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車窓を流れる木々のくすんだ暗い緑に目を向け続ける。ただそれだけの、短くはない数時間を、男は静かに消費してきた。
降り立った空港で止めたタクシーは、お世辞にも乗り心地が良いとは言えなかったが、それでもやはり、不平の一つも漏らす事無く黙っていた。
運転手は生来の話好きなのか、あるいは長距離の上客に対するサービスのつもりなのか、男に対して、アジア人は珍しいだの、どうしてこの国に来たんだだのと男に尋ね、挙げ句の果てに自分の妻が作るスープはこの国で一番だなどと身内自慢を披露してみせたが、男は古びて固くなった革の-おそらくは黒色であったであろう-シートを時折軋ませるだけ。
その様子に、言葉が解らないという事ではなく、ある種の頑なさをなんとなく、そしてようやく感じ取り、運転手はこの客との対話を切り上げた。
この男は一体何を考えているのか。それ以前に、そもそも何をしに来たのか。それを想像する事を、残りの道中の暇潰しにしようと決めてから、どうせ真っすぐな一本道、少し目を切った所でどうということはない、と既に幾度目かもわからない視線を運転手はバックミラー越しに送る。
しかし、やはり男は、一抱えというには少し足りない、小さめの古びた旅行鞄と共に乗り込んできて、行き先を告げた後、それ以外を捨て去ったかの様に浮かべている表情を崩してはいなかった。
どこか陰鬱な印象を、この国で生まれ育った運転手にさえ与える木々は既に車窓を流れ去り、今やタクシーは丈の短い薄黄色の草々が茂る中に、点々と石造りの小さな家が散在する、なだらかな丘を下っている。
もう目的地は目鼻の先と言えるだろう。この客を早く送り届けて、このなんとも居心地の悪いドライブを終わりにしたい、そんな思いが運転手にアクセルを強めに踏ませる。近頃また燃料代が上がったことはこの際忘れる事にしよう、そう思った矢先、
「-でいい」
低く、重い音が耳に届いた。
「え?」
数時間ぶりの、どうやら人の声らしい音を聞き逃した運転手が聞き返すと、
「ここでいい」
と、今度ははっきりと声が聞こえた。
「はあ。…しかしお客さん、歩くにはまだ遠いと思いますがね」
踏み続けていたアクセルを緩めながら、しかし男の言葉に完全には沿わずに、緩やかにタクシーを進めながら運転手は続ける。
「荷物はそう無いようだから、歩けないことはないだろうが、せっかくだ、街の入り口まで乗って行っちゃあどうです」
間違いなく居心地は悪いし、とっとと降ろしてしまいたいのは運転手の偽らざるところであったが、いざ降りると言われてみると、そんな目にこれだけ逢わされてきたのだから、せめて街までの残りの料金をせしめてやりたいという思いが、雨雲が湧くように生じたのだった。しかし、
「いや、結構」
男の答えはそれまでと同じく、運転手を寄せ付けぬ雰囲気を纏った、素っ気ないものであった。
「…そうですか。そう仰っしゃるなら」
運転手は仕方なく、しかしせめてもの抵抗と、停車するのにいい場所を探すフリをしつつタクシーを少しばかり進めた。やがてカメラのシャッターを切った様な機械音が車内で起こると、これぐらいでいいか、と半分満足した様な顔をしながら、タクシーを道の脇に寄せた。
「それではお代を…」
運転手が料金を告げると、男は静かに懐からマネークリップを取り出し、余計な数十メートルで上乗せされたその額に何も言わずに紙幣を数枚差し出した。
運転手はそれを受け取ると、男に見せつける様にして勘定を始めた。
「ひい、ふう、みい…と、確かに」
運転手は男が支払いに文句を付けなかった事で、もう半分の満足を得た様であった。そして、シフトレバーの隣にあるホルダーに指を無造作に突っ込むと、幾らかの硬貨を拾いあげ、数え始めたが、ふと何かを思いついたような顔をしたあと、申し訳なさそうな声を作って告げた。
「…っと。すみませんね、お客さん。釣り銭がちょうどになりませんで」
声色を作ることにはどうにか成功した運転手だが、その表情は、男から更なる満足を引き出そうとする、多少鼻につく卑しさを滲ませていた。が、
「そうですか」
あっさりそう言うと男は、後部席のドアを開け、その右足を路上に落とした。
-いいんですかい?
子供の悪戯じみた自身の企みが成功しかけている事への湿っぽい喜びを、隠そうとしながら隠しきれない声色と表情で運転手は男へ声を掛けるが、既に男は半分車外へ出かけており、返事はおろか、座り直す事も、振り返ることさえもしなかった。
道路に降り立った男は、ドアを閉じると、もうそこには男の他に何も存在しないかのように、街へと向かう道を歩き出す。
運転手はといえば、男を乗せていた時には予想しなかった程度の俗な満足感を得ながらも、やはりあの男は何者だろうかという問いが僅かに燻り、しかしその小さな種火を、自身の企みの成功という水でうやむやにして、使い込んで軋むギアを入れ直し、元来た真っすぐに伸びる道を戻ってゆく。
が、消え切らなかった種火が最期の火を燈そうとするのに負け、もう一度バックミラーを覗く。
ついに運転手は、あの男の後ろ姿から、素性や思考に関するいかなる確信も引き出すことが出来ず仕舞いであった。
やがて男を見る事を止めた運転手は、窓を開けるハンドルを回しながらポケットをまさぐり、客を乗せている間は吸わないようにと言い付けられていたタバコを取り出し、火を点けた。
それを境に、運転手の意識から男への興味がゆるゆると吐き出される煙と共に流れ去っていき、代わりに妻の作る今夜の食事のことが、そこを満たしていった。