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辺境の町リグナは、風が冷たい。
王都から遠く、街道も荒れ、魔物の影が常にちらつく土地だ。
勇者を失った世界では、こういう町から先に削れていく。
俺は名を「ロウ」と名乗っていた。
本名は捨てた。
勇者を殺した兵士の名など、残しておく理由がない。
傭兵としての仕事は単純だ。
荷馬車の護衛、魔物の間引き、山賊退治。
魔王軍は勢力を広げている。
だが最前線以外では、まだ統制が甘い。
末端の魔物や半端な配下が好き勝手に暴れているだけだ。
勇者がいた頃より、むしろ戦場は雑になった。
あの男は、確かに強かった。
だからこそ、魔王軍は押さえ込まれていた。
今は違う。
恐怖が、じわじわと広がっている。
ある夜、酒場の扉が勢いよく開いた。
「傭兵はいるか!?」
入ってきたのは若い女。鎧は新しく、剣は扱い慣れていない。
「村が襲われてる! 魔族が!」
酒場は静まり返った。
誰も動かない。
勇者は死んだ。
王都の救援は来ない。
無理をして死ぬ義理もない。
俺は椅子から立ち上がった。
「いくらだ」
女は一瞬言葉に詰まり、震える声で答えた。
「……払えるだけ払う!」
雑な契約だ。
だがそれで十分だった。
村は炎に包まれていた。
下級魔族が三体。
指揮を執る中級が一体。
数としては多くない。
俺は深く息を吐いた。
勇者の後ろで何百という戦場を見てきた。
あの規模に比べれば、これは小競り合いだ。
だが。
目の前で泣いている子どもは、あの頃と同じだ。
俺は走った。
剣を抜く。
一体目の喉を斬る。
二体目の脚を断つ。
三体目は逃げようとしたが、背中から心臓を貫いた。
中級魔族が怒号を上げる。
「人間風情がァ!」
振り下ろされる爪。
受け流し、懐に潜る。
勇者の戦い方を、何度も見てきた。
弱点の角度も、魔力の流れも、癖も。
喉元へ一閃。
黒い血が噴き出した。
魔族は崩れ落ちる。
静寂。
炎の爆ぜる音だけが残った。
女騎士は呆然としていた。
「……あなた、何者?」
「傭兵だ」
「そんな強さ、普通じゃ……」
俺は剣を拭き、鞘に収める。
普通じゃない。
勇者の隣で生き残った兵士だ。
英雄に踏みにじられながら、最前線を見続けた男だ。
強くならざるを得なかった。
翌朝。
村の広場で簡素な礼が行われた。
子どもが俺に花を差し出す。
「ありがとう、おじさん!」
胸が、妙にざわついた。
勇者がやっていたことは、こういうことだったのか。
世界を救うだの、魔王を倒すだの。
大きな話じゃない。
目の前の火を消す。
目の前の命を守る。
それだけだ。
その夜、宿の窓を叩く影があった。
黒いローブ。
魔王軍の紋章。
「魔王様がお呼びだ」
やはり来たか。
「仲間になる気はないと、言ったはずだ」
「違う」
使者は低く笑った。
「魔王様は、興味を持たれている」
「勇者を殺した兵士が、今は人間を守っている」
窓の外、赤い瞳が細められる。
「どちらに傾くか」
「世界か」
「それとも、絶望か」
使者は煙のように消えた。
俺はベッドに腰を下ろす。
ただの兵士だ。
そう思っていた。
だが世界は、勝手に俺を物語の中へ引き戻そうとする。
勇者は死んだ。
だが、空席は残っている。
誰も座らない玉座。
誰も抜けない聖剣。
そして、拡大する魔王軍。
窓の外を見上げる。
星は静かに瞬いている。
「……面倒だな」
だが剣は、まだ手放していない。
俺は英雄にならない。
魔王の配下にもならない。
それでも――
もし世界が俺を選ぶというなら。
その時は。
俺が選び返してやる。
ただの兵士として。




