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微笑んでいる。それは先程までと変わりがない。が、もはや擬装を解いた老婆の表情は、その陰影の故か、じわり、じわりと心を飲まれてゆく様な冷たさを帯びていた。
男が自らの武器を、--無論手を伸ばせばすぐに届くが--手放し、自分の出した紅茶を口にしたのを見て老婆は、もういい頃合いだろう、と判断した。
「さて、と。そろそろ仕事の--そうだ、その前に」
そう言って言葉を切った老婆は、一方は腹積もりを、もう一方は能力を互いに見抜こうと努めていたために、すっかり忘れていた事を済ませようとした。
「わたしの事はオリガと呼んでおくれ」
そう告げるとテーブルに肘をついて、組んでいる指のアーチに顎を乗せ、微笑みは絶やさずに口を閉じる。が、男は口をつぐんだまま、何事も語り出さない。
働かせるには充分に当たりだが、相当に扱いづらい。そんな印象を、老婆--オリガは強くした。
微笑ましさを含んだわずかな呆れに、ほんの少しだけではあるが、辟易が混じりだしたのを感じるオリガは、男の印象とは容易には結び付かないこの儀礼の先を、いっそ促してしまおうかと思った。
名前を知ること、それ自体にはさほど意味がない。むしろ、自ら名乗って回るような--好んで他人と接触する質の--人間を寄越される方が、今回の仕事に限ればオリガにとって始末に困る。その点で、今回の人選は正しかった。
だが、目の前の男の場合、その利点が仕事上のコミュニケーションにまで要らぬ影響を与えはしないかという事が、男と、海の向こうの本部--『総本山』、そしてこれから男が赴くあの街を、隠然と支配し続けるスラブ人達--『バスチオン』の三者をつなぐ、いわばハブとして機能しなければならないオリガにとって、わずかに皮膚を侵し始めた小さな針のような気掛かりになりつつある。
望みは薄そうだが、今後のための試みは必要だろう、とオリガは、男の未だ僅かに開いたに過ぎない警戒心の鉄門を、少しでも押し広げるべく微笑みはそのままに、相互理解の儀礼を先に進めようとする。
「で、あんたの--」
「……お好きな様に」
しかしその試みは、平坦な、重い声に割り込まれ、オリガはといえば、男の言葉の意味する所を理解するために、一瞬と呼ぶには長い時間を費やさざるを得なくなったのであった。
「ふうむ……お好きに、ねえ」
オリガはわずかに思案を巡らせる間も男を見ている。その横顔は、自分の背後から照らされているはずなのに、顔立ちがまるで見えない様な気分にさせられる表情だった。
「まあ、あんたがいいならそれでもいいかねえ」
このくどさを感じさせるほどの用心深さを持つ--使う得物も、うってつけの--男に仕事をさせられるなら、それで良しとしよう。
そう折り合いを付けオリガは、あえて藪かもしれない場所を突く事はしなかった。
組んでいた指を解き、椅子にもたれながら、両手を頭の後ろで組み直し、今度は足も組む。上にした右足がテーブルの影から出て、エプロンの下の長いスカートから、白く、大分細くなった足首が覗いた。
「ううん、……それじゃあタローってことでいいかね。確かあんたの国じゃあよく使われるんだろう」
なんとも掴みどころのないこの男なら、これがしっくりくるだろう、とオリガは今は遠い過去になった、男の国に住んでいた頃の記憶を遡り、提案した。
「構いません」
それが私と分かるならば--そう続け、再び紅茶を一口含む男を見て、もしかしたら、これでも紅茶が好きなのかもしれない、そんな風に、オリガはふと思った。
オリガは姿勢を変えずに、男から目線だけを外した。
ランプの明かりは部屋の隅々までは照らしきれていない。ぼんやりとした闇の中に、壁の折れ目の筋がわずかに浮かんでいるが、それを確かめるには、目を凝らさなければならなかった。
扉の色のせいもあるかもしれない、とオリガは考える。白く塗られた玄関は、薄暗いその辺りでは、いやでも目を引く。
一瞬、暗がりで強い光が突如点滅したかの様に、残像を焼き付けようとする閃きがぱっと浮かぶ--男は、あの筋に似ているのではないか。
が、男へ視線を戻した途端、残像になりかけていたものが、川に落とされた一滴の白いインクのように、定まった形を保てずに流されてゆき、結局、仕事とそれ以外の間、その一線を超えた偶発的な想像は、実を結ばなかった。
やはり仕事の話に専念しよう、オリガはそう思い直して、話を再開しようとする。が、その前に、冷めきった甘い紅茶を一口、音を立てて啜った。
「向こうから預かっているものがあります」
ふう、と息をついた後、オリガが話を切り出す前に、男が声を発した。そして、左脇に置いていた旅行鞄をおもむろに持ち上げ、テーブルの上に置く。
「預かり物?」
オリガには覚えがない。思わず目を鋭く細めてしまっていた。しかし、心当たりを探る間にも、ぱちり、と持ち手の両脇にある留め金が外され、長方形の上半分が開かれてゆく。その様子を見ているオリガの目の高さから、中に納められている品が伺えた。
特に目につくのは、やや毛羽立っている黒い布の巻物であった。それは、ちょうどロールケーキの断面に似た、ゆるい渦を描いている。ただし、その太めの黒い線と線の間には、クリームの代わりに、暗い空間が詰められていた。
ここで、唐突にオリガは鞄から視線を外した。しかし、どこを見るでもなく、僅かの時間で鞄へと目を向け直した。その目には、柔らかさが少しばかり戻っていた。
一番外側の布は、男のいる方に向かって巻かれ、そのあとロールケーキとは違い、一部が上へ折り返され、角の丸い逆三角形の袋を形作っていて、その口が、男の方に向いている。
丈の長さは、はっきりとしないが、コートの類であろう、と当たりをつけ、オリガは、外の空気がどんどん冷えてゆく様を想い起こして、わずかに身震いした。
もう少し火をくべようか、と思い、右後ろの竃へとわずかに視線を送る。
しかし、男が持参したという物が--実は一つ、ピン、と来た答えを探り当てている--何なのか知ることの方を優先し、ぐっ、と上半身をテーブルの上へ乗り出し、足を組み替えるのだった。