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連作短編袋

lost memory

 SHRが終わると、生徒たちは外へと飛び出していき、僕だけが教室に一人取り残された。少し開いた窓の向こう側から、蝉の声が暑さを引き連れて中へ入ってくる。生暖かい風が頬を掠めていった。


 夏真っ盛り。生き辛い季節のはずなのに、みんな生き生きとしていて、照りつける灼熱の太陽のように眩しい。直視すれば網膜が焼けてしまいそうな明るさが、少し羨ましかった。


「帰るか」


 席を立ち、教室を施錠し、鍵を返すために職員室へと向かった。


 歩きながらグラウンドで声を張り上げる人たちを見る。野球部、陸上部、サッカー部……どれも僕には馴染まない人ばかりだった。同じ人間でありながらも、僕のような男とは違う世界を生きているように見えるのは、決して勘違いではないだろう。


 青春とは眩しい。だけど、その一言で片付けるには、この世界は複雑すぎた。


 そう、それは――まるで、彼女のように。


「あ、良くんっ」


 鍵を返して職員室から出ると、廊下の末端に一人の女子を見つけた。向こうも同じように僕を見つけたようで、小走りでこちらに向かってくる。


 軽快なステップによって、膝まである薄い生地のスカートがはためく。純白のカッターシャツは彼女の美しい体の輪郭を強調し、突き出た胸の辺りの重力を少しばかりか軽くしているように見える。


 この瞬間だけ、僕は夏という忌々しい季節を好きになる。


「探したんだよ良くん。私、言われた通りに校門の前で待ってたのに」 

「すまんすまん。野暮用でな」    

「野暮用って、また日直の仕事代わりにやってるんだ。駄目だよそういうのは。ちゃんと当番が決まってるんだから」  

「そうなんだけど、奴等は部活があるからな」             

「それとこれは話が違うでしょ。ま、良くんらしいけどさ」


 少女は呆れたようにため息を漏らす。そのとき、後ろで結んだ髪がふわりと揺れた。夏の香りに、甘い香りが混ざる。


 彼女――鷹倉渚たかくらなぎさは僕の言葉の一つ一つに、コロコロと表情を変えて見せる。笑ったり、泣いたり、怒ったり。汚れや醜さや邪気を微塵も含んでいない、赤子のような表情だった。


「それで、日直の仕事は終わったの?」                

「ああ、終わったよ」                        

「じゃあ、早く遊びにいこうっ」                   

「そうだな」


 僕らは自然に肩を並べて歩き出す。下らない話に花を咲かせながら、足早に学校を出た。


 目的地に向かう途中、適当に視線を遊ばせる振りをして、視界の端で渚の横顔を見た。やはり、いつ見ても美しく、ずっと見ていられそうだ。そして、いつものように脳裏に疑問が一つ浮上してくる。


 どうして彼女は僕を選んだんだろう。


 惨めで泣きたくなってくるのだが、はっきり言って僕はつまらない人間だ。俗に言う陰キャに属す人種で、顔だって普通だ。自分から誰かに話しかけることなんて恥ずかしくてできないから、当然、友人だって多くない。


 そんな僕の唯一の友人が、渚だった。


「ねえ、良くんはさ……いじめられてるわけじゃないんだよ、ね?」    

「いじめ? 違うよ」                       

「そう……ならよかった」                     

「…………」


 そして、鷹倉渚の唯一の友人が僕だった。


  


 渚の額には重々しい傷跡が残っている。包帯がとれた今も、伸ばした前髪で跡を隠しているのは、見られたくないからに違いない。


 時は半年前までにさかのぼる。


 あの頃の渚は友人も多く、彼女の周囲には必ず誰かがいた。誰もが羨望の眼差しを向ける美貌と、優しい性格が、彼女を孤独にさせてはくれなかったのである。


 勿論、そんな渚を敵視する輩もいた。主に嫉妬に燃える女子たちだったが、それが表面に出てくることはなく、陰口程度でおさまっていた。渚に手を出そうものなら、周囲の人間が許してくれないのは百も承知だったからだ。


 だから、彼女らに渚の記憶喪失の知らせは望外の喜びをもたらしたことだろう。


 その日、渚は友人たちと夕方まで遊んでいた。帰る途中に、彼女はしっかりと安全確認をして横断歩道を渡っていた。赤信号なのに飛び出したりなどしていないことは、偶然現場に居合わせた僕が保証する。


 信号無視をしたのは運転手側だった。ブレーキを踏まず、法廷速度ギリギリで、歩いている渚へと突っ込んでいった。


 その様子を僕は背後で呆然と見ていた。渚と同じように横断歩道の信号が青になるのを待っていたのだが、渡る直前に車に止まる気配がないことに気がつき、足を止めてしまっていたのだ。


 案の定だった。


 気づいていたのに、僕は渚を救おうとせず、足も地面に着いたままだった。突然、目前に降りたに恐怖を感じたから。


 けれど、そんな臆病な僕とは正反対の勇敢な人間がいた。


 一人の男が向こう側から駆け出して、渚に飛びついた。大切な物を守るように、彼女を抱え込んだ。


 次の瞬間には、二人とも離れた場所に吹き飛ばされた。


 渚は男に人間一人分の衝撃を肩代わりしてもらい、体のあちこちから血を流したが、意識を失う程度ですんだ。だが、男は一瞬で絶命した。


 僕は今でもこの日のことを夢に見る。あのとき、渡ろうとする渚の手を掴むことができていたなら……悔恨が心を蝕んでいく。


 渚は一命をとりとめたが、代償として記憶を失った。それ以外にも、今まで築きあげてきたものも全部……


 もしかしたら、彼女とこうして友人でいるのも、償いのためなのかもしれない。


 


 学校からの帰り道、僕らは近くのゲーセンで暇を潰した。意外なことに、渚はゲームが好きらしい。しかし、僕がこうして共に時間を過ごすことで知った彼女ははたして本当の鷹倉渚なのだろうか? 


 それは僕個人だけの疑念ではない。同じように、いや、それ以上に渚は悩んでいるに違いない。


 記憶を失うことは、自己を喪失するに等しいことだから。


 途中まで帰る方向が同じなので、一緒に帰る。途中、渚がなにかを見つけて指さす。


「あ、あれ」

「ん」


 一人の美男子が喫茶店の前で立ち尽くしていた。しきりに腕時計を確認している。誰かと待ち合わせをしているみたいだ。


「あれ、巧くんじゃない?」

「巧……んあ、広瀬か。あのイケメンの」

「だよね、凄い女子から人気――あっ」

「あ」


 その広瀬巧ひろせたくみのもとに、一人の女子が駆け寄る。いかにもこれからデートって感じの飾った服装に、毛整えられた髪型は少女漫画で頻繁に見るような恋する少女そのものだった。


「あれ、沙弥さやちゃんだよね」

「そうだな。女子人気二位の」


 勿論、一位は渚だった。


 二人は肩を組んで、楽しそうに何処かへと歩いていった。


「とてもお似合いなカップルだね」

「そうだな」

「沙弥ちゃんって、いつも近くに友達がいるよね」

「だな」


 それを見る渚の表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。彼女は今なにを考えているのだろう。もしかしたらなにも考えていないかもしれない。理由もわからず、勝手に心が悲しんで彼女を戸惑わせているのかもしれない。


 どちらにせよ、僕に渚の気持ちを理解する術はなかった。


「今日も楽しかった」


 分かれ道の前で、渚が寂しさを孕んだ声で言う。


 夜の紫が葉が生い茂る山の縁を染め上げている。闇から逃れるように太陽は沈み、姿が見えなくなりそうだ。二人並んで歩く僕らの影法師が一つに重なりあっていた。


「じゃあ、私はこれで……あ、良くん、今日も電話かけていい?」

「いつでもいいぞ。俺はいつでも暇だから」

「ありがとう。それじゃっ、夜までじゃあねっ」

「じゃあな」


 重なった影が離れ、別々の道へと進んでいく。名残惜しそうに、渚はこちらに手を振りながら歩いていった。その小さな姿が見えなくなるまで、僕は立ち尽くしていた。


「……はあ」


 無意識にため息を吐き出していた。


 一人の帰り道、僕は渚にとっての自分について考えた。もし、渚が僕を好いてくれているなら、嬉しいの一言では片付けられないくらいに幸せだろう。でも、その好きは彼女の無意識下に潜む恐怖心から派生した感情でしかない。頼れる相手が僕しかいないから――自惚れすぎな考えかもしれないが――僕のそばにいてくれるのだ。


 何度も考えてしまう。けれど、堂々巡りで解答は導き出せない。未来の自分に預けてしまうのも手だが、それは諦めに等しい。


 結局、答えも出せぬまま、家に着いてしまった。


 トンネルはまだまだ長いみたいだった。


 


 私の名前は鷹倉渚……というらしい。


「ただいま」

「お帰り渚。今日も友達と遊んできたの?」出迎えてくれたのは母だった。「遊ぶのもいいけど、夜遅くまでは駄目よ」

「うん、わかってる」


 会話も少なく、私は足早に二階の自分の部屋に向かった。部屋に入るなり、制服も脱がずにベッドの上に寝転がった。好みでもない羊の模様の枕と毛布が暖かった。暫時、天井に注いでいた視線を部屋の中で遊ばせる。買った覚えのない今時の女子高生が好きそうなインテリアが飾ってあり、なんだか不思議な気持ちになった。


 私は本当になのかな?


 交通事故によって生と死の境界から現実へと戻ってきて最初に見た光景は、目に涙をためて私を見る母と父の姿だった。けれど、私は二人を家族だとは認識できなかった。まるで、初対面の人間を見る目で二人を見た。自分の知らない世界に放り出されたみたいだった。本当の鷹倉渚の意識はあの事故の拍子に消えてしまって、別の体の中にあった人格が空っぽになった渚の体に入ったんじゃないか……そう考えたこともある。


 突拍子もない考えだったけど、思考すればするほどそれが真実のように思えてきた。その証拠に、「鷹倉渚」という名前が耳に馴染まなかった。他にも、母と父を血縁者だとはこれっぽっちも思えなかった。


 二人には私の悩みを打ち明けていない。私はできる限り二人の中の渚を演じようと努めている。ただ、こうして一緒に暮らすのはちょっと辛い。なにも知らない相手に気安く話しかけられるのは気持ちが悪かった。


 これは推測でしかないけど、私の記憶は完全に消えてなくなっているわけじゃないと思う。きっと、大量の砂の中に埋もれてしまって見えなくなっているだけなんだ。記憶を掘り出すために、手をスコップにして掘り起こそうとしても、どけた砂が広がったはずの穴をまた埋めてしまう。何度も何度も……


 時々、昔の記憶のような映像が脳裏にフラッシュバックすることがある。例えば、良くんと帰っているときに見た女の子と男の子がいる光景を。


 その景色の中の私は、沢山の女の子に囲まれていた。会話の内容は日曜日に何処へでかけるかとか、化粧だとか、昨日のドラマの話しとか――


 映像が終わると、胸の内側が痛んだ。なにも思い出せないけど、不意にわきあがってきた寂漠せきばくや悲哀がない交ぜになった感情が、私の意思とは関係なしに涙を流させた。


 もう、私は思い出すことを諦めているのかもしれない。自分のことは見えているのに、肝心の悪い部分が見えない。レントゲン写真を見ているみたいで、辟易へきえきした。


「…………」


 ベットから立ち上がると、壁に立てかけてある鏡に自分を映してみる。額にかかっている髪を持ち上げると、傷跡が露になる。跡は薄くなっている。きっと、思い出せないのはこの傷のせいなんだ。これは呪いだ。こいつが私の記憶を妨げて、憂鬱ゆううつな気持ちにさせる。


 そうして、私は思考に振り回された。気がつけば夜になり、下から母の夕食を知らせる声が聞こえてきた。鬱屈した感情を引きずって、重たくなった両足で階段を降りた。


 いつの間にか帰ってきた父と母との食事を終えると、私は二人と会話をするのを避けるようにして、自分の部屋に戻った。怪しまれるかもしれないけど仕方がない。それくらい疲れていたのだ。ベッドに倒れ込むと、スマホを手に取る。いつも繰り返している動作で指を動かす。


 【良くん】


 画面に名前が表示されている。下にある《発信》のボタンを押せば、電波に乗って私の声が彼のもとへ届く。


 毎日、欠かしたことのない日課だった。発信履歴を見ると、私が記憶喪失になってから数ヵ月後――つまり、私が退院した日から切れることなく続いていた。最初は躊躇したけど、徐々に躊躇ためらいもなくなっていった。それが私と彼の関係の間にある距離を示していて……同時に、私の心の溝の深さが浅くなっていくことも表していた。


 一度、大きく深呼吸してから、《発信》を指先で押した。


 


 いつものように勉強机の前で待っていると、着信音がなった。三回音がなるのを待ってから、僕は震えるスマホを手に取った。


「……もしもし」

『もしもし。良くん?』

「ああ、俺だよ」

『ねえ、今、時間はある?』

「あるよ。ずっと待ってた」


 スマホから聞こえる渚の声は、いつもと違って聞こえた。直接声を聞くよりも、彼女の声の機微が伝わってくるような気がする。顔をあわせると話しにくいようなことが、電話だと表面に現れてきてしまうのかもしれない。


 僕たちは他愛のない会話に興じた。最近話題になった科学の発見についてとか、犯罪で逮捕された芸能人のこととか、月曜日学校で全校集会があるとか、今日習った所のわからない部分とか。


 記憶を失う前の彼女が、他の友人としていたであろう会話を。


 渚の声に耳を傾けながら、僕はまだそれほど渚と交わりのなかった頃の自分が見ていた彼女を思い出す。そういえば、自分の席で昼食を取っているときに、偶然こんな噂を耳にしたっけ。


『渚は広瀬巧のことが好きらしい』


 それが真実だったかは定かではない。でも、今日帰り際に偶々《たまたま》目撃した沙弥と巧への辛そうな視線を見れば、あながちただの噂じゃないような気もする。


 いや、別の意味でも捉えられるか。


 もし、僅かでも渚に記憶が残っているのなら――沙弥が自分にとって一番と言ってもいい友人だったことを、知らず知らずに意識しているのかもしれない。まあ、向こうは渚のことを全く友人だとは思っていなかったそうだが。


 沙弥は由緒ある家庭のお嬢様だ。親は金持ちで、欲しいものならなんでも買い与えられていたと聞く。その美貌も相まって、彼女は何処にいても人気だったという。女子からの信頼も厚かった。育った環境もあり、彼女は自分が一番であることに微塵の疑念も抱かなかった。そして、これからもそれが続くと信じていた。


 渚と出会うまでは。


 主観でもなんでもなく、沙弥よりも渚の方が全面的に勝っていた。確かに親を引き合いに出されれば、極普通の一般家庭の子である渚に勝ち目などないのだが、所詮しょせん親は親であり、子は子である。それらを除外し、個で対立したとき、沙弥はこれまで感じたことのない敗北感を感じ、初めて嫉妬心を抱いたはずだ。同時に、自分に勝ち目がないことも理解した。


 だから、彼女にとって渚の記憶喪失は願ってもいない朗報だったのだ。


 まず、沙弥は渚と関係を持っていた女子に、渚と関わりを持つのを止めるように言った。いきなり友人関係を止めるとなれば、渚は怪訝けげんに思っただろうが、幸いにも彼女は自分達と友人だった頃の記憶まで忘れてしまっている。元々、渚には友人がいなかった……そう、事実をねじ曲げたのだ。易々と女子達も関係を断ち切ることはできないはずだが、沙弥のバックには強大な力を持つ親がいる。それを脅しに使われることはなかったが、意識せざるをえなかったのだ。また、沙弥と同じように、渚に嫉妬していた女子が一定数いたのも確かだろう。


 あの渚が巧のことが好きという、出所の不明な噂も原因の一つだと思う。今、二人は恋人関係だ。前から沙弥が彼に恋していたのは間違いない。それに二人は幼馴染みだ。最愛の人を取られる恐怖に駆られての行動だったのかもしれない。


 彼女の行動は決して誉められたものではなかった。だけど、その気持ちも多少理解できてしまう。


 終わったことはどうしようもない。


『――ねえ、良くん。聞いてる?』

「ん? ああ、聞いてるよ」

『ならいいや。もう、全然反応しないから寝落ちしちゃったのかと思ったよ』

「すまん。許してくれ」


『怒ってなんかないよ。一方的に話してた私も悪いと思うしね。良くんはなにか話したいこととかある?』

「あるよ」

『お、珍しいね。どんなことなの?』


 だけど、僕は君を前の君に戻してあげたいと思う。あの頃の楽しそうな君の笑顔を見たい。今みたいに近くじゃなく、遠くからでもいいから。


「なあ、明日、何処か行かないか?」

『いいよ。でも、忙しいから夕方くらいにしか会えないかも』

「それでもいいよ。じゃあ、十八時くらいに今日遊んだゲームセンターの前で落ちあおう」

『うん、わかった』

「おけ……と、もうこんな時間か」

『私、日記書かないと』

「そういえば日課だっけ? 夜遅くまではやるなよ。お休み」

『お休み……また明日』


 数秒経って、向こうから電話が切られる。二時間くらい話していたようだ。


 だが、不思議と疲れていなかった。


 


 次の日、渚は時間より二十分早く約束した場所に来た。清楚な白いワンピースに、七色のサンダル、大きな麦わら帽子が夏らしさを演出している。


「おはよう……の時間帯でもないかな」

「ま、いいだろう。じゃ、何処に行く?」

「えっとそうだね……って、決めてなかったの?」

「……すまん」頭が足りてなかった。「なにか行きたい所はあるか?」

「ん、そうだね。海なんてどう?」

「いいんじゃないか。行こう」


 僕は海岸の方へと歩いていく。しかし、いきなり背後から手首を掴まれ、たたらを踏みそうになる。


「……なんだ?」

「ねえ、手繋がない?」

「はぁ? いや、別にいいけど……」

「じゃ、決まりね」


 渚は僕の掌を握った。力を少しでも加えれば、砕け散ってしまいそうなほど繊細で小さな手だった。でも、不思議と手全体を包まれているような温もりも感じた。


 会話もなく歩いていく。今、渚がどのような表情をしているのかは気になったが、恥ずかしくて見れなかった。


 五分もしないうちに海に到着する。太陽が水平線に半分食べられていた。日中に直射日光を浴びた砂は踏みしめた靴の隙間から侵入してきて、僕の足を焼いていく。海岸の真ん中辺りに着くと、渚は手を離して海へと一直線に駆け出した。夕日と重なる背中が眩しい。


「ひゃっ、冷たっ‼️」


 渚が海の中に足を踏み入れた。小さな波が幾重にも生まれ、砂浜に反射して消えていく。跳ねた水飛沫が茜色の光を浴び、ガラス玉のように光を放っていた。


 その中で冷たいと笑う少女は――この瞬間、世界で一番綺麗な少女だったと思う。


 まるで、その姿は女神のようだった。


 いや、女神そのものがそこにはいたのだ。


 心を奪われた。跳ねる渚に見惚れていると、突然、なにかが飛んできた。


「――冷たっ!?」

「あははっ」

「っ、渚っ!」


 海水をかけられていた。夏の暑さに火照った体が急激に冷めて震えた。両腕で自身を抱き締める僕を見て、渚の笑顔は喜色を濃くした。


「……にゃろっ」

「ひゃっ、冷たいっ!?」


 僕は両手でお椀の形を作り、渚に向けて水をかけてやった。彼女は避けようともせず、全身で受け止めた。ずぶ濡れになって透けてしまった服のせいで……下着が露になっていた。僕の目線はそこに釘付けになる。だから、渚の反撃に対して、なんの対応もできず、また大量の水を被ってしまう。


「こ、このっ」


「ははっ、当たらないよ~」


 そのまま僕たちは夕日が沈み、空が完全に夜空になるまで水を掛け合った。互いにずぶ濡れになり、何度も砂浜を転がったりしたせいか、身体中が砂まみれになってしまった。


 終了の宣言をしたわけでもないのに、気がつけば僕たちは浜に寝そべって夜空を見上げていた。


 渚は片手を夜空に突き上げる。


「なんか、今日の空は手が届きそうな気がするよ」

「そうか?」

「うん、なんかね、今まで届かなかったものに届きそうな気がする」


 視界一杯に、青紫色の画用紙に穴を開けたみたいな夜空が広がっている。


 渚との時間はいつも流れ星だった。とても輝いているのに、とても短い。いつも、この時間が永遠に続けばいいのにと思う。


 でも、本来この時間は存在するはずのない時間だった。渚の記憶喪失というイレギュラーな出来事がなければ、始まることすらなかった物語だったのだ。


 だからこそ、僕は質問する。


「なあ、渚。あまりにも突飛な質問なんだけどな」

「ん? なに?」

「渚って今――幸せか?」

「うん、幸せだよ」


 即答だった。迷いなど感じられない、毅然きぜんとした声だった。


「本当に?」

「本当だよ。嘘はついてない」

「……記憶がなくならなければとか、考えたことない?」

「うーん、そうだね……」


 渚は唸って考え始める。でも、それも数秒ほどで、すぐに答えが返ってきた。


「考えたことないって言ったら、嘘になっちゃうね。何度も考えたよ。記憶なんか失わなかったら、こんなに悩むこともなかっただろうし、こんなに苦しい思いをすることなかった」

「だろうな」

「前の私って、とても真面目で頭がよくて、人気もあったんじゃない? 自意識過剰かもしれないけど」

「いや、あってるよ。渚の周りには女友達がいて、人気投票は断トツで一位だった。テストもいつもトップだった」


「だよね、じゃないと、土日休みに朝から塾に行ったりしないしね。でも」渚の声が影を帯び始める。「人気者だったっていうのは実感がわかないな。むしろ、嫌われてたんじゃないかってくらいだよ」

「……それは」

「だからね、昔がよかったってわけでもないの」

「えっ」

「だってね、おかげで――」


 渚は体を起き上がらせる。少し潤んだ瞳が、真っ直ぐ僕の目を射抜いていた。そして、少し高いところから、僕に向かって言った。


「――好きな人と一緒にいられるんだから」


 それは想定外で、唐突な告白だった。一瞬、唖然として、遅れて熱さが込み上げてくる。きっと、今の僕の顔は暗闇の中でもわかってしまうくらいに真っ赤だろう。渚の表情がそうだった。彼女は照れを隠すようにして、微笑を浮かべた。


「あはは……ね、良くんはどうかな? 私のこと、好き?」

「い、いや、そりゃ……好き、だけど……」

「じゃっ、付き合ってくれる?」


 ああ、と答えそうになるがすんでの所で止める。このまま、本当に告白を受けてもいいのだろうか? 記憶を失ってしまった渚の一時の迷いなんじゃなかろうか。もし、記憶が戻ったら、この関係も……


「――大丈夫だよ」そんな僕の心模様を見通すかのように、渚は続ける。「記憶を失う前も後も……私は良くんのことが好きだよ。だから、嫌いになったりなんてしない。関係が変わることはないから。だから……ね」

「……ははっ」


 慈愛に満ちた笑みと物言いに、心に漂う暗雲が一気に晴れてしまった。迷いなど消え去り、残ったのは前向きな感情だけだった。僕は立ち上がり、渚の手を握った。


「いいよ、いや、こちらからもお願いするよ。俺と……付き合って欲しい」


 いつまで渚との時間が続くかはわからないけど、彼女が飽きるまで一緒にいてやろう。彼女が本当の自分を取り戻して、僕のことなど眼中になくなってしまったとしても、あの頃の楽しそうな笑顔が見れるのであればそれで幸せだ。


 だけど、渚の好きな笑顔が僕の言葉や行動で作り出せるなら、きっと、それ以上の幸福で満たされることだろうと思う。


 この瞬間、僕は世界で一番幸せな男になった。


 


 しかし、


「なんで渚は俺のことなんて好きになったんだ?」


 家に帰ってきて新たに生まれた謎について考えてみたのだが、やはり答えは出なかった。帰り際に本人にも聞いてみたのだが、


「……秘密だよ」


 と、はぐらかされてしまった。その後も眠くなるまで考えてみたのだが、結局、どうでもいいかという結論に至って、布団の中に潜った。


 


「~~♪」


 鼻唄を歌いながら、良くんと付き合えた喜びを噛み締めていた。布団の上を何回か転がってから、良くんと電話をする以外の、もう一つの日課をするために机に向かい合った。


 日記帳を開く。開いたのは白紙の頁ではなく、前の頁だった。


 実は、この日記をつけるという日課は、記憶を失ってから始まったものじゃない。失う前からずっと続けてきていたことだ。記憶喪失になってからは余裕がなくて、書くのを止めようと思った。でも、このままじゃどんどん前の自分から離れていきそうで怖くなって、やっぱり続けていこうと思った。


 書いてる途中、ふと、前に書いた日記を見れば前の自分を理解できるんじゃないかということに気づいた。だから、引き出しに詰め込んであった大量の日記帳を片っ端から見ていった。


 そして、私は見つけたのだ。友人や親、先生への愚痴、楽しかった思い出の中に、彼――良くんの名前を。


 そこに記されてるエピソードは大したものではなかった。でも、良くんのことを書く私の字や文章は生き生きしていた。好きという気持ちが存分に伝わってくる文だった。


 だから、私は彼と会ってみようと思ったのだ。


 実際に会ってみて、私は胸の奥に走った痛みで確信した。間違いなく、恋から起因する痛みだった。記憶はないはずなのに、何故か恋心だけは奥深くに根づいていた。


「……ふふっ」


 好きな人と付き合えた喜びに、不安や恐怖は完全に消え去っていた。


「明日が……これからが楽しみだな」


 もう、迷わない。前の自分には振り回されない。


 私は、今の私を生きていこう。


誤字や感想、直した方がいいところなど教えてくださると助かります。

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