1
電信柱にふーが足を上げた。
私は、ペットボトルの水を慌ててかける。邸宅のような立派な家の前でふーはおしっこをした。
マーキングを終えると、後ろ脚で砂かけをする。
かりかりとアスファルトと肉球が擦れる音が住宅街に響く。まだ街灯が機能している。
一月の朝六時。この時期のこの時間は、犬の散歩をしている人が居ない。
辺りはまだ暗く、何よりも凍えるように寒い。
昨日、天気予報のアプリを見たら、六時の予想気温は0℃と表示されていた。
それを見ただけで私は鳥肌が立った。
そして今も、ダウンと手袋、マフラーをして万全の状態にありながらも、外の世界の冷気をしっかりと感じている。
ふーはそんなのお構いなしに、悠然と私の前方を歩いていく。犬は寒さを苦にしないらしい。
南極に置いていかれた犬がいたことを地理の授業で学んだ。資料集に舌を出した真っ黒の犬二匹が日本人と一緒に写っていた。そのときは、犬を飼っていなかったから、なんとも思わなかったけど、今は違う。クソだなと思う。そんなとこに置き去りにするな。飼ってみないと分からない。
犬の可愛さ。尊さ。愛おしさ。
南極に残るふーを想像すると、泣きそうになる。
私はふーが好き。
だから、こんなに朝早く起きて散歩に行ける。
それ以外に、ない。
ふーの後ろを歩きながら、そう自分に言い聞かせる。
ふーはいつもの散歩コースを迷いなく、進んでいく。私はそれについていく。
ふーが好きな道だから、しょうがない。
住宅街を抜けると、見通しのいい広い公園がある。
芝生が生い茂っていて、犬の散歩コースにぴったりの場所。
太陽が出ている時間に行けば、必ず犬と出会ってしまうので、私は無理やりコースを変更する。
でも、冬のこの時間は太陽が出ていないから、大丈夫。
誰にも会わない。
ふーは公園に入ると、真っ先に近くの草木の匂いを嗅ぐ。
そして、必ずマーキングをする。
私はなるべくゆっくりとそれに水をかける。
動作をゆったりしないと、心臓のどきどきに気づいてしまう気がして、いやもう手遅れかも。
だから、わざと動きを遅くして落ち着かせようとする。
ぎこちなくなるのに。
公園に入ったときには、もう分かっていた。
遠くの街灯の下で、ランニングをしている人がいると。私の鼓動は早まる。
なるべく、ふーから目を逸らさないように、体をふーに向ける。
ランニングシューズの軽快な足音が近づいてくる。
もうそろそろ、来る。
身構える自分が恥ずかしい。
「ふーちゃん!」
来ると分かっていても、その声を聞くと時間が止まったような感覚に陥る。
名前を呼ばれたふーは、その声のほうへ一目散に駆け寄る。飼い主の緊張など、露知らず。
私も意を決して、振り向く。
「ふーちゃん!おはよう!今日も可愛いねー。」
ふーを優しく撫でまわすその人は、青のウィンドブレーカーを着て、ネックウォーマーを顎まで上げている。
細身の身体なのに、ふくらはぎや太ももの筋肉が膨らんでいるのが分かる。スポーツをしている人の脚。
リードを持つ手を緩める。ふーが行きやすいようにする。
小さな尻尾を振っている。
その人はふーから視線を私に向ける。
目が合って、慌てて逸らす。
「おはよう、千咲ちゃん。」
毎回、私はここで傷つく。ふーに向けた声色とは違うもの。
小さな子供をあやすような、そんな甘い声。相手として見られていない。
下心を感じない。その爽やかさが私にとっては不快だ。
「おはようございます。」
「今日もすごい寒いね。」
立石さんの頬がほんのり赤くなっている。寒さとランニングのせいだろう。
「本当、ですよね。」
中学生になってから、年上に敬語を使い始めた。
大人になろうとしているようで、使うたびに気恥ずかしさを感じる。
「偉いね、毎日。ふーも感謝しなさいよ。」
そう言って、立石さんはまた丁寧にふーの背中を撫でる。それに呼応して、短いしっぽをふーも振る。
立石さんのほうこそ。
その言葉が喉に出かかって、引っかかったまま出ない。
「じゃあ、また。」
立石さんは手を挙げて、また走り出す。
ふーが追いかけそうになって、私は慌ててリードを強く引っ張る。私が本気を出せば、ふーは動けない。
小さくなっていく背中を見ながら、私は自分を落ち着かせるために、息をゆっくり吐いた。
白い煙が上空に舞って、消えた。




