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「おや、聞いていたより渋い顔をしていなさるね」


 横から見れば、おそらく「く」の字、あるいは「ヘー」の字か。


 そんな姿勢で首をもたげ見上げてくる、白いものが大分混じった銀色の髪の老婆の言葉に、男は付き合わなかった。


 男は、自分の耳が確かだったのか、その答えを得るために、老婆の背後、扉から見える室内に素早く目を走らせている。


 南側からは仄かに光が差し込んでおり、室内を申し訳程度に照らしていた。


 その明かりによって、朧げに浮かび上がる円いテーブルが見える。木製であろう、やわらかな橙色をしたそれには、白色の小さな壷が一つ。四脚の、背もたれ付きの丸椅子と共に、老婆の真後ろ、部屋の中央に置かれている。


 その奥には、石造りの竃。人一人が寝そべった程度の幅をもつその上で、男の読み通り、ヤカンが湯気をあげている。さらにその上に、食器を置く棚が設えられ、そこに取り付けられたフックから、フライ返しと、お玉がぶら下がっていた。


 男の目につくのはその程度であったが、十分であった。男は自身に関する疑念を完全に払拭するべく問うた。


「……同居人はどちらに」


 老婆は、もたげた首を傾げた。


「わたしゃ独り者だよ」


 向こうで聞いてないかい、と続ける老婆の言葉は、男の耳が確かであったことを証明した。


「まあお入りなさいな、疲れていなさるでしょう。わたしもそろそろ座りたいよ」


 腰までの白色のエプロンの紐の結び目辺りをさすりながらそう勧めてくる老婆に、男は背を向け、元来た方へ向かって歩き出す。男の足元には、小気味よい音が再び戻って来ていた。


「おや、どこへ--」


 行きなさる--男を追って数歩、外へ出た老婆はそう言葉を繋ごうとしたが、男がすぐに立ち止まり、屈むと、薄黄色の草々の中から小振りな旅行鞄を拾い上げたのを見て、それを止めた。そして、感心感心、といった様子で、一度、二度と頷き、ひと足先に扉をくぐっていった。





 左手で旅行鞄を拾い、再び扉へ向かう男は、再び足音を忍ばせていた。


 幾分警戒を解いてはいる。が、たとえ僅かな間であろうとも、一度家から距離を取ったという事が、男の中で小さく、しかし確かに、鐘を打つのであった。


 歩みを進める男は、眼前のいかなるものにも意識を集中せず、目に写るもの全てをぼんやりと見ていた。


 何か一つに集中すべき状況ではなかった。そうすべき時はまだ先である。ちょうど今のような、すなわち、複数ヵ所の--戸口や、家の裏手のような--火点となり得る場所に備えるべき時には、集中は死角を生みすぎる。


 老婆はまだ本当の姿を見せてはいない。シンジケートの上役ではあるが、いや、それすらも含め、今は疑っておく方が賢明な判断と言えた。





 男の懸念の一つは杞憂であった。


 裏手からの急襲を受けることなく戸口まで戻って来た男は、室内を慎重に伺う。


 老婆は--男に背を向けていた。そして、竃の前でふと振り返る。


「おや、戻ってたのかい。さあ、早くお入りなさいな。今お茶が入りますよ」


 笑顔で促す老婆に、相変わらずの表情だけで男は応える。そして、注意深く屋内の左右に目を向けつつ、家へと足を踏み入れた。


 男は改めて室内を観察する。左の壁の真ん中よりやや上には、小さな子供が、目一杯体を使って、ちょうど抱えられるぐらいの大きさの、木枠の四角い窓が嵌め込まれ、灰色の空からわずかに与えられる仄かな光を室内に導いている。十字の木で仕切られたガラスの向こうに、もう一つの十字がぼやけて見えた。


 どうやら二重に嵌め込まれているらしいこの窓が、この街、この地方、ひいてはこの国の厳冬を思い起こさせる。


 表の向日葵も、もう枯れ頃であろう。そしてその後、几帳面にも毎年欠かさずやって来る、逃れ得ぬ風の冷たさを、それを知る者が思い出す時には、決まって無数の刃で身を切り刻まれる様な心地がするのだった。


 しかし男はといえば、あの窓が火急の際の脱出口たり得るかの見立てをし、破れはするだろうが、男の体格では不適格であるという結論を導くのみであった。


 窓から壁に沿って視線を右へ遣ると、壁が折れてすぐの所に、表のものと同じ造りで、しかし色の付けられていない扉、老婆の立つ竃、男の臍の辺りほどの高さの調理台と続く。


 調理台の脇には一抱えほどの白く滑らかな質感を持つポリタンクが二つ置かれている。容器の中身が透けて見えるが、中の液体がどれほど残っているかが見て取れるのみで、色はない。側面には、ラベルか何かを剥がしたのであろう、白く薄手の紙が、取り切れないまま残されている。


 そして、右の壁際には、光沢のある銀色のパイプで作られたベッド、その脇に、三本の木の棒を真ん中で束ね、両端をそれぞれ広げた形の脚を持つ小さな四角いテーブルが置かれている。


 電気は通っていないようで、家電製品の類は見当たらない。ベッド脇のテーブルの上には、吊り下げられるように取っ手のついたランプが、この家の夜の光源を一手に担う事を誇る様に、堂々と立っていた。


 全体的に質素な印象のこの家には、この客間と台所、さらに寝室を兼ねた部屋以外なく--扉はあるが--老婆以外の人間が潜んでいるという懸念は薄れている。


 しかし、最後の一押し、というものはこの場合欠かせないであろう。


 男は、すっかり沸いたヤカンを持って、今は調理台の前にいる老婆の背に声を投げる。


「トイレをお借りします」

 そう言いながら既に男は奥の扉へ向かっている。


 「ああ、外は冷えるからねえ。どうぞ遠慮せず使っておくれ」


 老婆も男の動く気配を察し、それ以上は言葉を重ねない。


 老婆が言い終えるのと同時に、男は扉の脇に立ち、一瞬扉の中へと意識を集中する--が、男の耳は扉の奥からいかなる音も拾わなかったし、それ以外の様々な感覚も、この向こうに何者もいない事を告げてきた。


 それでもなお、男は慎重を期し、未だ右手に隠したそれを、先程と同じ様に握り直す。そして、左手で取っ手を掴み、少しの間をあけ、扉を開いた。


 男の感覚に間違いはなく、洗面所は無人であった。


 中へ進むと、客間よりも一層冷え冷えとしている。床の中央に口をあける汲み取り式であろう便器は、よく磨かれて滑らかな陶器の質感がはっきりとわかる。その下、地中に埋め込まれているであろう容器が、家の空気を冷たいものに変え、お節介にもそれをこの小さな個室に還元しているらしかった。


 男の頭上には採光窓がついているが、暗さを増す灰色の空の光は弱く、ある程度馴れなければ用を足すのは難しいであろう。


 しかし、その必要に見舞われている訳ではない男には、関係がない。男は便座に腰掛けると、軽く目を閉じ、時間を消費し始めるのであった。





「お茶が冷めますよ」

 しばらくして、扉越しに声を掛けられる。


「今戻ります」


 男は目を開き、ふと左の壁に貼り付けられた鏡を見た。


 しばらくぶりに、まともに見たその顔に、男は、自分以外の人間が大抵抱く感想を、同じ様に、しかし感想というよりは観察結果といった具合に把握し、何でもなかったように、そこを後にした。


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