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 潮風が薄黄色の草原を吹き抜ける音に、さくり、さくり、と男の足元から立つ音が混じる。


 緩やかに下る街への道を外れた男の、目にかかる長さの黒髪は、足元の草々と似た動きで、男の視界を幾度か遮った。


 下りであることには変わりがないが、道は外れた。不可避であったどこかの底行きに、立ち止まるか、あるいは元来た道を戻る余地が生まれた様にも思えるが、男の足は相変わらず小気味よい音を立て、下ってゆく事を止めなかった。


 男が目指すそれは、今の空模様や丘の上からの風景のせいか、酷く場違いな印象を与える数輪の花--向日葵であり、その脇に建てられた、こじんまりとした石の家であった。


 この国の人々はこの花を愛して止まない。それは、この花のかたちが暖かい太陽を思い起こさせるからなのか、あるいは天に向かい伸びやかに育つ姿に、自身の、そしてこの国の未来への希望を重ね合わせているのかは定かではないが、とにもかくにも、この花は好まれている。


 しかし、この丘には他に向日葵の咲く家はない。その事が、この国にあるこの街を象徴している様に思えるが、男にとってあの向日葵は、この国に降り立つ前に言い含められた目印以上の意味を持たなかった。





 やがて男は向日葵の元へと辿り着いた。


 家は、男が立つ位置から見える窓はなく、数種の灰色をした石と、その隙間を埋める黒色の土で彩られた壁に、建てられた当時は青色一色であったであろう、錆が浮き、赤茶色の目立つ斑のトタン屋根、それを突き破っている様にも見える、壁と同じ様な造りの煙突と、道路に面している側の壁に付けられた、白色に塗られた木製と思しき扉で構成されている。


 向日葵は、遠目で見ればこの国の人々が愛する姿そのままであったが、男の位置から見れば、花弁は所々欠け、葉は黄色味の強い緑色をしていて、萎れはじめているのが見て取れる。


 男は、そんな向日葵をもう見てはおらず、静かに持っていた旅行鞄を置くと、右のポケットに手を入れ、何かを取り出した。そして掌の長さくらいの細長いそれを、先端を手首に添わせる様に握り隠し、一度だけ逆手に持ち直す。


 その確認動作を終えて、扉へと向かう男の足元からは、一切の音が消えていた。





 扉は白く、やはり木製であった。縦長の木板を五枚並べて、それらを束ねる形で横木を上下二ヵ所に釘で打ち付けてある。


 扉の中ほど、男から見て右側には、錠前を掛けるためのものと、取っ手として使うための、二つの金具が取り付けられていた。


 今錠前は掛けられていない。男は扉の脇の壁に寄り添うように、しかし決して触れることなく耳を近づけ、家の中の様子を探る。


 気配は--ある。


 人間が奥の方で、いくつかの点と点とを繋ぐように行き来する様子が、土を擦る細切れの音となって伝わって来る。


 さらに、泡の弾ける様な音が、こちらは途切れずに耳に届く。


 男が、歩いて来た方へ首だけを回し、目をやると、近づいてゆく間にはなかった白いもやが、たゆたう様に浮かんで、流れていた。


 それら以外の音はなく、そのいずれにも当たりが付いた。向こうを発つ前に聞かされた通りであったし、人の気配が一つならば、仮に情報に齟齬があっても、そう後れを取る事はない。


 そう判断すると男は、扉の右側を、二度短い間隔で、そして少し間をあけもう一度、都合三度ノックする。


 しかし、中の気配は動きを止めたのみで、扉に近づいてくる様子はない。家からは、泡の弾ける様な音だけが聞こえるのみになった。


 これで扉が開くなら、男は応対に出た何者かを、速やかに制圧したであろう。男は改めて一度、次に三度、最後に二度、決められた通りの回数を、決められた通りのリズムで叩いた。


 人の気配が再び生まれ、扉へと近づいてくるのを確かめた男は、息を殺して数秒を過ごす。そこへ、


「向日葵は好きかね」


 としわがれた声が扉越しに掛けられる。それに、


「種は殻付きに限る」


 と、似つかわしくない、滑稽ですらある台詞を、相変わらずの表情のまま、相変わらずの声色で男が返す。同時に男は、するり、と扉の左側へ移動し、開くであろう扉の影に身を隠した。


 男の予想通りの軌道で、扉がゆっくりと開き始める。が、まだだ。男は右手に握り隠していたそれを、先程確かめた様に持ち直す。


 あと二秒、それでこちらから扉の取っ手を引き、体勢を崩させ、制圧する。そう決めた。そして数える。


--……、っ!


 数え終わるか終わらないかの間合いで男は、さっと左手を飛ばす。


 そして、その手が取っ手を掴もうとした瞬間、


「わたしゃ--」


 男の耳に声が届く。


 その間延びした声色に、男は取っ手を掴みはしたが、中の何者かを引き倒す機会は逸した。


 もはや奇襲にはなり得ない。それに、恐らくその必要もない。何者かが、このあとに続けなければならない台詞を言い切るまで油断はできないが。


 そう判断し、扉をゆっくりと男自らの手で開いてゆく。


 その様子を感じ取って、何者かは先程の台詞の続きを口にし始める。


 扉を開ききり、男がその正面に立つと、そこには--


「バターで煎らにゃあ、どうしたって食べられやしないよ」


 酷く腰の曲がった老婆が、笑みを浮かべて佇んでいた。

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