第七話
ずりずりと、湿った布地が金属の床をこする単調な音が二つ。鈍いエンジンの唸り声にかき消されそうになりながらも、その粘りつくような響きは、静まり返った艦内に妙に大きく反響していた。
「俺がモップがけをする必要はねぇと思うんだ」
色んな意味で疲れ果てた表情で、手元の水溜まりを睨みつけながらジークがため息を吐く。
実際問題、先の襲撃における彼の対応は、少なくともノアから見て落ち度はなかった。だからこうして彼までが巻き込まれるように、ノアが水をぶちまけたデッキの掃除をさせられているというのは、申し訳なさを通り越して、どこか居心地が悪かった。
「ジークさんは、その……横で掛けててもらっても」
「サボり扱いされるに決まってんでしょうよ。……それに事故とはいえ、まぁ悪いとは思ってんの、一応」
ジークは器用に、それでいてどこか投げやりにモップを振り動かす。
あのヴィジルという男が霧のように消えてから、艦内にはまだ、言葉にしがたい緊張感が残っていた。
そんな中にあって、艦の責任者と、事態の中心にいたはずのノアが黙々と床を磨いている図というのは、どうにも収まりが悪い。
「……俺の落ち度だ」
不意に、ジークの手が止まった。
視線は床に向けられたまま。柄を握る拳に、わずかな力がこもる。
「記憶喪失とはいえ、お前さんが何者かに追われている可能性があった時点で、高次方術の使用を禁止しておくべきだった」
「高次方術……?」
ノアも手を止める。聞き慣れないその言葉の響きに、思わず首を傾げた。
「お前さんがここで使った、補助機を一切使わん術のことだ」
方術。エーテル。
ノアは自分の掌を見つめた。あの瞬間、彼がしたのはただの「想像」だった。水が満ちるイメージを、世界の隙間にそっと流し込むような、微かだが確かな手応え。
それが、これほどまでに剣呑な名前で呼ばれるものだったのか。
「難しいこと、なんでしょうか?」
「かなりな。……一度覚えりゃ、一生食いっぱぐれることはない技能だよ」
そこまで言って、彼はゆっくりと顔を上げた。
無造作な前髪の隙間から、赤い瞳が鋭く放たれる。その光は、ノアの内側にある「何か」を冷徹に見極めようとする、猟犬のような鋭さを帯びていた。
「本当にお前さん、何も覚えていないのか?」
「……はい、なにも」
「半分嘘ってところか」
心臓を冷たい指でなでられたような、鋭い一突。
ビクリ、とノアの肩が震えた。
しかし、ジークはその反応を見るなり、深いため息と共にぐしゃぐしゃと頭をかいた。
「……はぁ。こんなしょうもないブラフに掛かる奴が、スパイな訳はねぇわなぁ」
「えっ……?」
「全面的に信用はしないが、今、納得はした。アレに追われてて、高次方術を迂闊に使う。かといってスパイじゃない。であればアレのことは忘れていたか、そもそも知らなかったんだろう」
張り詰めていた空気が霧散していく。
ジークがそれ以上の追求を止めるように再びモップを動かし始めた、その時だった。
デッキの重い隔壁が、蒸気の吹き出す音と共に開く。油と煙の重厚な匂いと共に、ガンツがのっそりと姿を現した。
「おい、変態艦長。ノアもおつかれさん」
ガンツは布で煤だらけの手を拭いながらジークに歩み寄る。その表情はいつになく硬く、技術者特有の冷徹な光を宿していた。
「一通り調べ終わったぜ。……結果から言えば、侵入に使用された術式は特定できなかった。ただし今後、転移の座標になりそうなモノも仕込まれてねぇ。至ってクリーンだ。技師として太鼓判を押してやる。
あと、ミラの方でも前にとったノアの生体データを洗ったが、ビーコンの類が埋め込まれている可能性はねぇってよ」
その言葉に、ノアは知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出した。
自分自身が、知らないうちに敵を招き寄せる標識になっているかもしれないという恐怖。それが、少なくとも物理的な側面からは否定されたのだ。
「……だが。そいつは技師と医師おれたちの目から見れば、って話だ」
ガンツが、釘を刺すように冷たい一言を投げ入れた。
「方術によるマーキングや、特定の波形を利用した追跡……そういう『見えない標識』の類は、おれたちの手に負えるもんじゃねえ。
……まっとうな術士の、それも最高級の『眼』を持った奴じゃなきゃな」
「……分かっている。まぁ十中八九、ノアの高次方術発動時の波形を追ってきたんだろう。奴もそう言ったんだろ?」
ジークが不快そうに眉間を揉む。指先の節々が、苛立ちを隠すように細かく動く。
「ああ、だが眉唾だぞ。高次方術とはいえ発動時のエーテル感応波形を広域にわたって探知して源を特定するなんてのは……理屈はわかるがいくらなんでも神業だ」
「そもそも転移術式自体も神業だろ。だったらできると思ったほうが良い」
「……? マーキング……感応波形……転移術式?」
次々と飛び出す専門用語に、ノアはモップを握ったまま目を白黒させた。
ガンツの言う「物理的な安心」は理解できたが、その後に続く、魔法の法則ロジックに踏み込んだ会話は、彼女の理解の範疇を易々と超えていた。
「ええと……すみません。つまり、まだ……危ない、ということですか?」
おずおずと差し挟まれた問いに、ジークは短く息を吐いた。
「……お前さんがまたこんなふうに術を使えば、また襲撃がある可能性は高いってことだ。だからひとまずお前さんは今後、術を使わないようにしてろって話だ」
突き放すような物言い。けれど、その瞳にノアを責める色はなかった。
ジークは再びモップを動かし始め、独り言のように続ける。
「他の可能性はこっちで勝手に確認するさ。目指してる都市に着いたら、知り合いの専門家に頼んで、お前さんとこの艦を隅から隅まで洗わせる」
「……はい、分かりました」
ノアは小さく頷いた。足元の艦の震動が、どこか彼女を励ますように、心なしか軽やかなものに変わった気がした。
〘各班、入港シークエンスに移行してください。これより本艦は工業都市ゼリウス隷下、衛星都市フリットの管制区域に入ります。……それと隊長、支社から連絡です。受験者のピックアップ準備は完了しているとのこと。接舷次第、立ち会いをお願いしますね〙
スピーカーから、ミラのどこか事務的で、けれど少し忙しそうな声が降ってくる。
「……やれやれ、休む暇もねぇな」
ジークはモップを放り出すと、面倒そうに首の骨を鳴らした。
「ガンツは接舷準備。……おいノア、お前は俺について来い。外の空気を吸えば、少しはシャキッとするだろ」
* *
接舷用に開放された甲板から見る景色は、壮観の一言だった。
陸上艦を受け入れるための設備は、さながら荒野を分かつ鋼鉄の巨大な城壁のようだ。鈍く光る金属の肌には幾千万の擦り傷が刻まれ、その巨大な質量がこの世界の文明を支えていることを無言で主張している。城壁の向こう側には、霧に煙るように高く聳えるビル群が、まるで巨大な墓標か、あるいは神殿のように立ち並んでいた。
巨大なクレーンが空を切り、可動式のブリッジが嘶きのような駆動音と共にセブンスヘブンへと伸びてくる。かつてノアがどこか遠い記憶の断片……テレビで見た空港の風景をより荒々しくしたような光景がそこにはあった。
「すごい……!」
ノアは手摺りを掴み、風に煽られる髪を抑えながら、圧倒的なスケールの街を見る。
「比較的でかい街だからな。これから向かうゼリウスほどじゃあないが」
ジークはそう言って、懐から取り出した煙草に火をつけた。紫煙が風に流され、巨大な街の喧騒の中へと溶けていく。
——衛星都市フリット。
それが、この鋼鉄の港と、背後に控えるビル群の総称らしい。
促されるまま可動式の橋を渡り、巨大なターミナルビルへと足を踏み入れる。広大なロビーは行き交う人々で溢れていたが、ジークの案内に従ってその一角、重厚な自動扉の向こう側へと進むと、空気の色ががらりと変わった。
そこは、先ほどまでの賑わいとは無縁の、無機質な静寂に包まれた空間だった。磨き上げられた石材の床。冷たい白を基調とした壁面。掲げられた「第七広域警備保障」のロ文字を見て、ようやくここが目的の場所であることをノアは理解した。
ジークが受付で何やら面倒そうに必要事項を書き込んでいる間、ノアは周囲の視線が自分たちに集まっていることに気づいた。支社の職員たちが、ジークの背中や、二人の肩にあるロゴを盗み見ては、声を潜めて何かを囁き合っている。
それは単なる蔑みというよりは、猛獣の檻を遠巻きに眺めるような、畏怖と緊張を含んだ視線だった。このセブンスヘブンという艦が、この組織においてどういう立ち位置なのかを、ノアは初めて肌で感じていた。
待機を命じられたノアとカイルは、ロビーの隅にある簡素なソファに身を沈めた。
「緊張してる?」
カイルが、どこか落ち着かない様子のノアに、いつもの穏やかな笑みを向ける。
「……はい、少し。みんな、ジークさんのことを見ていたから」
「はは、まあな。俺たちの隊長は有名人だし、この艦自体が本社の直轄みたいなもんだからさ。……でも、中身はどこも大差ないよ」
カイルが冗談めかして肩をすくめた、その時だった。
「——おいおい、始まりの艦なんていうからどんなものかと思えば、旧式のオンボロじゃないか!」
静まり返ったロビーに、場違いなほど軽薄で、それでいて棘のある声が響いた。
振り返ると、そこには二人の若者が立っていた。
いずれもカイルと同じ制服を身に纏っている。整った顔立ちをした金髪の青年が、見下すような視線をカイルへと向ける。
「せっかくの昇級試験だ。もう少しマシな同席者がいると思ったんだが……よりによって、術式一つまともに扱えない能無しと一緒とはね」
カイルはいつも通りの笑顔で揺るがなかったが、ノアの胸の奥には小さな棘が刺さったような不快感があった。彼の視線を見れば誰を指して「能無し」などと宣ったのかは察することができる。
「久しぶりだねライオ。元気そうじゃないか。隣の子は後輩?」
カイルはいつも通りの、人当たりの良い笑みを浮かべて問いかけた。だが、ライオはその柔和な態度が気に食わないと言わんばかりに、あざ笑うような溜息をつく。
「後輩に挨拶をさせる手間も惜しいよ。どうせ、お前みたいな能無しと一緒に仕事をすることなんて無いんだから」
ライオの言葉には、明白な悪意が混じっていた。彼はロビーの中央に立つと、周囲の視線を集めるように声を張り上げる。
「今の時代、方術理論の一等星を冠する者は、効率と最適化を追求すべきだ。こんな旧式の艦にしがみつき、泥にまみれて戦うことが高貴だとでも思っているのか? 特権を傘に着たやり方は、もはやこの組織の癌でしかない」
ノアは無意識に作業着の裾を強く握りしめた。
言葉の端々に滲む、他者を見下し、踏みにじることを当然とする傲慢さに、ノアの内で静かに熱が溜まっていく。
そんな内面の熱を見透かしたのか、ライオの視線がノアを射抜いた。
「おまけに、整備班か? ……ハッ、どこの馬の骨かも分からない赤い目の『拾い物』まで修理キット代わりに連れ回して。……たしかに顔はいいよなぁ、カイル?」
自分を「拾い物」と嘲笑われたことよりも、自分を助けてくれたカイルたち皆の善意を侮辱されたことが、どうしても耐えられなかった。
無意識のうちに、ノアは一歩前へと踏み出していた。銀色の髪が怒りに震え、心臓が早鐘を打つ。
熱く煮え繰り返る視界を遮るように、厚みのある温かな手が、ノアの肩を静かに押し止めた。
カイルの手だ。
それは決して力尽くではなく、諭すような、それでいて絶対的な拒絶をライオに向けて示すような、重みのある制止だった。
「カイル、さん……」
「……ライオ、俺のことはいいんだ」
カイルの声には、先ほどまでの朗らかさは欠片も残っていなかった。
——その瞬間。
ノアの背筋を、氷を這わせたような寒気が走った。
カイルから、笑顔が消えたわけではない。
唇の両端は上がったまま。姿勢も崩れていない。
「でも、俺の大切な仲間を侮辱するのは、あまり頂けないな」
カイルがノアを背後に隠すように一歩前へ踏み出す。その動作一つで、ロビーの空気が真空になったかのように張り詰めた。
「君の最新の教科書には、こう書いてなかったかな? 理論の正しさを証明するには、実証が不可欠だ、って」
カイルの青い瞳が、いつもの海のような穏やかさを捨て、荒れ狂う嵐の前触れのような光を帯びる。
「ちょうどいい。これから昇級試験に臨むんだろう? ……君がそれに足る器かどうか試してあげるよ」




