両手を掴まれ、ブンブンと上下に振られる。


 夜の挨拶は彼がいつ寝ているのか分からないほど遅く寝るので、言い逃していただけなのだが、タイミングなんて気にせずに口にすれば良かったと後悔する。




 その日から『おはよう』『おやすみなさい』『いってらっしゃい』『おかえりなさい』はかかさず告げるようになった。


 簡単な挨拶なのに、ジグは必ず蕩けたような笑みを浮かべるものだから、なんだか恥ずかしくなってしまう。


 私がオメガだったら多分イチコロだったのだろう。

 だが私はベータだ。発情知らずのごくごく一般人。

 ここにあえて何か加えるなら、この家に来てからこれといって役に立っていない居候ということくらいか。


 役目が挨拶のみってどうなのだろうなんて考えながら赤くなった耳を隠すために髪を結うリボンを解く。


 挨拶だけでこんなに喜んでくれるのに、今さら止めるなんて出来なかった。




 そんな日々もいつしか終わりを告げる。

 煮込み作業で手が離せない彼の代わりにベルの鳴った店に走る。


 家の中も店の中も慣れたものだ。

 少し前から店の中の応対はさせてくれるようになったので、常連の顔は覚えている。


 朝食を食べてしばらく経っているから、パン屋のおばあさんだろうか。

 はいは~いと店に続くドアを開いて、声を失った。


「遅くなってしまい、大変申し訳ありません。大規模清掃が無事完了致しましたので、お迎えにあがりました」


 レジ前に立っていたのはパン屋のおばあさんでも、市場のおじさんでも、貸し馬車屋さんのオーナーでもなく、少し前に噴水広場付近の路地で別れた第二王子付きの近衛騎士だった。



 彼の顔を見て、時間制限付きの滞在だったのだと思い出す。

 いや、忘れていた訳ではない。陛下達が帰還し、第一王子の件が片付けば、私は今まで通り教会で過ごすことになることくらい理解していた。


 それでもこの時間が歪んだような生活がまだもう少しだけ続くと思い込んでいた。


 布団を剥ぎ取られ、強制的に夢から引き上げられたような感覚に背筋が冷えていく。


「ニーナ様?」

 白くなっていく私の顔を彼は心配そうに覗き込む。

 おかしいのは彼が迎えに来たことではなく、聖女が教会の外で暮らすことであり、今の私の態度でもある。


「ごめんなさい。ちょっとジグ様に挨拶をしてきます」


『おはよう』『おやすみなさい』『いってらっしゃい』『おかえりなさい』以外の挨拶を。


『お世話になりました』の後に続く言葉は『さようなら。どうかお元気で』


 別れを告げる挨拶に彼はどんな表情を返してくれるのだろうか。

 いつものような笑みが返されたらきっと胸が痛くなる。それでも私がここに残るという選択肢はない。


 教会に引き取られてから、陛下に尽くすと決めたのだ。

 こんないつの間にか見つけた淡い感情なんかに乗っ取られてはいけない。


 初日に買ってもらったワンピースの裾をふわりと広げ、今度は居住スペースを通って仕事部屋へと向かう。


「お客さん、誰でしたか?」

「迎えが来ました」

「え……」

「教会に帰ります。お世話になりました」

 さようなら、どうかお元気で。そう続けようとした言葉は遮られた。


「俺も行きます」

 薬鍋を混ぜていたヘラが落ち、彼は私の身体を包み込んだ。


「俺も城に行きます」

 そう言い直し、火を消すと支度を始めた。


「お店はどうするんですか?」

「臨時休業にします」

「でも常連さんは……」

「薬屋なら他にもいますから。閉まっていたらそちらに行くでしょう」

 バッグに何やら紙の束やら不思議な色の薬やらを入れて、ああこれも必要かとブツブツと呟く。


 明日には帰ってこられるはずなのにやけに大荷物で、かと思えば衣服の類いは一つも入れる気配がない。

 あくまで私はついでで、城に行って仲間と会って話をしようというのだろうか。


 毎日見ていたはずの笑顔が消えてしまったので、ジグが何を考えているか全く予想がつかない。いや、笑っている時も正確に彼の感情が読み取れていたのかは分からないけれど。


 ……そう思うとやはりこんな想いは勘違いだということにして、記憶の隅にでも置き去りにしてしまうべきなのではないかとさえ思う。


 恋愛なんて私には無理だったのだ。




 終始無言で馬車に揺られ、城へと戻る。

 今回の件を『掃除』と表したからか、城内からは第一王子と側妃が愛した絵画や花瓶が姿を消していた。


 おそらく温室や庭園は大規模な手が加わっていることだろう。案外そちらに時間がかかっていたのかもしれない。


 騎士に連れられ辿り着いた先は少し前に王都追放を言い渡された王の間である。ドアが開かれると、玉座にはあの時不在であった陛下が座っている。


 隣には王妃様とルーベルの姿もある。見慣れた光景にホッと胸をなで下ろす。



「ニーナ、今回は王家の騒動に巻き込んで悪かったな」

「いえ、ゆっくりと羽根を伸ばすことが出来ましたので」

「それなら何よりだ。帰ってきたところ悪いが、早速明日からまたルーベルと協力して研究を進めて欲しい」

「承知いたしました」

「ニーナちゃんお帰りなさい」

「王妃様、お身体の調子はよろしいのですか?」

「ええ。城内の空気も良くなったことだし、こっちで出産することにしたの。ニーナちゃんにも手伝ってもらうことがあるかもしれないわ」


 王妃様の顔色はとても明るい。

 たった二人いなくなっただけとはいえ、今までの心労を考えれば肩の荷が軽くなったのだろう。


「もちろんです。王妃様のご用とあればすぐ参ります」

「助かるわ。ところで隣にいる男性はどなたかしら?」

「彼は」

「私の弟子です」

「あら、ルーベルのお弟子さんだったのね。ゆっくりしていくといいわ」


 歓迎ムードの王妃様と打って変わって、ルーベルの表情は固い。

 眉間に皺を寄せ、弟子であるジグを睨んでいるようにさえ見える。


「お前には成果を上げるまで王都に近づくなと告げたつもりだが?」

「その成果を見せにきました。可能であれば陛下にも目を通して頂きたく思います」

「無礼だぞ!」

「一日でもこれの存在を秘匿することこそ、我が国の長への無礼に当たるでしょう」

「ジグ!」

「構わぬ、見せろ」


 陛下の許しを得たジグは店を出る前にバッグに詰め込んだ紙束と薬をいくつか取り出した。


 こちらを、と差し出せば、陛下は分厚い束の上数枚を軽く捲った。そして目を見開いた。


「っ! これは真か!?」

「サンプルが不足しているので、全個体に有用であるとは断定出来ませんが、そちらに記載した通り、ラットを用いた実験では実験個体の約九割に変化が現れました。薬の研究を進めれば確率を高めることは可能かと」

「なん、だと……」

「こちらがその薬でございます。見張る者のいない場所には置いておくことは出来ぬと判断し、私が所有する資料および成果物全てを持参いたしました。残りはこちらの中に」

「なんてことだ……。こんなものが出回れば国が軽く二、三は滅ぶぞ」

「陛下、私にも見せて頂けますでしょうか」


 紙の束が今度はルーベルの手に渡る。

 彼は凄まじい早さで全てに目を通し、そしてゆっくりとジグへと視線を移した。


「ジグ。お前まさかこの薬、ニーナに使ったりしていない、よな?」

「使いました。ですが、完全に定着させるのには時間が足りなかった」

「これは人類を冒涜する行為だぞ!」

「師匠だって彼女の力の可能性を気付いていたはずです。遅かれ早かれ似たようなものを誰かが作っていた。それがたまたま俺だっただけです」

「だからってニーナに使うなど……。お前を国内に残しておくべきじゃなかった」


 ルーベルは頭を抱え、陛下は不憫な者を見るような目線を向けてくる。

 だが私は全く何のことだか分からない。

 実験体にされていたのだろうが、今のところ身体に変化はない。


 遅効性の毒?

 だが二人の会話から、利用されたのは私の身体だけではなく能力であることも窺える。


「私は一体どんな薬を使われたんですか」

「ニーナも読んでみるといい」


 渡された紙束ーー論文の表紙に書かれていた題名は『ベータ性の後天的性転換』


 ページを捲れば、まず初めに目に入ったのはなぜ途中で性別判定が変わるのかという疑問提起。


 性別が変わるのは決まってベータであることから、ベータはアルファになる素質とオメガになる素質両方を持ち合わせて生まれ、成長に応じてその割合に変化が起きる。最終変化時が十五才であることから、十五才になるか、アルファかオメガに完全に傾いたタイミングで変化がストップしバース性が確定するのではないかーーというのが彼の仮説である。


 バース性判定キットの精度向上における最難関はベータの判別である。

 私の目には『アルファ』『ベータ』『オメガ』とが完全に別れているように見えるのだが、性別を見分けた人から血を分けて貰って調整してもなぜか精度が七割以上にはならない。


 だがこの仮定が正しいとなれば、精度が上がらないことに納得が出来るし、他のアプローチが試せる。


 ここまで読んだ限りだと特に害になるようなものはない。

 問題はこの先にあった。



『人為的に性別を変化させる方法について』

 専門的な用語が並んでいるので、詳しいことは分からない。

 ただベータがアルファもしくはオメガに変化する割合を人為的に変化させるための薬を生み出したこと。そしてその薬が私で実験されたらしいことは分かった。



「私はもう十五歳を過ぎているので薬を投与しても意味がないのでは?」

「バース性が変わることはありません」

「なら」

「ですが、体内の割合を変えることで一時的にオメガと似たような状態にすることは可能です。えっと確かそれについての説明は三十七ページに……」

「嘘……」

「まだ不完全な状態なので番契約が成立するかどうかは分かりかねますが、ニーナ様が今、疑似オメガ状態にあることだけは確かです」


 城内に飾られた花の種類は追放前と変わっていない。

 つまり季節の変化はなく、私がパルシャオに滞在した期間は長く見ても一ヶ月と少し。

 そのわずかな時間で彼は私の性質を変化させようとした、と。


 そんな手段が公にされれば人類のバランスが大きく崩れることになるだろう。

 人の手が加わることでホルモンバランスが崩れるかもしれないし、そもそも性別という概念すら変えうる。


 私はその実験体の一つとなったのだ。



 知らないうちに恨まれていた?

 それともただ私がちょうどよくあの店に滞在することになったから?



 分からない。

 けれど真の敵は第一王子ではなく、逃げた先にいたのか。


 根本的な性別が変わった訳ではないが、薬の副作用などこれから起きうる可能性を考えると目の前が真っ暗になりそうだ。


 絶望の沼に足を引きずりこまれそうになる私に、ジグは心底嬉しそうに笑いかけた。


「もし番になれたらずっと一緒にいられますね!」

「へ?」

「聖女の配偶者は王都に住居が与えられるんです。まだ詰め切れていない部分はありますが、必ず師匠を納得させる論文を完成させてみせますから!」

「ジグ様は私を恨んでいるんじゃないんですか?」

「まさか! 心から愛しています。ニーナ様も俺の求婚を受け入れてくれたじゃないですか」

「求婚?」

「はい。さすがに好きだからって人の身体を弄ったりしませんよ」


 求婚が成功していたところで、内緒で人に薬を投与するのもどうかと思うが、まず解決すべき点は『求婚を受け入れた』という点である。


 パルシャオでの生活を思い返しても、一度たりとも求婚された覚えがない。

 そもそも彼が私を愛していることさえも今知った。


 なのになぜ彼の中で私は求婚を受け入れたことになっているのか。

 大きな食い違いがありそうで怖いのだが、聞かなかった振りが出来ない状況まで来ている。


「具体的な行動を聞いても?」

「『七日間、相手に身の回りの世話の全てを任せること』なので人によって行動は大きく異なると思うんですが、炊事洗濯は大体当てはまりますかね?」

「それが求婚になるなんて、今初めて知りました……」

「え」


 ジグは心底驚いたように固まるが、私の知識がおかしいということでもなさそうだ。


 陛下や王妃様、ルーベルもそんな話は聞いたことがないと首を振る。

 ジグの生まれは国の最南端の小さな島だ。彼が実行したのはその地域特有の求婚方法だったのではないだろうか。


「求婚された自覚がない場合、どうなるのでしょう?」

 彼には悪いが、知らないうちに求婚が成立していたとは思いたくない。


「…………あの、俺、絶対幸せにしますから! ニーナ様の敵なら誰であろうと一人残らず潰しますので、俺のお嫁さんになってください!」

「えっと……」


 もしパルシャオ滞在中に前半のセリフを告げられれば、差し出された手を取っていたかもしれない。


 だが彼の行動を知った後に『ニーナ様の敵なら誰であろうと一人残らず潰します』というワードを聞くと、すぐにでも実行してしまいそうで怖い。


「ルーベル様」

 私どうしたらいいですか? と救いを求める。ルーベルは少し悩んでから、ため息を吐くように返答をくれた。


「とりあえジグの愛の重さと薬師としての腕だけは保証する」

「それ以外は!?」

「……」

「黙らないでください!!」


 思い切り目を逸らし、口を噤んでしまった。

 代わりにジグが私の手を取って、真っ直ぐな視線を向ける。


「愛しています。死ぬまでずっとあなただけを思い続けます」

 もしかしなくても私、ヤバい人に好かれてしまったのではないか。


 あの時、本当に国から出ていればなんて思ったところでもう遅い。

 ドキッと大きく跳ねた鼓動にもう引き返せないと悟ったのだった。

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