5
老婆は既に調理台に近い席に腰を下ろし、男を待っている。
「腹が痛むのかい」
老婆は気遣う言葉を口にするが、顔は男の用心深さに感心し、しかしいささか呆れはじめている様に、わずかに口元だけに笑みを作っている。
そんな老婆の様子を気にかけることもせず、男は老婆の背後を通り、その左手、北側の席を静かに引いた。
窓と玄関の扉を視界におさめる格好で席に着いた男の前に、老婆の右前に置かれたニスを塗られた焦げ茶色の盆から白いティーカップがソーサーに置かれて運ばれた。
「お気遣いなく」
男が素っ気なく、つぶやく様に言うのを聞いた老婆は、そんな台詞が出てくるとは、この男にしては珍しいと思ったが、すぐにこの違和感の原因に思い至り、
「まあ気遣ってみたところで、ここにゃ薬の類は置いていないんだけどねえ」
あったかくしてるしかないんだよ--そう返した老婆は、やはりこの男に社交辞令は似合わないだろうと思った。
老婆は自分の手元にもカップを持ってくると、男との間に二つの小振りで寸胴な、そして一本の中ほどより上が細めに絞られた縦長の瓶を置き、そこに小さな銀のスプーンを添えた。
「砂糖がよければ、そこのを使っておくれ」
そう言って、テーブルの真ん中に置かれた小さな壷を指差すと、老婆自身は小さいが、ずんぐりとした見た目の瓶の一つに手を伸ばす。
「こっちは……ああ違った」
老婆は手に取った瓶の、白地に金色で文字の書かれたラベルを読むと、目当ての物でなかった様で、そう独りつぶやいて、瓶を戻すと、もう一方の似た形をした瓶を掴み、ラベルと同じく白色をしたその蓋をひねった。
「あんたの国のお茶も悪くなかったけど、わたしにゃ、やっぱりこっちがいいねえ」
言いながら老婆は、先程添えたスプーンで瓶の中身--粘り気を感じさせるツヤをもった、橙色の--ジャムを、ひと匙、もうひと匙、とややきつめの紅を湛えたカップに沈めてゆく。
好みの量を入れ終え、老婆は瓶の蓋を閉じる。そしてさらに、ほっそりとした瓶に手を伸ばし、その一段細い首の部分を持って、その蓋を先程の様にひねり開けた。
そして、透明なその中身を細く、紅い滝壺へとわずかに注ぎ込む。
先程からカップに手をつけず、その様子を見ている男に気付いた老婆は、注ぎ終えた--男の同僚が毎晩、鯨の如くあおっているのと同じ--ウオッカの瓶の蓋を閉め、微笑みながら、瓶を少しだけ掲げてみせた。
「医者には控える様に言われたんだけどねえ。やっぱりこれがなくちゃ」
それに今日は、あんたの門出みたいなものだからねえ、地獄のお迎えも待ってくれるだろうさね--そう付け加えた老婆は、ちょっとした悪戯を楽しむ少女の様な顔をして、ころころと笑った。
室内には、温められたアルコール、そして酸味を帯びた柑橘の香りが、ふくよかな紅茶のそれに包まれて漂う。
「暗くなってきたねえ」
窓からわずかに射していた陽光は、曇り空とはまた別の、日が沈んでゆく暗さが増すにつれ、さらにか細くなっており、室内はもはや夜じみた様相になりつつある。
男が訪れた時から既に、室内は薄暗かったが、ここで暮らす老婆には馴れたものであった。
「さて、火を入れるかね」
男もまた、黒みを増してゆく窓に目を向けていたが、老婆に視線を移した。
老婆はテーブルに両手をつき、肘を伸ばして体を持ち上げ、席を立つ。そして、男の脇を歩いてゆき、ベッドに向かった。
その様子を男は油断なく見ていたが、それを気にせず、老婆は四角いテーブルに置かれたランプを手に取った。
ランプを右手に提げ、老婆は調理台へ向かう。そして、両手の上にちょうど乗るぐらいのマッチ箱を漁り、数本取り出した。
初めの一本はどうやらしけっていたようで、二度、三度と擦っても火を点すことはなかった。
老婆はそのマッチを諦め、竃へと放ったが、先程上でヤカンが盛んに湯気をあげていたその放熱口の縁に弾かれ、軽い音を立てた。
地面に落ちたマッチをそのままにして、二本目を擦る。すると今度は火がつき、その火が消えぬ様に左手で囲いながら、老婆は、調理台の上に置いたランプの、腹に付けられた窓を開き、油の染みた芯に火を移した。
火が上手く灯ったかどうかを確かめる老婆の影が土のままの床に伸びる。その影は子供が読む絵本に描かれる魔女のそれと同じで、見る者に恐れを抱かせる。
珍しく、いや、男の様な者たちは須らく、この種の、嗅覚とも呼べるものが優れていなければ、とても生きてはゆけないのだから、当然とも言えるが、男は老婆に、未だ底の見えぬ薄暗さを伴った危うさを感じたのだった。
ランプを提げた老婆が元いた席へ戻る。そのまま右手をを伸ばし、テーブルの真ん中、砂糖の壷の辺りへそれを置いたが、男は徐に、老婆と入れ替わりに席を立った。
訝る老婆をよそに、男は、たった今置かれたばかりのランプを左手で持つと、老婆の後ろへ歩いてゆく。
老婆はその様子を、半身を左によじって見ていたが、男がランプを、調理台の右端に置くのを見ても、その思うところは解らなかった。
「眩しかったかい」
それでも、なんとか理由を捻り出そうとした老婆は、その試みの成果--陳腐すぎるきらいはあるが--を、席に戻った男に披露した。
「……いいえ」
しかし、老婆もそうであろう、という事を感じていた様に、男は否定した。
「はて」
老婆はこの寡黙な男の真意を明らかにしたかった。他人の行動の背景を知ることは、老婆、そして男の、そして彼、彼女と同じ様にして生きている者たちの世界では、己の行動を定める物差しであり、それが生き死にを決める事も珍しくはない。
出来れば男に問うことなく達成されるべき事ではあったが、それが叶わなければ、次には速やかに、手段を選ばずその答えを得るべきであり、老婆もそうすべく、とぼけた様な姿を作り、首を傾げた。
「……」
しかし、一向に次の言葉を紡ごうとしない男の口を見ていた老婆は、恐らく彼が自身の身を守るためにしたことだろうと、それ以上の深追いは止めることにした。
裏にある真意を追うことも大事だが、やみくもに藪を突かない事もまた、この薄暗い世界での処世訓であった。
いざとなれば、この男は容赦なく、無慈悲に己が身を守るためだけに行動するであろう。
しかし、その時までは自分は安全でもあるだろうと、出会ってから見てきた男の慎重さの故、その能力に信頼を置きはじめていた老婆は思い直し、ふっと微笑んでから、冷めかけた紅茶を口にした。
その紅茶の温度が、自身もまだ、真意を悟られまいとして隠し事をしている事を思い出させ、老婆は、嫌な職業病だ、と思った。
先程まで光を取り込み、ランプの明かりを照り返していた南の壁の窓は、今や黒色に染まりつつある外の世界を、うっすらと男に見せるのみとなっていた。
ぬるい、と冷たい、の境に来はじめた紅茶を一口啜ると、老婆はカップをソーサーの上に戻した。
二つの陶器が触れ合ったそれだけが、この室内に響く唯一の音であった。
いれ直そうか、そう思い、男のカップに視線を送るが、老婆の目には、まるで時が止まったかの様に、先程と同じ位置、向きに置かれたカップが写った。
「おや、口に合わなかったかい」
そう尋ねるが、この社交辞令とトンと無縁そうな男は、慌てて取り繕う様に口を付けたりせず、黙っていた。
この段になってもなお、自分を警戒しているのであろうと思った老婆は、内心、そうでなくては困る、と思いながら、少々呆れた様に自身を擬装した。
「はあ。見上げた用心深さだけどねえ」
お茶ぐらい素直に飲んでおくれよ--とつぶやき足すが、やはり男は黙って動かずにいる。
「わたしゃスープ作りにゃ自信があるんだけどねえ、飲んじゃもらえないなら止めておこうかね」
そう言って、紅茶をいれ直そうと席を立つ。そして、ヤカンを手に、調理台脇のポリタンクに屈み込もうとしたが、それは、男の低い、そして重い声によって遮られた。
「あなたは--」
ん、と老婆は、男に向き直り、珍しく自分に向けて、しかも能動的に発された言葉の続きを聴く姿勢を見せた。
「あなたは--ここでスープを作れない」
--まさか、気付かれているのか。
男の言葉、それ自体はそのことを示してはいない。が、老婆はなんとなく、もう見透かされているであろうと感じた。
内心、ほくそ笑む。そうこなくては、そうでなくては、と本部の推薦は間違いでなかった事を喜ぶ老婆であった。が、もう一押ししてみたい、とも思っていた。
ただ間違っていなかっただけでも喜ばしくあるが、もしかすると、それ以上の、当たりなのかもしれない。
それを確かめるべく、老婆はこの姿で居続ける選択をした。
「あんまり年寄りを馬鹿にするもんじゃありませんよ。あんたの三倍は生きてるんだ。まあ、若くは見えるだろうがねえ」
老婆は怒りながらも、どこかおどけた様に返す。が、男は相変わらずの調子であった。
「……鍋からスープを飲むつもりはありません」
老婆は、男には似合わない謎がかったその言い回しに、首を傾げた。
右に目を向ければ、竃の上には木の棚が設えられており、お玉がぶら下がった奥に、皿が数枚重ねられている。
白色の、つるり、とした質感を伝えてくるそれらは、流し台がないとはいえ、使う度に綺麗に洗われているのが見てとれた。
そこまできて老婆は、ああ、そういう事だったか--と、男の目の早さに感心し、また、自身の迂闊さに少々呆れつつ、白旗を揚げる事にした。
「……あんたがお皿を下ろしてくれればいいじゃないのさ」
そう言うと老婆は、ヤカンを調理台の上に戻した。
その、痛々しいほどに折れ曲がっていた「ヘー」の字は、今や真っ直ぐに伸びており、席へ戻る老婆の足は、軽快に土を踏み締めるのであった。
「どうやら当たりを引いたようだねえ」
背筋を伸ばし、テーブルに肘をついて指を組み、男を見る老婆の顔半分に、ランプの光が差し掛かり、その笑顔は、深い皺に陰影を付けられた右半分と、そのせいで、より暗さを増したように見える左半分に分けられた。
「合格だよ。……ああそれから」
右手のものはもう必要ないよ--そう付け加えた。
男はしばらく老婆の表情を伺っていたが、やがて右手をテーブルの上に置いた。そしてその手で、冷え切った紅を一口、ゆっくり飲み下す。
先程男の右手が置かれた場所には、黒色に鈍く光る、細長い、先端の尖った--
万年筆が置かれていた。