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第五話

 医務室に漂うのは、微かに鼻を突く薬液の匂いと、何かのハーブを煮出したような清涼感のある香り。

 ノアは診察台の上に腰を下ろし、ミラが自分の腕に丁寧に軟膏を塗り拡げていく様子をじっと見つめていた。


「よし。これで大丈夫ですよ。火傷というほどではありませんが、急激な熱気に当てられたことによる軽い炎症です。数日もすれば赤みも引くでしょう」


 ミラはそう言って、丸い眼鏡の奥の青い瞳を和らげた。

 満足げに、もじゃもじゃの髪の間で三角形の耳が一度だけ小さく震える。彼女は処置を締めくくるまじないでも唱えるように、唇をわずかに動かして何事かを小声で呟くと、ふっと息を吐いて椅子を引いた。

 その所作は非常に丁寧で、迷いがない。落ち着いた手つきで治療記録を端末に打ち込んでいく姿には、あの少し慌てた様子とは違う、医師としての確かな技能が宿っていた。


「……ありがとうございます、ミラさん」


「いいんですよ。それより、聞きましたよ? 溶接器のリミッターを外して使うなんて……何か思い出しましたか?」


 ノアは、包帯を巻かれた自分の掌を一度握り、それから力なく開いた。


「いえ……何も。ただ、あの時は、体が勝手に動いたというか。どこをどう動かせばいいか、理屈抜きでわかった気がして。それが……少し、怖いんです」


 ノアの不安を否定せず、ミラは静かに頷く。


「それは手続き記憶と呼ばれるものかもしれません。自分の名前や経歴などの記憶を失っても、体に染み付いた技術や計算能力は、脳の別の領域に保存されていることがあるんです。だから、理屈を忘れていても体が動くのは、決して異常なことではありませんよ」


 手続き記憶。ミラの専門的なフォローが、ノアの胸に静かに染み込んでいく。

 同時に、ある思いが込み上げてくる。


(……この子は、どれだけの時間を捧げてきたんだろう)


 いま自分が借りているこの肉体。ルカ。

 彼女はこの若さで、あんな危険を伴う緊急処置が咄嗟にこなせるほどにあの技術。

 自分の知らない、彼女が積み上げてきた努力の軌跡。

 その重みを思うと、ノアはルカという少女のことを、もっと知りたいと願わずにはいられなかった。


「……ミラさん。僕、もっと頑張ってみます。ここでできることを探して……そうしたら、なにか思い出せる気がするんです」


 ミラは入力していた手を止め、優しく微笑む。


「ええ、それがいいと思います。このあと整備班へ行くように言われているんでしょう? 気をつけて行ってくださいね。困ったことがあれば、いつでもここに来てください」


 * *


 医務室を出たノアは、カイルの案内で艦の下層へと向かった。

 下に行くにつれ、重厚な金属の軋みと、熱を孕んだオイルの匂いが濃くなっていく。


「ここから先は足元が滑りやすいから、気をつけてね」


 カイルが振り返り、穏やかな声でノアを気遣う。


「整備デッキはいつもバタバタしているんだ。でも、みんな腕はいいし、悪い人たちじゃないから安心していいよ。……あ、ほら、あそこにいるのが班長のガンツさんだ」


 カイルが指差す先。

 巨大なエンジンブロックの下から、一人の女性が這い出してきた。

 身長は140センチほど。ノアより頭一つ分低いが、捲り上げた腕の筋肉は驚くほど引き締まっており、しなやかな強靭さを感じさせる。灰色の髪は体の前に流されて鎖骨のあたりで三つ編みにされて垂らされている。遠目には立派な顎髭を蓄えた老練な職人のようにも見えた。


「……なんだ、カイル。その子がジークの言ってた新人かい」


 ドルニアの女性——ガンツが、オイルに汚れた手を布で拭いながら、鋭い眼差しでノアを射抜いた。

 カイルが丁寧に頷く。


「はい。今日から整備班でお世話になる、ノアさんです」


「話は隊長から通ってるよ。——お嬢ちゃん、やる気があるならあっちの台へ行きな。まずはバルブユニットの洗浄と仕分けだ」


 ガンツはノアを作業台へ促すと、手近な部品を一つ拾い上げた。


「いいかい。まずは専用の洗浄液に浸して、この硬いブラシで大まかな煤を落とす。磨き上がったら、このトレイにある予備パーツと組み合わせてバルブ一式を仮組みするんだ。型番を間違えるんじゃないよ。わかったかい?」


「はい。やってみます」


 ガンツは淀みのない流れるような手つきで、一連の工程を瞬く間に平らげてみせた。説明しながら動いているとは思えないほどの速度だ。彼女はノアを作業位置へ据えると、手近な配管をハンマーの柄で『コン、コン』と二回叩いた。

 返る響きは一度。見えない場所で、誰かが即座に応答を返した。現場を支配するその反射的な秩序に、ノアは背筋が伸びる思いだった。


 ノアは、指示された作業台へと向かった。

 積み上げられたバルブユニットは、煤と油で黒ずんでおり、一見しただけでは型番の判別も難しい。

 ノアは、迷いなく手を動かし始めた。

 まずは型番の刻印を洗浄液で浮かせ、視認性を確保する。次に、汚れの種類に合わせて三種類のブラシを使い分け、最も効率的な力加減で煤を剥ぎ取っていく。


 作業は、最初の一時間は手探りだった。

 しかし、二時間を過ぎる頃には、ノアの中で完璧な「ワークフロー」が組み上がっていた。

 部品を掴む左手、ブラシを滑らせる右手。洗浄液に浸す秒数までもが一定のリズムを刻み始め、作業台の上には、新品同様の輝きを取り戻した部品が整然と並んでいく。

 周囲で時折響く打撃音。ノアはその詳細な意味までは理解できなかったが、周囲の整備士たちが音に反応して動く様子から、「肯定なら一度、否定なら二度、注意なら三度」といった基本的な論理の断片を、ぼんやりと察し始めていた。


 ——コン、コン、コン!


 鋭い打撃音が響いた。

 ノアが顔を上げると、周囲の整備士たちが一斉に作業を止めて道具を置いていた。

 それは今日の業務終了、終業を告げる合図だった。

 ノアが担当していたバルブユニットの山は、既に一つも残っていない。


「……数日は持たせるつもりだったんだが。今日の分どころか、あとの仕事までなくなっちまったね」


 ガンツがノアの作業台に歩み寄り、ずらりと並んだ部品を黙って眺めた。

 彼女の腰には、年季の入った革製のツールベルトが巻かれ、ペンチやレンチ、ドライバーといった様々な工具が所狭しと吊るされている。

 ガンツはベルトに下げたハンマーの柄を弄りながら、満足げに鼻を鳴らした。


「……思ってたよりあんた、使えそうじゃないか。ただの雑用じゃなく、ちゃんと整備の仕事を回してやる」


 ガンツはそう言って、ツールベルトの背面に差し込んでいた小型の携帯用溶接器を引き抜くと、無造作に作業台へ置いた。先の戦闘でノアが使い潰したものと同型だ。


「まずはあんたがどこまでやれるのか、その底が見たい。数日かけていい、これの不調の原因を突き止めてみな」


 ガンツが背を向けようとしたとき、ノアの視線は既にその機材に吸い寄せられていた。


「……やってみます」


 ノアは機材を手に取った。

 筐体の蓋を開け、内部を覗き込む。複雑に絡み合う接続系統が、ノアの目にはどこか「いびつ」に映った。

 さきほど、あのとき溶接機の中に見た、光。本来あるべき繋がりを捉えていたあの感覚が、掌を通じて蘇ってくる。

 この接続は、ここではなくこちらに繋がっているべきだ。ノアは確信に近い直感に導かれるまま、精密ドライバーを走らせた。

 カチリ、と小さな音がした。

 ガンツは機材を奪い取るようにして受け取ると、その数値を何度も確認した。


「…………まぁまぁだ」


 ガンツは機材をツールベルトに戻すと、ぶっきらぼうに背を向けた。


「明日も遅れずに来な。……それと、カイルが迎えに来てるよ。さっさとスープでも飲んでくるんだね」


 通路の入り口には、カイルが心配そうに、けれど優しく微笑みながら立っていた。


「ノア、お疲れ様。初日は大変だったでしょ。俺もお腹すいたし、一緒に食堂行こう」


 カイルのその落ち着いた口調に、ノアは心が温かくなるのを感じた。

 まだ一歩を踏み出したばかりだ。けれど、このオイルと金属の匂いの中で、ノアは確かに「自分の居場所」の断片を掴んでいた。


(……ルカ。僕、もう少しここで頑張ってみるね)


 ノアはカイルの隣を歩きながら、狭い廊下にの窓から見える夕暮れ時の空を、少しだけ晴れやかな気持ちで見上げた。

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