第一話 空から降ってきた魔女
「秋に入ったとは言え、まだまだ暑いな」
9月25日。二学期が始まってからもう直ぐ一ヶ月が経とうという頃のある夜。俺――早瀬 武人はビニール袋を片手に夜道を歩いている。
いきなり大量に出された宿題に追われること数時間。少し前にようやくそれが終わった頃、腹の虫が鳴いた。ボロいアパートに一人暮らしをしている為、食事はもっぱらレトルトやジャンクフード、そしてコンビニ頼りとなっている。だってほら、俺料理出来ないし。
そして残念なことに、部屋にカップ麺やらの類いは残っていなかった。大体いつもその日の分は買って帰っている為、割とこういったことは起こる。そんなこんなで、いつもと同じ様に夜中の買い出しに出たわけだ。今はその帰り。
コンビニで買った惣菜パンがいくつか入った袋を片手に、アパートへと向かってゆっくりと歩く。小腹は空いているが、ずっと座って勉強していた疲れがあるせいか、こうして外の空気を吸っていると少し気分が良くなる。少し遠回りでもして帰るか? そんな風に考えながらも、足は止めない。気温は高めなものの、夜風が吹くとそれなりに涼しい。
「ま、その辺は一応秋ってことかな」
勝手にそんな風に納得しながら、俺の足は自然と近くの公園へと向いていた。
アパートとコンビニの間にある――とはあまり言えない、コンビニから迂回した所にある公園。割りと大きな自然公園で、名前は瑞ノ葉公園と言う。ここからならアパートより学園の方が近い。まあ、そもそも学園とアパートが近いんだから大した距離でもないけど。
そんな瑞ノ葉公園の中をぶらぶらと歩く。夜風に揺れる木々に囲まれながら虫たちの鳴き声をBGMに、この街の中で一番澄んだ空気を吸い込む。
――ふと、どこからか風を切る音が聞こえてきた。気のせいだとも思える程微かな音。だけど、確かにそれは聞こえた。
どこだ?
足を止め周囲を見回すが、そんな音が聞こえてくる様なものはない。しかし、じょじょにその音は大きくなって――いや、これは近づいてきてるのか?
上?
その音が近づくに連れ、それが上空から聞こえてきているのだと理解出来た。
空を見上げ、目を凝らす。
そこには、異様な光景が……
「危ない! 避けて!」
目の前に迫ってくるソレから、そんな言葉が聞こえてきた。自慢じゃないが運動神経は良い。けど、この時ばかりは身体が動かなかった。
黒いマントを羽織り、黒いとんがり帽子を被った、竹箒に跨って急接近してくる女の子――
いや、避けないと!?
と思い直した瞬間、箒の柄が俺の腹に直撃した。
「っぐ……」
思わず呻き声を漏らす。懸命に勢いを殺していてくれたらしく、直撃した時にはそれなりにスピードは落ちていたけど……
猛ダッシュして突っ込んでくる小学生の突進。くらいのダメージは受けたと思う。局部的に。
「いったぁ~」
なんて声が近くから聞こえてくる。いや、痛いのはこっちだ。
「大丈夫か?」
なんて本音は漏らさず、一応相手を気遣う。おお! 俺って出来た男だ。なんつーか紳士?
「大丈夫じゃないわよ! 避けてって言ったじゃない!」
蹲っていたその女の子が、顔を上げて叫んできた。その内容は随分身勝手なものだったが、俺は直ぐには言い返すことが出来なかった。その余りに整った顔立ちに、思わず言葉を失ってしまったのだ。可愛いと言うよりは美人。美人と言うよりは可愛い。そんな曖昧な、俺と同世代くらいの女の子が持つ特有の艶がある顔立ち。怒った顔すら綺麗だと思える。ただ……
その格好だけはやっぱり変だ。服装は良く見たらうちの学園の制服だ。だけどそれに合わない黒いマントと黒いとんがり帽子。あと箒。なんつーかあれだ。魔女みたいな格好?
「ちょっと、何か言いなさいよ」
「え? ああ……その、悪い」
思わず謝ってしまった。
「いや、そうじゃなくて……あんなの急に避けられるかっての」
「あれくらい避けなさいよっ。どんくさいわね」
うわっ。この子何気にひどっ……
「でも、俺が避けてたら地面に突っ込んでたんじゃないのか?」
「そんなわけないじゃない。ちゃんと軌道補正してたわよ」
そんなもんなのか? ってちょっと待て!
「えっと……」
「何よ?」
「あんた、空飛んでなかったか?」
「あ」
あ。って何だ、あ。って……
「そんなわけないじゃない。何言ってるのよ」
あははー。と乾いた笑みを浮かべながら取り繕った様に答える女の子。
「いや、でもなぁ……」
「ちょっと木の上から飛び降りただけよ。ほら、何て言うの? 飛べる気がしたって言うか、飛べたらいいなって思ったって言うか……若気の至りってやつ?」
「今さっき軌道補正とか言ってじゃないか」
「いや、それはあの……」
俺の的確なツッコミに言葉を濁す女の子。ちょっと可哀想になってきた……
「忘れなさい!」
「は?」
なんて思ったのも束の間。いきなり強気な態度でビシッと指を差してきた。
「な、何だよ?」
「今見たことは全部忘れなさい! いいわね?」
「いいわね? と言われても……」
今の出来事を忘れるのは、なかなか容易なことじゃないと思うぞ。
「いいから忘れなさい。あたし、物質操作系の魔法って苦手なんだから。あなたが忘れられないって言うなら、物理的に忘れさせることになるわよ?」
「それはあれか? 俺の頭を殴るとかそういう類いのことか?」
言っている意味はよくわからなかったが、とりあえず身の危険を感じて質問してみた。
「えぇ」
返ってきたのは予想通りの言葉。簡潔且つ明瞭な一つ返事だった。
って言うか、今魔法とか言いましたよこの人。何て反応していいやら……
と言うか、もはやあんまり関わりたくない感じになってきた。色々危なそうだから。主に俺の頭が。
「さあ、どうするの?」
なんて言いながら詰め寄ってくる女の子。いや、近いって。
そのあまりの近さにちょっとドキドキしながらも、正直者な俺は仕方なく妥協案を出す。
「努力はする」
「……まあいいわ。それでカンベンしてあげる」
「そいつはどうも」
喜んでいいのか判断に困るところだが、とりあえず礼を言っておく。ここでツッコミを入れると厄介なことになりそうだと俺の勘が告げていたからだ。
「それじゃあ、もう会うこともないと思うけど……くれぐれも、今夜のことは人に話さないでよね」
「ああ」
俺が頷くのを見て、女の子は手に持っていた箒に跨る。彼女はゆっくりと瞼を閉じ、深呼吸をする。
ふわり。
実際にそんな音が聞こえてきたわけじゃなが、イメージ的にはそんな音と同時に箒が浮き上がった。彼女の身体を乗せたまま。
普通なら驚く場面かもしれないが、それ以上に今は呆れてしまった。
だって、なあ……?
飛んできたのを見たからと言うよりは、さっきまで必死に隠そうとしてた上に、俺に今見たことを忘れろって言ってきてたんだぜ? 誤魔化しきれなくなったとは言え、もう少し隠そうって気を持たないもんなのかね。
そんなことを考えていると、女の子はパチリと目を開いた。俺の方に視線を向けたかと思うと、直ぐに前に向き直り――
箒は勢い良く飛翔したかと思うと、直ぐに彼女の姿は夜空に溶け込み見えなくなった。そこで俺は、彼女の言葉を思い出す。「もう会うこともないと思うけど」って言ってたけど……
彼女は、間違いなくうちの学園の制服を着ていた。ということは、学園で会う可能性があるよな。こっちは私服だから、まあ彼女にとって見ればさっきの言葉も当然かもしれないけど。
「まあともあれ……」
帰るとするか。
何となくどっと疲れが押し寄せてきて、とにかく直ぐに帰って休みたくなった。
ある秋の日の夜、俺は魔女みたいな格好をした女の子に出会った。
その子はまるで本物の魔女の様に箒で空を飛んでいた。
見た目はいいけど、性格はあんまり良くなさそうだったな。なんて思うけど、彼女のことが妙に気になったのは事実だ。
それでも、それ以上に今日という日が日常とは違うなんて言うことはなくて――
この時はまだ、この先に訪れる不幸の連続などまったく予想していなかった……