第2話
もう残り数日で中学最後の夏休みが終わりかけの日、また僕は、図書室にいた。受験まで残り、半年を切っていた。夏最後の追い込みをしている最中、いつものように「不思議ちゃん」が話しかけてきた。
「ねぇ藤井君?」
「何。小早川さん」
「だから彩音ちゃん」
彼女は、また右手の人差し指を立てて、訂正させた。
初めて、図書室で話しかけられて以来、僕は彼女のお気に入りに、なったのか知らないが、毎日、話しかけられるようになった。そして今日も。
特段、嫌という訳ではない。毎日、図書室に受験勉強をしているとイライラが溜まっていたが、彼女と話すと気が落ち着いた。いつも息抜き程度に話していた。
「で、小早川さん。何?」
彼女は、ムッとした顔で見てきた。これ以上同じやり取りをするのは、不毛と思ったのか話を続けた。
「ねぇ。藤井君て、好きな子いるの?」
「はぁ!?」
突然のことで大きい声を出してしまい、周りの視線が痛い。
僕は、顔が赤く、そして熱いことに気が付く。
彼女は、そんな僕を見て、クスクス笑う。
「いないよ」
先ほど話していた声よりも、一段小さくして答えた。
「つまんない」
彼女は、またムッとした顔で呟いた。
「ごめんね。つまんない人で」
僕は、少し皮肉っぽく言った。
彼女は、つまんなくない人で、僕は、つまんない人。そういう風ということなのだ。だから彼女には「不思議ちゃん」という名前がある。
「まぁいいや」
彼女は、持ってきたバッグの中からガサゴソと何かを探し始めた。
「何、探してるの?」
「ワーク」
「何で?」
「いや、藤井君に教えてもらおうと思って。あ、あった。」
「はぁ」
バッグの中から、数学のワークを取り出した。ページを捲り、人差し指で、問題を指した。
「これ」
僕は、教わるのは好きじゃないが、教えるのは好きだ。だから、少しやる気が湧いた。
「これ、こうすんだよ」
「あぁ。そういうことね」
彼女の顔が笑顔で満たされる。
「藤井君。教えるの上手いね」
「そうかもね」
多分、彼女は、教わるのが好きなのかもしれない。そう思った。
***
僕は、待ち合わせの駅前のカフェに十分前に来ていた。この前の墓参りの帰りに、僕と宇野さんと碧で連絡先を交換した。その数日後、塾講師のバイト帰りに、碧から連絡がきた。
「不思議ちゃん」について、知りたいということで、僕は、碧から提示された日が、ちょうど空いていたので、了承した。
窓側の席で、スマホで、今日の運勢や、ニュースを見ながら待っていると、手の中でスマホが揺れた。碧からのメールだった。
『もう中にいますか?』
僕は素早く返信した。
『もう中にいます』
とても、業務的なメールだった。
返信してから、すぐに、碧は店内に入って来た。僕は、立ち上がり、碧の方に小さく手を振る。碧は、僕に気が付き、ニコッとし、こちらに向かって歩き出した。
「こんにちは」
碧は、会釈をしながら、挨拶をした。
「こんにちは」
僕と碧は、少しの間、そこに立ち尽くしていた。どのタイミングで座ればいいか分からずにいた。
僕と碧は、顔を見合わせて笑った。
「やっぱり私たち、息ぴったりなのかもしれないですね」
と碧は、言いながら笑っていた。
「じゃあ座りますか」
そう碧は、促した。
碧は、着ていたカーディガンを脱いだ後、アイスコーヒーを頼んだ。
「碧は、小早川彩音について知りたいということでいいんだよね」
僕は、早速、話を切り出した。
「はい」
碧は、素気なく答えた。
僕は、一通り「不思議ちゃん」との出会いから少しずつ話した。碧は、頷いたり、アイスコーヒーをストローで飲みながら、聞いていた。何かを質問することは無かった。
なるべく、丁寧に話した。
碧のアイスコーヒーが無くなり、ふと僕は、それを見て自分のアイスコーヒーに全然手をつけていないことに気がつく。その証拠に、アイスが溶けかけていて、コップの中の嵩が増えていた。
窓から外を見るともう、茜色に染まりかけていた。
「あの、もう帰る?」
碧に尋ねると
「そうですね」
と簡単に答えた。
僕は、伝票を取ろうとすると、碧が「少し待ってください」と手を僕の伝票を取ろうとする手の下に素早く入れた。
「どうしたの?ここは、僕が奢るから大丈夫だよ」
「そう言う訳ではないんです」
碧の双眸は、僕の顔をしっかり捉えていた。
僕は、碧の言うことを聞くために、もう一度ソファに深く腰掛ける。
碧は、少し黙ってから、口を開いた。
「あの、藤井君、私の質問に答えてくれますか」
碧の顔が今さっきとは違った。
「いいけど」
「ありがとうございます。ただ答えるのは、はい、か、いいえ、で答えてください」
碧は、選択肢を絞らせた。僕は、別に良かったので、「いいですよ」と軽く答えた。
「はい。じゃあまず、藤井君は、不思議ちゃんのことが好きでしたか?」
一瞬、答えることに躊躇したが答えた。
「いいえ」
「では、今、好きな人はいますか?」
「いいえ」
碧は、少し深呼吸をしてから、次の質問を言った。
最初、その質問に僕は、耳を疑った。
「もう一回言ってくれませんか?」
確認のために訊いた。多分、ルール上は駄目なのだろうが、碧にとっては、その質問が重要であり、多分、今日、僕を呼んだ理由なのか、分からないが碧にとっては、重要だった様だった。
「私と付き合って、同棲をしませんか?」
「はい」
僕の脳みそは整理が付く前に、僕の口に指示を出していた。
言ってから、少しして、状況が把握できるようになると自分がどれだけ、大変な事を言ったのか分かった。
だが言ってしまったのは、変えられない。とりあえず理由だけは訊こうと思った。
「あの、何で?」
碧は、顔を下げてから、もう一度僕の顔を碧の双眸が捉えて言った。
「私は、藤井君が特別、好きではないですが、藤井君には、私の持ってないものを持っている気がしたんです。それが何か分からないですけど。でも私たちは、一緒にいなければいけない。そんな気がしたんです」
今日、初めてこんなにも長く碧の声を聞いた気がする。
「そういうことか」
僕は、納得していないのに納得していた。
心の中でストンと落ちた音がした。その正体が何かは分からない。
その後、カフェで別れた後。後で連絡すると言われ、僕は。自分の家の方に帰り始めた。
自宅に着いたころには帰り道の記憶が消えており、どのようにして帰って来たのかすら分からなかった。
ただ一つ言えるとしたら、自分の財布の中には、一枚のレシートがあり、二人分のアイスコーヒーの値段分のお金が消えていた。