朔夜の反抗
お菓子を貰った。
弟の小さな手が、クッキーを差し出してくれていたのを、今でも覚えている。
「これ、さくやのぶん!」
そう言って、弟はよく外の世界から珍しいものを持って帰ってきてくれた。
祓い屋家業の跡継ぎとして、母の期待と愛情を独占している、この兄に。
一日中、家の中にいる僕と。一日中、家の外に放り出されている弟の真昼。
霊能力を高める為の瞑想に励む僕と、僕の邪魔をしないように内心では神経を尖らせている真昼。
どう考えても真昼の方が、立派な修行僧の風格だ。母は、そんな真昼が僕の部屋にやって来ると、
「真昼! お兄ちゃんの邪魔しちゃダメ! お兄ちゃんはお勉強忙しいんだから!」
と怒鳴りつけるのが日課になっていた。
そんな環境で育てられたからなのか、弟の真昼は、
「はいはーい。おかまいなくー。」
といった感じで、まるで反省する気の無い子供に育ってしまった。おそらく、叱られることに慣れすぎてしまったんじゃないかと。
そして、この図太い神経が一体何処から来たのかというと、それは間違いなく父からだ。
「えー。真昼、朔夜の部屋に入っちゃダメなのかい? じゃあ二人ともリビングにおいで。ご飯もうすぐできるから。」
しっかり者の母と、強かな父と。
この二人のバランスで、我が家は成り立っている。
そして、もう一人。我が家には、僕と母には見えない、もう一人の存在が影響を与えている。
「真昼、このクッキーどうしたの?」
そう尋ねると、真昼は笑顔でこう返してくるのだ。
「ゆうとが、くれた! おにいちゃんのぶんも、どうぞって。」
そして父は言う。
「へぇー。優都くん優しいなぁ。今度、何かお礼のお菓子持って行こうね。」
僕と母だけが知らない存在、『ユウト』。それは家の外にいて、真昼になんでもくれる。母がくれないものも。僕が譲らないものも。
姿が見えない『ユウト』の存在が、真昼を生かしている。それがわかったから、僕も欲しいと思った。
弟と同じものを。
朔夜の手が、その手の中に隠していた細い糸を引く。
すると、部屋中に張り巡らされていた糸がキンと張り詰めて、突然に部屋に現れたかのように浮かび上がるのだ。
それは、まさに芸術作品のように洗練された技巧で、部屋の中のどの位置に何が置かれていても切り裂ける、計算され尽くした配線になっている。
その糸がカラフルポップな星のグミに触れると、星のグミは弾けるように、切り裂かれる。
部屋中にある大量の風船が割れるような乾いた破裂音が連発した。
ので、
「あ、うるさい! うるさーい!」
と言って兎が両耳に指を突っ込むのも無理の無いことでした。
パン! パン!ババン! パン!
みたいなリズミカルな音で、一つ割られたと思うと、次は立て続けに二つ割れて、それからまた何処かで割れる。
その連鎖であっという間に部屋の中に溢れた兎の星のグミが、消え去ってしまう事態になった。
「あー! きゃー!」
破裂音というトリガーが引かれ、限界まで高まっていた瑞埜の恐怖も暴発する。
ひとしきり叫んで、ふいに黙ったのかと思えば、気絶していた。
こういう時、思い切って気絶してしまえば楽なので、普段から意識を失う練習をしておくといいのかもしれない。
無理か。
「未来から来たのなら、僕の目的も知っているんだろう。邪魔をしないで貰えないかな。悪意のあるものじゃない。」
朔夜の落ち着いた口調や丁寧な言葉遣いは、不思議と人を引き付ける力がある。
人の上に立ち、多くの意志を束ねる未来を期待されて育った人間。その集大成と言えるものかもしれない。
しかし、その丁寧な弁明とは裏腹に、行動は攻撃的。
細い糸は耳を塞いだ兎の両腕にも絡みつき、その腕を左右へ引っ張り固定してしまう。
「うにゃ!」
耳を塞ぐ体勢から突然、両手の自由を奪われた。手に持っていた数枚の札を、誤って床に落としてしまう。
(やばい、椿先輩の札…。)
足下を見ようとすれば、首にも糸が絡み付いてきて、強い力で締めつけられる。
ちょっと話が違うってやつっす。
クモの巣に引っ掛かった虫の気分だ。首も手首も、強く締め上げられて血が滲む。朔夜の操る細い糸は、彼の意のままに動き敵を斬る。
「あう…!」
兎の吐き出した小さな悲鳴にも、椿 朔夜は平然としていた。
表情は至って穏やかなまま。パリッとしたスーツ姿で、営業のサラリーマンのように言葉を続ける。
「首も手首も人体の急所だ。このまま締め付けて一番太い血管を切れば、命を奪うことも出来る。死にたくないなら、おとなしく自分の時間に帰ってくれないかな。」
無論のこと真昼の言う通り、霊なら漏れなく危険な存在なのかといえば、そんなことはない。
しかし椿 朔夜の亡霊は、生前に強い霊力の持ち主であっただけに、他の霊とは質が違う。霊体でも出来る事が多いようだ。
それから、椿 二神の図々しさを遺伝しているのは真昼だけではない。
半分は朔夜にも遺伝している上、外出できる機会が少なかった分、多少は人より世間知らずのところがある。
こういう要求の通し方になったのは、椿 朔夜という人物の人間性に他ならない。
「絶対、椿先輩の身内だと思う…。」
と、腕を糸で固定された兎が証言しました。
それで終わらないのが、稲早 兎という男の執念だ。こちらも高校生ながら対峙するには、それなりに心してかからねばならない。
(椿家の兄弟の問題を、俺が勝手に片付けるのは気が引けるけど…。俺も背負っているものがある以上、簡単には諦められない。)
椿 朔夜の亡霊は、いずれは敵となり、立ち塞がる壁のようなものだ。未来から来た兎にとっては、一度は倒した過去の敵。
(前は仲間達と総力戦で戦うことになったけど、今なら俺一人でも倒せなくないんじゃないか?)
朔夜の糸に切り裂かれた星のグミ。中からは甘い匂いの蜜のようなものが溢れて、今は床全体を濡らしている。
グミの中に入っているリンゴ果汁みたいなものです。
それは火の気のない部屋の中で、何に引火したのか激しく燃え上がった。
ゴウッ激しい音で燃え広がる。
まるでガソリンを部屋に撒いたような火の勢いだ。分厚い火炎に、部屋中が赤く染まる。
「…成程。割ると今度は燃えるのか。」
朔夜の言う通り、星のグミから溢れた液体から火が出ているのだ。
室温程度の低温で発火し、床面から朔夜の操る糸に燃え移る。
朔夜ほど現状の理解が早くなければ、何も知らぬまま火に包まれていたことだろう。それだけ火の勢いは凄まじく、床から上がる火柱が壁を這い上がっていく。
「その火は霊体や幽体を燃やす炎。でもって、この糸も燃えるっす!」
朔夜の張った糸を導火線にして、兎の体に絡んだ糸も焼き切れる。
兎の狙いは、勿論この火で朔夜を倒すことでもあり、さらに糸を焼き切り脱出することでもあった。
最初に札を投げた時から、朔夜の亡霊が無抵抗に封じられるとは思っていなかった。なので、星のグミが割られることを想定の上で、この二段構えの戦法を用意していたのだ。
この火は人体や建物まで焼いたりはしないので、意識不明の瑞埜は無事です。
「椿家の使う星の力…。星の業火か。」
「伊達に椿先輩の後輩やってないっすよ!」
兎は大急ぎで焼き切れた糸を振り解いた。腕を引っ張っていた糸を払い終えると、床に落ちた札を拾う。
パチパチと火の弾る音が、部屋の何処かで鳴っている。
この炎で朔夜の亡霊を消滅させることが出来れば、あとは瑞埜を屋外へ連れ出すだけだ。どこか安全な所へ、横に寝かしておけばいいだろう。
(椿 朔夜の亡霊との戦いが、直接的に未来の悲劇に関わるわけじゃないけど…。事の起こりくらいは変えられるかもしれない。)
心の中では祈るような想いでいた。また細かな傷が増えてしまった体で、痛みに耐える兎。
少し特殊な攻撃を打ち出せる札を、先の時間で真昼から譲り受けただけ。それを使う本人は生身の高校生に過ぎない。
危険を承知で戦う決意をした。その兎の目の前で、
「真昼は僕を消す為に、椿家の札を他人に譲ったのか。直接手を下さないところ、僕にまだ気を遣っているのかな。」
何か思うところがあったようで、朔夜は俯き、呟いた。
それから再び顔を上げると、そこにあったのは穏やかな、これまで通りの笑みだ。
「だけど、この子じゃまだ詰めが甘いね。」
そう言って、もう一方の手によって、また別の糸を強く引く。すると、火の気の無い天井付近で、また糸がキンと張り詰める音がした。
兎が最初に投げた札は、まだ天井に突き刺さっていたのだが、糸に触れられ真っ二つに切り裂かれてしまう。
「あ! こら!」
咄嗟に怒っちゃいました。
星のグミも、その中から溢れた燃える液体も、この低温着火の炎も、あの札から出たものだ。
札が切られると同時に、炎は一瞬にして消えてしまう。
忙しないことに、瞬く間に部屋中に広がった火が、また呆気なく消えた。燃焼の音と、焦げたような臭いだけが残る。
椿 朔夜の亡霊もまた、室内からその姿を消した。
「あっ、消えた!? …くそ、椿先輩の捕捉がないと、俺は気配を追えないのに。 」
兎は姿の消えた霊まで追いかけられない。周囲を見回し、その場に立ち尽くす。
その手から、握られていた札が、ポテ…と落ちた。
炎が消えると、部屋はすっかり元通りだ。いつでも住宅展示出来そうなほど、真っ白な壁紙が兎を見下ろしている。




