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身長三センチの人妻

作者: ゆいレギナ






 新婚生活が一年に差し掛かろうとしていたある日。

 終電から疲れた身体をひきずって帰宅すると、ウチの妻が小さくなっていた。


「アナタぁー、おかえりなさーい!」


 もともと小柄な妻だった。だけどそれでも、当たり前のように百五十センチはあったと思う。

 そう――様々なものが散らばる足の短いテーブルの端で、肌色の虫のようにピョンピョン飛び跳ねているようなサイズではないのだ。


「ん、どうしたの? 渋い顔して……会社でいじめられちゃった?」

「どーしたのじゃねぇーよっ!!」


 心配するように小首を傾げている妻に――といっても、小さすぎて正直近寄って目を凝らさないと表情なんてわからないのだが――俺はツッコむ。すると、妻らしき虫はふわっと数センチ飛ばされ、尻餅をついていた。痛そうにおしりをさすっている姿に、とっさに謝ろうと口を開くが、


「もう……唾を浴びせるのはベッドの中だけにして」


 なんて身体をくねらせる姿を見て、もちろん止める。

 とりあえずネクタイを緩め、訊くべきことを考える。何があったのか。どうしてそんな小さくなったのか。そもそもこれは夢なのか。

 

 その中で、俺が選んだのは、


「メシは?」

「もう! わたしはアナタの家政婦じゃないのよ!?」


 知ってるよ。

 ぷんすかと元気に怒る妻に安堵しながら、俺はその場に胡坐を掻いた。


「いつからそーなの?」

「……アナタを見送って、今日も『いってらっしゃい』のチューが出来なかったことにふて寝して……起きたらこうでした」


 顔を背ける様子からして、困らせて申し訳ないとでも思っていそうである。

 

「ふて寝って……そんなこと、別に今日に限ったことじゃねぇーだろ」

「そりゃあ、結婚初日以外にしてくれたことはないんだけどさぁ」

「代わりに握手してんじゃん。てか、布団から出てきやしないくせに」

「ぬくぬくの魔力に敵うわけがないでしょ!!」


 やっぱり、しおらしいのは一瞬だったらしい。

 そんな妻が、小さくくしゃみをした。俺が頬杖ついてジーと見ていると、顔を赤らめ両手で胸を隠す。


「……えっち」

「そのサイズで欲情しようがねぇーよ」


 指でサイズを測ってみると、ざっと三センチくらいか。頭のサイズが五ミリ程度。股下の長さも一センチ程度。その胸囲も――だいたい、幼児に毛が生えた程度の微妙なスタイル。俺と同い年な三十路年相応な顔といい、良くも悪くも、まぎれもなく自分の妻のようだ。

 いくら小さいと言えど、親指姫を超えた豆粒サイズ。そんなミニマムからどうしてこんなキャンキャンとした声が聴こえるのかもミステリーだ。


「そもそも、おまえの肺どうなってんの? サイズの割にうるせーんだけど」

「そんな理屈ばっかり考えないでよ! こんな世の中、奇跡の一つや二つないと思ってないとやっていけないでちゅん!!」


 ――ちゅん?

 噛んだか? とニヤリと笑ってやろうとするが、どうも妻の様子がおかしい。自分で両肩を抱えて、少し赤い顔で俺の顔を見上げている。


 あーそうか。どうやら「ちゅん」はくしゃみだったらしい。普通に考えて、この冷えてきた秋の夜にハダカでいるのは寒そうだ。でも洋服を着せてあげようにも、もちろん元の妻の服は大きすぎて圧迫死しそうだし、人形の洋服を買ってきても、それでもまだまだ大きいだろう。


「やっぱり小さすぎるだろーよ、おい」

「……元からおっぱい小さいもん」

「やかましーわ」


 そんなもん、結婚する前から知っている。

 1LDKの狭い家の中で、ふと目に入ったのは、テレビの前に置かれたティッシュペーパー。一枚引き抜いて、妻に上に掛けてみる。


「わぷっ」


 あ、重そう。

 透けるように薄い一枚を剥いであげると、モゾモゾと端から妻が顔を出す。


「ぬくい!」

「そりゃーよかった」


 嬉しそうに笑う小さすぎる妻に、俺は苦笑を返す。





 だが、これで問題が片付くわけはない。


 まず、洋服問題。


「見て見てー! ウエディングドレスみたいー!! 懐かしい?」


 ティッシュをうまく破って巻いて、それっぽくしてみたのだという。やる気になればたいていのことができるのが妻である。だが、なかなかやる気が出ないのも妻である。クルリと回る三センチの姿が、妖精かなにかのように見えてしまうから困りものだ。

 糸が欲しいから裁縫道具箱を探せと言われて、片付けできない妻のテリトリーゾーンからそれを探し出すのに小一時間かかった俺の苦悩も、妻のカラッとした笑顔を見れば多少は報われたような気も――――


「もう一回、誓いのチューする?」


 なんて抜けたこと言われて、するわけもない。






 次に、食べ物問題。

 小さくなっても腹は減るのか、かすかに腹の虫が聴こえたような気がして耳を澄ませれば、


「ぐー!!」


 と、妻が自分で叫んでいた。


 腹いせに指先で弾いてやりたくなるが、下手したら本当に死んでしまいそうなサイズなのでなんとか我慢し、いそいそと用意するのレトルトのご飯。電子レンジでチンしたものを開ければ、白い湯気がほかほかと立ち昇る。


 それを見て羨ましそうに涎を垂らしている妻よりも先に一口食べようとすると、妻は絶望に対面したかのごとく悲痛な顔をするので、仕方なく一粒指先に乗せて、妻の前に差し出してみた。


「ごはんー」


 俺の指ごと抱きかかえ、嬉しそうにかぶりつく妻の姿に、悪い気はしない――――が、妻はそんな都合の良い女ではなかった。


「肉はー?」


 冷凍庫に凍らせてあったひき肉を一粒チンして差し出すと、


「野菜はー?」


 冷凍ブロッコリーを再びチンして、小さな花を取ってやり、


「デザート!!」


 もう、砂糖の海で溺死しろ。

 砂糖の小さな粒をおにぎりのように持って食べる妻を見ながら嘆息しながら、俺は見てしまう。


 花柄のカーテンの隙間から、差し込むのはキラキラとした朝陽。


「徹夜かよ……」


 絶望の海で溺死したのは、俺の方だった。




 

 だがとりあえず、妻の着るもの、食べるものはなんとかなった。

 昼間ならまだ暖房もいらない季節だ。衣食住。これが整いさえすれば、俺が仕事行っている間くらいは凌げるだろう――と思っていたのだが、妻から出る要求は数知れず。


 お風呂はペットボトルの蓋にケトルで沸かしたお湯を注いだ。適温は自分で確認してもらうとして、身体を拭くタオルの代わりは、もちろんティッシュペーパー。手を洗ったり、飲用水の代わりとして、別の蓋にはミネラルウォーターを注いである。埃防止として、ラップもかけるオマケつきだ。


 そんなお風呂よりもトイレの方が心配だったのだが、そんな俺に妻は笑顔で首を振る。その辺は乙女の不思議で問題ないというのだ。


 そんなわけで、テーブルの上には食べ物と水の入ったペットボトルの蓋と予備のティッシュ、どう使うかは知らないがリクエストされた短い爪楊枝を並べ終え、俺はネクタイを締める。


「お仕事行っちゃうの?」

「妻が三センチになったので休みます……なんて言えるわけねぇーだろ」


 口を尖らせながらも、妻がせがむように両手を前に出して、


「チュー!!」


 と言うので、俺は仕方なく人差し指を差し出す。


「ふふ。行ってらっしゃい。頑張ってね!」


 そう言って俺の指先に頬ずりする三センチに妻に可愛いと思ったのは、きっと気のせいだろう。





「係長ー。この書類のことなんすけどー」


 呑気な後輩が、大事な書類を振り回しながら俺のデスクにやってくる。

 そして、


「あれ、先輩。寝不足っすか?」

「あー……わかる?」


 俺が欠伸を噛みしめつつ応えると、後輩がニヤリと笑った。


「やっぱあれっすかー? 奥さんが激しくて寝かせてもらえなかったとか?」

「んなわけねぇーだろ」


 正直間違いではないのだが、そう言ってツッコまれたところで、本当のことなんか言えるわけがない。

 もしも朝まで普通の人間だった女性が、半日で身長三センチの妖精以下のサイズになりました――なんて世間に知られれば、マスコミどころの騒ぎではない。


 国家機密の機関に捕まり、実験につぐ実験。

 あるいは、闇の組織に高値で売られて見世物として全世界を……みたいな後味の悪い漫画みたいなことになったら、泣くに泣けない。


「参ったよなぁ……」


 思わずボヤくと、後輩がハッと申し訳なさそうに顔をしかめる。


「あ、すいません……そういえば、奥さん……でしたね……」


 ボソボソと、何を言っているか聞き取れない。だけど、下手に深入りされれば面倒だ。


「それで、書類がどうしたって?」

「あ、そうそう。これなんすけど――――」





 ある意味、妻がミニマムサイズになって安心することがある。


 まず、帰ってきた途端に突撃する勢いでハグされることはないだろう。

 そして、週に二回の頻度である創意工夫しすぎた料理を食べさせられることもないだろうし、ぐちゃぐちゃに散らかされた部屋を片付ける必要もないのだ。


 会話のできるペットが出来たと思えば、悪くないのかも。

 気軽にそう考えて玄関を開けると、耳に飛び込んでくるのは妻の悲鳴。


「どうした!?」


 靴を脱ぐことも忘れてそのまま部屋に駆け入ると、妻が三分の一に切った楊枝を振り回して、季節外れの蚊と戦っていた。楊枝は、妻の要望で何かあったら困るからと置いていったものだ。帰宅後にツンツン突かれて遊ばれることは想像していたが、本当に武器として振り回しているとは予想していなかった。


 俺は何も言わず、パチンと蚊を叩き潰す。


「アナタ……」


 久しく聞いたときめくような声音に見下ろすと、妻が目を真っ赤にして目を笑みを浮かべていた。


「……何してんの?」

「黒い邪悪な魔物と戦っていたの! ドラゴンに立ち向かう勇者みたいだったでしょ?」

「…………」


 なんて応えたらいいのかわからず、とりあえず俺は台所で手を洗う。

 掛けられたタオルが少し湿っていた。そういや、昨日はそれどころじゃなくて変えてなかったか。


 このサイズの妻に家事も期待できないし……と思いながら振り返ると、妻はテーブルに座り込んで、肩を上下に動かしている。


「どうした? どこか痛い?」


 床に座って顔を近づけると、わぁっと泣き出して俺の鼻に抱き着く。


「怖かったあ! 怖かったよお!!」


 よくよく考えたら、身長三センチからしてみれば、蚊だって大型犬くらいのサイズなのではないだろうか。角の生えたシェパードが自分のまわりをブンブン飛び回ってたら、かなり怖そうである。


 俺の鼻息のせいか、妻の長い髪がふわっふわっとなびいている。

 俺はなるべく息を止めながら、妻が泣き止むのを待った。





「一人にしないでええええええええええええ!」


 ギャーギャー泣き叫ぶ三センチの妻を一人家にも置いておけないのなら、どうするか。

 答えは明白、連れて歩くしかなかった。


 スーツの胸ポケットに入れてみたはいいものの、


「暗い……暗いよぉ。何も見えないよおおおおお」


 と泣き止まないので、仕方なく安全ピンで少し大きめな穴を開けた。

 あーあ。三十路の記念に買った新しいスーツだったのに。


 一緒に選んでくれた妻は、そんな俺の気も知らずに、


「アナタの働いている姿見るのは久しぶりね! あのチャラい後輩くん、仕事できるようになったの?」


 会社のビルの自動ドアを通る俺に対して、ご機嫌に話しかけてくる。

 妻とは社内恋愛だった。身体が弱く、よく頭痛がすると悩んでいたため、結婚を機に退職した妻。久々に見る光景に、テンションが上がっているのだろう。


「……外であまり喋るなよ」

「いいじゃない。どうせ誰にも聴こえないんだし」


 やっぱり疑問なのだが、どうして三センチしかない妻の声が、こんなハッキリと聴こえるのだろうか。

 口も小さければ、喉も、肺もそれなりのサイズのはずである。こうして外を歩いていても、他の音が特別大きく聴こえるわけではないから、俺の聴力が発達したわけではあるまい。


「おまえ、テレパシーでも発してんの?」

「まぁ、愛のパワーだったら誰にも負けるつもりはないけど?」


 うん、知ってる。AかBと聞いたらCを答えるような奴だというのは、嫌でもよくわかっている。


「アナタのためならね、わたしは奇跡の一つや二つ起こすことだって出来るのよ?」

「くどい」


 項垂れつつ足を進めると、肩を叩いてくるのは例の後輩だった。


「ちわーす、係長! 昨日はちゃんと寝れましたか?」

「あー、多少はな」


 俺がなげやりに応えると、胸にいる妻が「わぁ、後輩くん相変わらずだねぇ」なんて騒ぎ出すので、俺はとっさに胸ポケットを押さえる。


 すると、後輩が心配そうに顔をしかめる。


「どうしたんすか、係長。胸、痛いんすか?」

「あ、別に……」


 俺が誤魔化そうと頭を働かせていると、後輩は言う。


「無理はしないでくださいよ。奥さんが倒れてから、ろくに寝れてないんですよね? 係長まで倒れたら、奥さん意識取り戻しても、泣いちゃうんじゃないっすか?」


 え……?


 胸の妻が珍しく黙っていた。

 後輩が、俺を励ますように微笑む。


「明日は土曜で休みなんすから、病院に行けますよ! テキパキ働いてさっさと家帰って、ゆっくり休んでからお見舞い行かないと! 係長が具合悪かったら奥さん絶対怒りますよぉー。ほら、あの人すぐピーピー説教するじゃないっすかー。おれも何回怒られたことか……て、係長? 聞いてます?」


 俺は頭の中で反芻する。


 倒れた。

 病院。

 意識がない。


 ポケットを押さえる俺の手に、微かな温もりを感じる。穴から手を出したのだろう、妻の小さすぎる手に、思わず涙が出そうになった。





 家に帰ると、現実を知る。


 テーブルの上に散らばるのは、妻のお飯事(ままごと)のような生活用品紛いのものではなく、薬の数々。

 テパス。マイセリ―。ルネスト。どれも安定剤や入眠剤の一種だ。


 それらを薙ぎ払って、俺はテーブルに伏せる。


「アナタ……?」


 どうやって胸ポケットから這い出たのかは知らないが、少しだけ顔を上げると、心配そうな顔をした三センチの妻が、俺の鼻頭を撫でている。


「おまえは……何者なんだよ?」

「わたしは……」


 しぼむように細まる声は、肝心な単語を俺の耳まで届けてはくれない。


「クソッ!」


 俺はテーブルを叩いて、そのまま目を閉じる。





 妻が倒れたのは、半年前だった。

 いつも通り残業して家に帰ったら、妻が倒れていた。料理の途中だったのだろうか、少し焦げたカレーの匂いが漂う部屋で、吐いた跡と共に横たわっていたのだ。


 呼んでも意識朦朧としている妻を抱きながら、呼ぶのはもちろん救急車。

 搬送された病院で、医師から告げられたのは聞き覚えのある脳の病気。女性の方がなりやすく、また発症年齢が若いとはいえ、因子があれば若い女性でもなる確率は低くないという。彼女のご両親ともに高血圧の薬を飲んでおり、充分にその遺伝子を受け継いでいたのだろう。


 命に別状はない――という医師の奇跡的な言葉に安堵したのも束の間、搬送までの時間がかかったことから、意識が戻るまでに時間がかかるという診断にショックを受けたのは言うまでもない。


 それから、半年。

 しばらくは溜まった有休を無理矢理消化して妻の眠る病院に通っていたが、いつ回復かわからない最中、職を失うというリスクは非常にまずい。世の中は非情で、なにをするにも金がかかるのだ。


 俺が不眠症の診断を受けるまでに、時間はかからなかった。

 いくつもの薬を試してみたはいいものの、どれもあまり効果はなく――ただ、テーブルに散らばる薬が増えていくだけだった。





 妻の微妙に音程のズレた歌声が聴こえる。子守歌だろうか。そんな優しい雰囲気であるにも関わらず、よく聴けば昔のアニソンではないか。


「おい――」


 思わず苦笑して、顔を上げる。

 いつも間にか寝ていたらしい。カーテンの隙間から見える空が明るい。時計を見ると、もう十二時を回っていた。


 こんな気分なのに、なに久々に熟睡してんだよ……。


 自分自身に呆れつつ、俺が部屋を見渡す。基本的には無駄に整理された、生活感が廃れつつある部屋。ただ、一角にある大きなメタルラックだけが、おもちゃ箱をひっくり返したように様々な雑貨でぐちゃぐちゃだった。ここは、妻専用の物置だった。片付けられない妻のために、専用のスペースを作ったはいいものの、案の定、ただそこにツッコむだけで、一つ取り出すだけでモノが落ちてくる惨状となった。


「また俺に片付けろって?」


 厭味ったらしくそう言っても、返ってくる答えはない。

 等身大の妻がいないのはもちろん、身長三センチの妻もいない。


「やっぱり、ただの幻覚だったのかな……」


 鼻で笑いながら、いつのまにかハンガーにかけていたスーツに袖を通す。妻とこれを買いに行った翌日、彼女は倒れたのだ。彼女にこれを着たカッコいい俺を見せたくて、いつもお見舞いにはこのスーツを着ていく。


 埃を叩くように胸元を叩くと、ふとスーツが破けていることに気づく。


「マジかよ」


 よく見ると、胸のポケットに安全ピンで無理やり開けたような穴があった。





 病院へ行き、おぼつかない足取りで妻の部屋へと赴く。歩きながら顔なじみになってしまった看護師に会釈するのも、もう慣れてしまった。


 病室の扉を開けると、妻はひとり、眠っていた。

 昼寝が好きな妻である。点滴に繋がれ、優雅に目を閉じている姿は、もしかしたら彼女の本望かもしれない。


 いつも通り備えのパイプ椅子に座って、妻の手を握った時である。

 彼女の胸の上でぴょこぴょこと小さな虫が飛び跳ねていた。目を擦ってよく見てみると、白いフワフワなドレスを着た三センチくらいのそれが、両手をブンブン振って叫ぶ。


「チューして!!」


 俺は即座に吹き出した。ウエディングドレスのようなティッシュペーパーで身を包んだ妻が、唇を尖らせてコメディのようにせがんでくるのだ。


「そんなにちっこいと、キスも出来ないんだけど?」


 そう切り返すと、三センチの妻がテケテケと自分の身体を登っていく。そして、首から顔に登れないのだろう、手を伸ばして再び飛び跳ねていた。


 なんとなく言いたいことはわかった。どんな姿になっても、俺のただ一人の妻なのだ。彼女のささやかな願いを叶える覚悟は、結婚式の時に神様に誓っている。だけど、その前に落ちたら危ないので、俺は小さすぎる妻をそっと摘み、元の胸の辺りに戻す。


「チュー!!」

「しつこい!」


 たとえ幻覚であっても、やっぱり妻はやかましくて、飽きない。


「まったく」


 病める時も、健やかなる時も。

 たとえ寝たきりになっても、意識がなくても、三センチになっても、幻覚かもしれなくても。

 妻の願いを叶えるのは、俺でなくてはならないのだ。


「まぁ、ささやかなお願いの範疇でならな」


 俺は人形のように眠る等身大の妻に軽く口づけした。その唇は柔らかくて、思ったよりも温かい。

 別に、俺はキスが嫌いなわけじゃない。だけど、やっぱり寝起きとか口が臭い時は嫌だし、仕事の前にしてそのまま抱きしめたくなっても困るし。もちろん、人前は論外だ。


 それなのに、妻は恩着せがましく言うのだ。


「ようやくチューしてくれたね」


 それは、確かに俺の鼓膜を揺るがした。

 慌てて等身大の妻の顔を見れば、うっすらと目を開けて、苦笑している。いつもより少しだけ小さく、だけど人より高めの耳に残る声に、俺は思わず涙を零す。


「泣いてるの?」

「泣いてるよ!」


 奇跡だろうが、愛のパワーだろうが、なんでもいい。

 たとえ病んでいようが、健やかだろうが、この先も俺と一緒に生きてくれるならなんでもいい。

 一緒に笑って、一緒に泣けるならなんでもいい。


 俺は最愛の妻を抱きしめ、その名を何度も呼ぶ――――。

 





 その後、三センチの妻が現れることはなかったが、ある日のこと。

 俺が仕事を終えて家に帰ると、散らかった部屋で「しまった」とばかりにこちらを向いた妻が、すぐさま突進してくる。


「おかえりのチュー!」

「しねーよ」


 そんな妻の両手を軽くいなすと、唇を尖らせた彼女は言った。


「またお手製のティッシュのドレスを着たら、チューしてくれる?」


 


 ◆FIN◆



薬品名、あえて既製品と一文字変えようと思ったら、すごくパチモンぽくなりました。

センスのなさは勘弁してください。

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― 新着の感想 ―
[一言] ホロリとさせられました。 某恋人のようにならなくて安心しました( ;∀;)
[一言] すごく良かった! 素敵な作品をありがとうございました!
[良い点] 始めは妻の可愛らしい言動に笑っていましたが、後半になるにつれて、ひとつひとつの言動に、それなりに意味があったことを思い知らされました。特にキスは、妻にとって大切なものだったのだろうと思いま…
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