第8話 ルビネスの休日
寝室のカーテンを開ければ、眩しいほどの朝日が煌めく。小鳥たちの歌も聞こえてくる。ルビネスは髪の毛を整え、クローゼットを開けた。取り出したのは、愛用のくすんだオーバーオールではなく、ゆったりとしたローブだった。そしてどういう訳か、作業場には向かわずに玄関から外へと出て行った。
理由など無い。ただ何となく、外に出たかったのである。ルビネスに休みなど無い。この何となくの外出が、仕事から離れる一つの方法であった。油くさい作業場から解放され、心地よい風に髪を撫でられる時間。ルビネスは、時折その感覚が無性に感じたくなる。
人々はルビネスの姿を見た途端、まるで汚物を見るように目を逸らし、離れていった。どんなに混雑した道でも、ルビネスの前だけ道ができるほどだ。ルビネスはそんな事を気に留めてはいない。いちいち気にしていたら、精神の安定など無いからだ。
隣町までさしかかった時、ふと、ある店に目が止まった。食料店のようであるが、店の主人が外で木の棒を持って何かをつついている。いや、正確には追い出そうとしている感じである。その必死な姿があまりにも滑稽で、ルビネスは歩み寄っていった。
ルビネスに気付くなり、主人は慌てて棒を置いて愛想笑いをした。この客が、すぐに立ち去るのを心底望みながら。しかし、ルビネスは主人には一瞥もくれず、先ほど主人が格闘していた物体に近づいた。それは鈍く銀色に光るドロドロとした液体で、水銀、というのがふさわしく思えた。だが、心なしかこの物体が動いて見える。
「あんた、これを追い出そうとしていたのか。」
多少固形状であるらしく、店の中から引きずった後が見えた。この物体は固体と液体の両方の性質を持っていると考えられる。
「最近、この辺りで大量発生してるんだ。おっかないから、外に出すので精一杯でよ。」
主人がなるべく明るく答えた。ルビネスは手袋をし、その奇妙な物体に触れてみた。液体のように簡単にちぎれ、固体のように簡単に掴める。その上、確かな質量もあった。
が、触れた途端物体が勢いよく流動し、それは形となった。ルビネス自身となり、サファイの姿になり、両親などルビネスが今まで出会った人物に変化した。そしてしばらくすると、また元のように静かになった。なるほど、主人が『おっかない』と言った理由が分かる気がする。この物体は、どうやら触れた物の“記憶”を形作る事のできる物のようだ。液体なのか固体なのか、はたまた、生きているのかもしれない。
「興味深い品だな。」
ルビネスはつぶやいた。まるで、科学者である自分に対しての挑戦状だ。
「これ、もらってもいいか?」
ルビネスは一度、主人の顔を見た。主人は話しかけられた事が意外だったのか、あたふたしている。
「い、いや、持ってってもらえるなら大助かりだ!邪魔で邪魔でしょうがなかったからなあ!」
それを聞き、ルビネスは袋を取りだした。手を触れずに、袋に詰め込んでいく。サンプルの確保のため、その辺りの同じような物体も集め始めた。そんな様子を、周りの人々は不思議そうに見つめた。あの奇妙な物体に興味を抱くなど、正気の沙汰では考えられない。狂気じみたあのルビネスなら、やってのけてしまうのかもしれないが。
不穏な空気とは反対に、ルビネスの心は明るかった。役に立つかなんて関係無い。ただ、自分が満足のいく研究ができれば。早速、調べてみたいと思ったのだ。
これが、世界の運命を大きく揺るがす物だとは、当然何も知らずに…