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街へと向かう道は相変わらず真っすぐに下っている。なだらかで、一筋の脇道も存在しないこの道は、緩やかに、しかし不可避に、何かへの底へと誘われているかのような感覚を大半の通行人に与える。
何かへの、というのは、その何かを、人々が掴みきれない故の印象である。ある者はそれを地の底だと言うかもしれないし、またある者には、それは海の底だと感じられるかもしれなかった。
はっきりと、これは地獄への道であるとか、もっと端的に、死への道であるなどと表現するものは皆無に近い。大抵の人々は、とにかくよく解らないが、自分が何処かへと下りていくのは感じる。そして、いつか何処かの底へと到るのだという事を運命づけられた様な気持ちを持たされる。
そんな道を、男もやはり下ってゆく。固いアスファルト舗装を施された地面を、男の固い革靴が叩く音は、この道を通る者が聞けば、ほぼ間違いなく、この男が何処かへと続く石の階段を降りてゆく様子を想像させる。さらにその中の変わり者には、この男は一体何処へ辿り着くのだろうと、厄介な好奇心を発揮する機会を提供するであろう。
しかし、当の男はというと、別段何かを感じている様子を見せなかった。単に街へと向かっており、その道中が下っている。その程度にしか思っていない、少なくとも、すれ違う者がいればそういった印象を持つであろう、相変わらずの表情で、男は黙々と歩いてゆく。
実のところ、この人々が抱くであろう印象はそう外れてはいない。男はこれから自分に課せられるであろう仕事の為に、周囲の状況を把握、解析こそすれ、その結果へ、感情という色を付けることはしない。そもそもそのための絵筆を持ち合わせているのか、持っているとしても、その描き方を知っているのか、描くつもりがあるのかは、当の男自身にも答えがなかった。
男の目には、灰色の暗い空が変わらない広さで、そして目指す街が小さく、しかしその姿を緩やかに大きくしながら映り続ける。
その街の周りは男と同じく、丈の短い草々に取り囲まれており、さらに奥、街の南には海が滔々と水を湛えている。波は未だ高くない様で、海面には漁民の物であろう、細長いボートらしきものが辛うじて見えるが、空模様と潮のきつくなってきている風を考えれば、もういくらかすれば、それらは港に逃げ込んで見えなくなる事は、ほぼ間違いない。
街を取り囲む薄黄色は、恐らくは男が歩くこの道と街中で交差するのであろう、東西に走っている道によって割られている。
しかしその道を走るものはない。視線だけを僅かに左右に振れば、男が下っているなだらかな丘と一続きになっている、しかし峠と呼ばれるには急すぎ、道を通すことは難しいであろう山が、東西に双子のように鎮座している。
街を見守っているのか、はたまた睨みを利かせているのかは、見る者によってまちまちであろうが、どちらにせよ、東の山の頂にある、そう大きくはない灰がかった乳白色の古びた灯台が、その印象を強くさせる。
道はといえば、その双子の山の麓で、一方は途切れ、もう一方は遮られている。
西の山の麓には、黄色い人工的なシルエットが数種置かれているのが見えるが、動く事はない。麓の一部は他の部分と違って黒みがかった土が剥き出しになっており、黄色いシルエットの疎らな群れの奥に、麓の一部と同じ色をした小山がある。
東の山には、半円形のトンネルが山から少しばかり飛び出す様に設けられているのが見えるが、その口は、下半分より少し上の辺りまでを、黄色と黒色のストライプ模様が中ほどを横断する、--恐らく二つの、そしてコンクリート製の--四角いブロックによって塞がれている。
半端に手を付けられ既に投げ出されたらしい、これら人間の行いの跡を残すこの街を、この国の人々が見れば、彼ら彼女らの国がそう遠くない昔にぶち当たった、決して良いとは言えない変化の嵐が、この海辺の田舎街をも逃す事なく吹き荒れ、そればかりか、未だ弱くはない風を吹き付け、隙あらば粉みじんにして、あの澱んだ空へと吹き飛ばそうとしている事に、明かりのない暗い夜に一人立たされている様な、深すぎる灰色をした感情を抱かずにはいられないであろう。
男とて、その「嵐」のことは知っている。
この国の生まれである同僚は、まだ彼が暮らしていた頃のちょっと古きよき時代に想いを馳せつつ、彼の国ではポピュラーな、度数の高い透明な酒を際限なく流し込み、当然の終着点へと到るのが日課となっているし、ろくに付き合いのないこの男にまで、彼の暮らしていたこの国で一番大きな街が、彼の所属していた軍隊が、いかに素晴らしく、いかに誇り高きものであったかを、その後それらがどんなに悲惨でみすぼらしい状況に置かれたかのオマケ付きで、それは感情豊かに怒鳴り聞かせてきたこともある。
しかし、それでも男は、もはやオペラの域に入りそうだったそれを、分別し、篩にかけ、純粋な情報のみを抽出し、取り込んだ。
そして今、その国に立つに到っても、その役目を果たすことなく、もしくは、男自身も知らない場所へ置き忘れられ、いや、そもそも初めからそんなものは存在しなかったのか、そのいずれかなのか、そうですらないのかを知る者は、ただ一人として無いが、結果として、男が自身の絵筆を取ることは、ついになかったのであった。
道の脇を歩き続ける男と出くわすものは殆どなく、それも荷台のコンテナに魚のイラストが描かれたトラックや、大きくも小さくもないタンクローリーが男を追い抜いたぐらいで、街からやって来るものといえば、潮の香りを運ぶ風以外なかった。
タクシーを降りてからそう時間は過ぎていないが、既に日は暮れはじめているであろう。
先程より黒さを増しつつある曇り空は陽を遮り、街とその周りの風景はさほど変わらずにいた。
微妙な所ではあるが、相当急げば雨に降られる前に街に入れるかもしれない。人々がそんな見立てをするであろう所まで歩いてきた男は、しかし歩みを速めることなく、それどころか、あらかじめ予定されていたかの様に立ち止まった。
そして、この道を歩き始めてから初めて、顔の向きを変えた。
その行為で右手の草原の中にぽつんと見えるそれを確認すると、再び歩きだすが、その足は硬く冷たい音を立てることはなく、代わりにさくり、さくり、と薄黄色を踏み分ける小気味よい音を鳴らし始めたのであった。