バレンタイン短編
本編をこちらに掲載したので、短編を再掲します
広いリビングに、甘い香りがあふれる。そこでは一人の男性がお茶とお菓子を準備していた。よし、と意気込んで、2階へ上がる。静まり返った部屋の戸をノックする。が、相変わらず静かなままだった。再びノックするが、やはり返事はない。
「ルビネス?」
恐る恐る戸を開け、彼女の名を呼ぶ。この部屋の主は愛用の椅子にほとんど身を預けていた。腕は力なく下がり、茶髪はとりとめもなく流れている。胸はゆっくりと上下していた。どうやら眠っているらしい。その顔を覗き込んだところで、彼女の深紅の瞳と目が合った。その双眸はまだいくらかまどろんでいた。が、突如きらりと光が灯り、すぐさま体を起こす。そして、ぐっと伸びをした。瞬きする間の行動に、思わず一歩後ずさる。
「悪い、起こしたか?」
「いや、いい」
男性が謝ると、先程まで眠っていた女性――ルビネスはぶっきらぼうに答えた。そのまま散らかった机を整理し始める。
「ところで、サファイ。何か用か?」
思い立ったように、ルビネスが尋ねた。サファイと呼ばれた男性はためらいがちに答える。
「お茶の準備ができたんだ。よければ休憩しないか?」
そうは言ったものの、サファイは少し心配していた。ルビネスは作業を途中で遮られたり、機嫌が悪かったりすると受けてくれないとよく知っていたからだ。ちらと盗み見ると、当の本人は顎に手を当てて何やら思案していた。
「実験データの集計は完了した。せっかくだからもらうとしよう」
承諾の言葉を聞き、サファイの表情は輝いた。そんな彼を、ルビネスは少し眩しそうに見つめていた。
1階に下り、ルビネスはソファーに腰掛ける。サファイが紅茶を注ぐと、リビングに芳香が立った。ルビネスは紅茶を飲み、用意されたお菓子を食べる。甘いミルクティーとチョコレートは疲れた体に心地好い。
「お茶請けにしては豪華だな」
何個目かを手に取ったとき、ルビネスはふとそんなことをつぶやいた。彼女にとっては何とはない言葉だったのかも知れない。しかしサファイは何と答えるべきか分からず、言葉に詰まる。その頬はほんの少し紅潮していた。痛いほどの沈黙に、ルビネスが焼き菓子をかみ砕く音ばかりが響く。と、不意にルビネスは笑い出した。訳が分からず、サファイは何が可笑しいのかと尋ねた。が、ルビネスはすぐには答えなかった。分からない。彼女の心の動きはいつも読めない。風向きのようにころころと変わってしまうのだから。少し落ち着いたのか、ルビネスはサファイに向き直る。
「そうか、今日はバレンタインだったな」
含みのある言い方だった。サファイは少し気に食わなくて、口を尖らせた。
「あ、今俺の事女々しいって思っただろ」
サファイはふて腐れて席から離れた。ルビネスは笑みを浮かべながら彼を見遣る。
「いや、お前らしいと思っただけだ。それに――」
静かにこぼれた言葉は、サファイにはよく聞き取れなかった。聞き返しても、何でもないと誤魔化されるだけ。そんな彼女の言葉が少し悲しくて。サファイは窓の外を見つめた。
彼が離れたその時に。ルビネスは自分にささやくようにつぶやいた。
「――今のままのお前が、好きだ」




