義姉と義弟
僅かに開いていた扉が、ドンという音と共に飛び出す。バットのスイングのように、一枚の板が弧を描き、壁に激突する。
真新しさを感じる白い壁には、何度もぶつかったような傷がいくつも刻まれている。
勢いを殺された扉が停止すると、一人の少女が部屋の中をずかずかと入ってくる。
部屋の中央まで少女が歩くと、手に持っている複数の下着をフローリングの床に叩きつけた。
「本当ムカつく!」
そう腹立たしげに言うと、床に散らばった下着に見向きもせず、衣服を脱ぎ始める。
「なんで、あんなやつとこれから暮らさなきゃならないのよ! だいたい、まだ再婚には納得してないし、ていうか、再婚した人の連れ子と一つ屋根の下でいきなり暮らせるわけないでしょ、それにーー」
まるで呪詛を唱えるように、少女は鬱憤を吐き続ける。
やがて、最後の下着にまで手をかけると、ピコンと電子音が部屋に響く。
音源の方に、少女が振り返る。視線の先には、壁際に置かれたベッド。
ベッドの上には、ひっくり返った学生カバンに、中から吐き出された教科書類、イヤホンに絡まった充電器。そして、画面にメッセージが来たことを知らせるスマホ。
下着姿のまま、少女がスマホを手に取る。
「あ、めぐちゃんからだ」
すぐに返信しようとして、画面端のバッテリー残量が赤くなっていることに気づく。
「やば、早く充電しないと」
慌ててイヤホンと絡まった充電器を解こうとするが、やればやるほど複雑になっていく。
「ああ、もう! なんなのよ!」
フローリングの床で地団駄を踏みながら格闘すること数分。やっとイヤホンと充電器を解いた少女は、難解なパズルを解いたように爽やかな表情を浮かべる。
急いで返信するため、床でとぐろを巻く延長コードを器用に足で引っ張る。
充電器を延長コードに突き刺し、携帯へと繋げて、
ーー瞬間、視界が暗闇に染まった。
※ ※
「あんた、またやったでしょ!」
扉を蹴破り入ってきた桃華が、最初に放った言葉がそれだった。
フローリングの床で寝転がっていた悠一郎は、今日何度目かの突撃に驚くことなく、ゆっくりと振り返る。
革のズボンから出る白い足は、すらっと細く伸びている。本人お気に入りの黒のパーカーには、猫のデフォルメしたイラストが胸の辺りに描かれている。小柄な身長もあり、自分より一歳年上とは思えない。
一ヶ月経っても見惚れるほど整った顔には、全く化粧っ気がない。
桃華の烈火の視線に急かされるように、悠一郎が口を開く。
「今度はどうしたの? 姉さん」
「どうしたのじゃないわよ! これよ、これ!」
桃華が手に持った布のようなものを悠一郎に突き出す。それは女物の下着だった。
「それ、僕が畳んで置いてたやつじゃん」
「だーかーらー!」
桃華の周りの空気が一段と膨れ上がり、悠一郎が喉を鳴らす。
「あたしのは触んないでって言ったでしょ! もう何回目だと思ってんのよ!」
「いや、ごめんね。今度は気をつけるから」
「ごめんで済んだら警察はいらないし、そのセリフも何回も聞いたわよ!」
桃華の怒気に気圧され、悠一郎が弱々しく言い返す。
「で、でも仕方ないだろ。義母さんたちが来るまで洗濯物はいつも畳んでたから」
「言い訳なんか聞きたくないわよ!」
そう怒鳴ると、桃華が苦虫を潰したような表情をする。
「それと、あたしはまだあんたらを家族って認めないから!」
もう用はないとばかりに踵を返すと、桃華が足早に部屋を出る。当然のように、扉は開け離れたまま。
仕方なく立ち上がり、悠一郎が扉を閉める。
義母の連れ子である桃華と初めて会ったのは、一ヶ月前。
お前に紹介した人がいると父が言った時、すぐに再婚相手を連れてくるんだろうなと思った。
幼い頃に母を亡くしてから男手一つで育ててくれた父の再婚を反対する気はなかったが、義母と馴染めるだろうかと少し不安に思った。が、父と義母が楽しげに話す姿を見て、その不安は瞬く間に消え去った。
それからすぐに籍を入れ、新しい家に住み始め、このまま家族になっていくのだと思っていた。
だが、桃華だけは違った。
再婚に反対だったらしい桃華は、一ヶ月経った今でも、険悪な関係のままだ。その間、桃華の怒った顔以外を見たことがない。
父や義母のためにも仲良くなりたいと思って色々やってみたのだが、うまくはいかなかった。
その上、昨日から両親が一泊二日の新婚旅行へと出かけて二人きりなってから、風当たりがさらに強くなった気がした。
ベッドまで戻ると、悠一郎が背中から倒れこむ。
「どうしたら、いいんだろう?」
ベッドの弾力を背中で感じながら、じっと天井を見上げて、
ーー瞬間、視界が暗闇に染まった。
※ ※
「あれ、何で急に」
「きゃあああああああ!」
「姉さん、どうしたの!」
「だ、誰か、誰か!」
「今すぐ行くからちょっと待ってて!
くそ、暗すぎて全然見えない」
「早く! 早く!」
「今、部屋の前に来たけど、開けるよ?」
「ちょっと待って! まだ、入ってこないで」
「え? なんで?」
「なんでって、それは、そのーー」
「じゃあ、先に懐中電灯探してくるよ」
「いいから! あたしがいいって言うまで、そこにいて!」
「分かったよ。ドアの前で待ってるから」
「……」
「……」
「……」
「ーーなんか、喋りなさいよ!」
「もう、そんなワガママ言わないでよ。というか、どうして入ったらだめなの?」
「……今、下着だけなのよ。だから、あんたがくる前に着替えたいの!」
「だったら、携帯のライトを使えば?」
「急に暗くなったから慌ててどこかにやっちゃったの!」
「大丈夫? 姉さん、暗いの苦手みたいだし」
「うるさい! ともかく、もうすぐ着替えるから!」
「洋服の場所わかるの? こんな暗闇で」
「わかんないけど、あんたに探してもらわれるよりはーー痛!」
「ちょっと、大丈夫?」
「うっさい、ほっといて! 一人でできるから」
「……今、ドアの前にいないよね」
「いないけど、それが……ちょ、ちょっと! 何入ってきてるのよ、バカ!」
「後で謝るから。それより、僕の上着を貸すから、早く着て。……今、ひらひらしてるの、分かる?」
「いらないって言ってるでしょ! おせっかいなのよ、あんた!」
「おせっかいになるのは当たり前だよ。だって、僕らはもう家族なんだから」
「何が家族よ。血の繋がってないただの他人じゃない! 私は、私はまだ認めてないから! お母さんも、お母さんよ! お父さんの事忘れて、再婚するなんて……」
「義母さんは、忘れてるわけじゃないと思うよ。たぶんだけど」
「なんであんたにわかるのよ!」
「だってさ、家族のことってそんな簡単に忘れるわけないでしょ。父さんだって、まだ忘れてないと思うよ」
「……だったら、なんで再婚なんて」
「忘れられなくても、家族になりたいって思ったんじゃないかな、たぶん。あんまり恋愛したことないから、わからないけど」
「何かっこつけてんの、キモ」
「え、慰めようとしたのに」
「全然出来てないから。もういいから、早くそれ貸して」
「う、うん」
「……なんかぶかぶかなんだけど」
「もう、文句言わないでよ。それで、何か心当たりはない? 停電になった原因」
「あたしが携帯に充電器挿して暗くなったから、玄関にあるブレーカーが下がってると思うんだけど」
「ブレーカーを上げにいけば大丈夫なのかもしれないけど、この暗さじゃ危ないかもね」
「だったら、あたしが行くわよ」
「ダメだよ。暗闇が怖い姉さんじゃ、まともに歩けないでしょ。階段とか危ないし、朝になるまで待っておこうよ」
「何時間もこんな暗闇の中にいれるわけないでしょ! バカ!」
「……すいません」
「そんなに危ないっていうんなら、あんたも一緒に行ったらいいじゃない」
「それじゃあ、僕が危ないんだけど」
「いいから、行け!」
「……はいはい」
※ ※
「ねえ、大丈夫よね? なんか物音が聞こえる気がするんだけど」
「足音だと思うよ。たぶん」
「ねえ、今度は寒気するんだけど」
「下着の上に上着だけ羽織ってるからじゃないかな。たぶん」
「ねえ、いつまで歩けばいいの? まだ階段じゃないの?」
「もうそろそろだよ。たぶん」
「さっきからたぶんばっかじゃない! ていうか、歩くの遅すぎ!」
「仕方ないでしょ。暗闇に目が慣れてきたけど、あんまり見えないんだから」
「ほんと、使えないわね!」
「はいはい、すいませんすいません……あ、ここから先、階段みたいだよ」
「声出しながらゆっくり降りてよ」
「分かってるよ。姉さんも気をつけて」
「……さっきの話の続きだけど、あんたは覚えてんの、母親のこと?」
「まあ、覚えてるけど」
「だったら、再婚に反対じゃないの?」
「え、なんで?」
「だって、新しい家族とか嫌じゃない? なんか、前の家族を忘れるみたいで」
「姉さんは気にしすぎなんじゃないかな? 新しい家族が出来て、単純に嬉しいよ」
「……ふーん、あっそ」
「そっちから聞いといて、その反応はひどくない?」
「うるさい! バカ! 後、上着、ありがと」
「え、なんて?」
「いいからさっさと歩きなさいよ!」
「はいはい……って、あれ」
ドタドタドタッ! ドンッ!
「ちょ、大丈夫! あんた、今落ちたんじゃない⁉︎」
「だ、大丈夫。……痛!」
「ちょっと! 本当に大丈夫なの⁉︎」
「少し、足首ひねったみたい」
「ーーそこ動かないでよ。今からそっち降りるから」
「姉さんは動かないで。僕みたいに落ちて怪我しちゃうかもしれないし」
「なんで、あんたはそこまで……」
「それぐらい当たり前でしょ。家族なんだから」
「……」
「ともかく、僕がブレーカー上げに行くから、姉さんは待ってて」
「いい。あたしが今から降りて、行ってくるから」
「で、でも、姉さん一人じゃ危ないし」
「あたしは、あんたみたいなモヤシじゃないの! こんな暗闇でも足首ひねらないから」
「そういうことじゃなくて……」
「いいから! 少しぐらいお姉ちゃんらしいことしてやるって言ってんだから、おとなしくしてなさい!」
※ ※
暗闇の中、蹲る悠一郎の後ろを、恐る恐る何かが降りてくる。
「絶対にそこ動かないでよ。動いたら、本当に怒るから」
蚊が泣くような震える声で脅すと、横をすり抜けて、玄関であろう暗闇へ向かう。
悪戦苦闘している気配を感じ、悠一郎が密かに笑うと、突然視界に光が降り注ぐ。
あまりの光量に驚き、急いで目を閉じる。
しばらくして目を開けると、見慣れた玄関と壁を支えに立つ桃華がうっすらと見え始めた。
(これで、ひとまず安心かな)
姉が無事に役目を終えたことを理解し、肩の力が一気に抜ける。遅れて、ズキズキと足首の痛みがやってくる。
ひとまず足首を確認しようと手を伸ばすと、
「じっとしてなさいって、言ったでしょ!」
暗闇の中で、何度も聞いた声に止められる。
ドタバタと足を鳴らしながら悠一郎の横を通り過ぎ、桃華が救急箱を取って戻ってくる。
救急箱を床に置いて、桃華が目前で屈む。
「ほら、手当したげるから、足出して」
言われた通り痛む右足を伸ばすと、テキパキとした動きで桃華が足首に湿布を貼る。
「もしかして、こういうの慣れてるの?」
「バスケ部だから、しょっちゅう捻挫とか怪我するのよ」
真剣に手当をする桃華を見て、初めて姉が部活動をしていることを知る。それと同時に、今まで姉のことを何も知らないことに気づく。
「あんた、何笑ってんのよ」
桃華の責めるような視線を受けて、悠一郎は自分が自然と笑みを浮かべていることに気づく。
「いや、その、なんだか本当の家族みたいだと思って」
言ってから、悠一郎は何だか気恥ずかしくなる。
手当てを終えた桃華は一瞬真顔になると、すぐに頬が赤く染まる。
「当たり前でしょ。……か、家族なんだから!」
そっぽを向きながら救急箱を閉じる桃華を見て、これから姉のいろんな表情が見えるといいなと悠一郎は思った。