第7話 暗黒物質
サファイがルビネスの作業場に入っていくと、部屋の隅に不思議な物が置かれていた。ドーム状のカプセルに入ったそれは、黒い霧としか言いようがない。サファイは気になって、もっと近づいてみた。
「やめておけ。そいつは人体、特に精神面に悪影響を及ぼすからな。」
不意に聞こえたルビネスの声に、サファイは驚いて伸ばしていた腕を引っ込めた。ルビネスは机に向かって何かを書き込んでいる。
「じゃあルビネス、この黒いものは何?」
サファイにとっては、ルビネスが危険な物を部屋に入れた事が信じられなかった。それに、研究対象となる物しか入れようとしない事も。ルビネスはペンを置いてサファイに向き直った。
「その黒いもやは、高濃度のマイナスエネルギーが可視化したものだ。」
以前、マイナスエネルギーに取り憑かれると人間は悪行に走ると聞いた事があった。しかしサファイは、それ以上の事を知らない。
「なあ、時々思うんだけど…マイナスエネルギーって、何なんだ?」
濃紺の瞳が、まっすぐ深紅の瞳に向かう。ルビネスはサファイに向き直ったまま、質問に答えた。
「マイナスエネルギーは、人間の負の感情より発生するもの。だがおれは、これは宇宙を支える“暗黒物質”のようなものだと考えている。」
サファイには、ますます訳が分からなくなった。“暗黒”と称される物が宇宙を支えるなど、実感できるようなものではないからだ。
「悪いけど、“暗黒物質”のこと、最初から説明してくれないか?」
ルビネスは一度、一呼吸置いた。
「サファイ、お前は宇宙が常に広がっているという事を知っているか?」
「え?それは知っているけど…」
唐突な切り出しに、サファイは戸惑った。この話がどうやって暗黒物質につながるのか、サファイには分からない。しかしルビネスは、そんな彼の態度を気にしなかった。
「星々の観測から、宇宙は光速に近いスピードで広がっている事が分かっている。だが、その動きを邪魔する物があってな。」
「邪魔する物?」
サファイは眉間にしわを寄せた。ルビネスはそのことに予想が付いており、少し間を開けて続けた。
「それは、“重さ”だ。」
「重さ…」
「もっと厳密に、分かりやすく言えば、“重力”あるいは“万有引力”と呼ばれるものだな。宇宙にある星々が互いに引き合い、とどまろうとしている。」
サファイには少し実感が湧いた。重力に逆らうのが難しいのは、魔法であっても同じだから。ルビネスはやはり続けた。
「しかし重力には重要な特徴があってな、これが大きな問題となるのだ。」
サファイは考えてみた。重力の特徴を。しかし、問題となるものが何か、分からなかった。ルビネスは彼が考えるのを見て、少し間を置いた。
「それは、『離れるほど弱くなる』という特徴だ。」
「つまり、星々が離れるほど、引っ張り合う力が弱くなるって事?」
「その通りだ、サファイ。」
ニヤリ、とルビネスの口の端が上がる。ルビネスに褒められ、サファイは嬉しかった。
「では質問だ。邪魔をする力が弱まった時、宇宙の広がるスピードはどうなる?」
「邪魔をする力が弱まったら…そうか、徐々に速くなる!」
「その通りだ。論理的思考でいけばな。」
今度もルビネスに褒められたが、今度は不可解な物がくっついていた。こう言う台詞の時は、逆接である事が多い。
「だが奇妙な事に、宇宙は同じスピードで広がっている。」
「なんで?」
「さあ。」
不可解な事だった。だが、ルビネスは苦笑いを浮かべて肩をすくませるだけ。導いた答えが現実と異なる。ルビネスにも、理由は分からないようだ。
「あるとすれば、“別の何か”が要因であると考えられる。人々はそれを“暗黒物質”と呼んだ。」
サファイはしばらく話を整理していた。とりあえず、暗黒物質と呼ばれうる物が何か、何となくだが分かったと思う。とはいえ、まだまだ納得しきれていない部分もある。
「その暗黒物質って、本当にあるのか?」
「それは分からない。人間はその存在を感知する事ができないからな。だが、あると仮定すれば矛盾が生じない。」
つまり、未だ謎だらけの存在。それが明かされるのは、恐らくもっと先であろう。
サファイはハーブティーを用意し、もう少し話を聞こうとする。
「“暗黒物質”については何となく分かったけど、それがマイナスエネルギーとどう関係があるんだ?」
元はといえば、サファイはマイナスエネルギーについて聞きたかったのだ。ルビネスはハーブティーを飲んでから、遠くを見るような眼差しで言った。
「そうだったな。…調べてみて分かったんだが、マイナスエネルギーは高濃度に凝縮すれば異次元間を結ぶ性質があるようだ。」
ルビネスは一旦ハーブティーを置き、座り直した。
「定義通り暗黒物質が星々の発するエネルギーを押さえ、世界を小さくまとめようとする力だとしたら、このマイナスエネルギーも、異次元を繋げる事で世界をまとめようとしているんじゃないか、とね。」
ルビネスの導き出した答えに、サファイは眉間にしわを寄せる。
「異次元を繋げて世界をまとめる?そんな事が…」
「あくまでもこれはおれの推測だ。正しい確証はない。」
サファイの問いかけに、ルビネスは苦笑した。
サファイは、知らなかった。いや、ルビネスですら、気づけなかった。この推測が、全世界に大いに影響をもたらすものの一端である事に。