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第四話

 足裏から絶え間なく伝わってくるのは、巨大な質量が大地を削る重低音と、内臓を揺さぶるようなエンジンの鼓動。

 ジークたちが拠点とする陸上艦「セブンスヘブン」は、病室の清潔な静寂に慣れきったノアにとって、あまりにも暴力的な情報の奔流だった。


「——とまあ、ざっとこんなもんかな。陸上艦だから大きさに対して機能も広さもそれなりなんだよね。窮屈だったらごめん」


 カイルの声が、轟音混じりの通路に響く。

 案内された食堂のベンチに腰を下ろしたノアは、差し出された水筒を受け取った。

 金属製の水筒は、病室で使っていたストロー付きのプラスチック容器よりもずっと重い。

 蓋を開けると、冷たい水と一緒に、鼻腔をくすぐる鉄錆とオイルの匂い、そして——この巨大な鉄の塊が呼吸しているかのような、微かな熱気が流れ込んできた。


「……ありがとうございます、カイルさん」


 ノアは、支給された少しサイズの大きいシャツと、慣れないスカートの裾を無意識に整えてから、両手でしっかりと水筒を握った。ボロ布同然だった患者着に代わって与えられたそれは、軍用らしい無骨な手触りながらも、清潔な布の感触が肌にこそばゆい。

 前世では男として生きた自意識が、こうした細やかな動作一つひとつに戸惑いを見せる。

 脚を揃えて座る、長い髪を耳にかける。それらの所作は、ノアにとっては「借り物の衣装」を着こなすようなぎこちなさがあったが、傍目には育ちの良い令嬢の慎ましさに見えるのかもしれない。


「……で、ぶっちゃけなにかできそうなこと、あるいはピンときたものとかあった?」


 向かいに座ったカイルが、気まずそうに頬をかきながら尋ねてくる。

 ノアは一口、水を嚥下してから、力なく首を振った。


「……ごめんなさい。何も」


 嘘ではない。

 先ほど見て回ったエンジンルームの重厚な隔壁。複雑に絡み合う配管の森。

 電子基板や配線といった、かつての世界の「電気製品」の常識は通用しない。

 代わりにそこにあるのは、精緻な歯車機構と、それらを制御するように組み込まれた、淡く発光する複雑な部品の数々だった。

 その構造は間違いなく「機械」だが、そこに詰め込まれた技術の密度は、素人が一朝一夕で理解できるとは思えなかった。

 専門性の高さという、目に見えない巨大な壁。それを前に、今の自分には手も足も出ないのだと痛感させられる。


(……足手まといだ)


 罪悪感が、喉の奥を焼く。

 他人の——ルカという少女の——暖かく健康な肉体を奪い、生き延びて。

 その上で、何も返せず、ただ守られるだけ。

 これでは、病院のベッドで見栄えの悪い管に繋がれていた頃と、本質的には何も変わらない。

 自分の命という重しが、誰かの負担になっていく感覚。


「ルカ、大丈夫? ……また酷い顔になってるよ。無理に思い出そうとしなくていいって言ったじゃん」


 カイルが心配そうに身を乗り出してくる。

 その青い瞳に宿る純粋な善意が、今は凶器のように鋭くノアの胸を刺した。

 この善意は、ノアに向けられたものではない。

 彼が案じているのは、もうこの世にいない「ルカ・ホークウィード」なのだ。


「……わかってます。ただ、『ルカ』と呼ばれるたびに、自分が透明になっていくような気がして」


 本当のことを言えば、彼は軽蔑するだろうか。

 名前も、未来も、全てを嘘で塗りつぶして、こうして椅子に座っている自分を。


「……『ノア』と。そう呼んでもらえませんか。僕が、唯一覚えている自分の名前……のようなものなんです」


 カイルは一瞬、きょとんとして瞬きを繰り返した。

 それから、何かを推し量るように少しだけ目を細める。

 ノアは、逃げないようにその視線を受け止めた。


「ノア、か……。うん、いい名前だね」


 カイルは降参するように肩をすくめると、いつもの屈託のない笑顔を見せた。


「実はさ、隊長からも言われてたんだ。『あの子には偽名を考えさせろ』って。狙われてるお嬢様が本名でフラフラしてると危ないし。俺、それをどう切り出そうかずっと悩んでたんだよね。……自分から言ってくれて、正直助かったよ」


 気遣いなのか、あるいは本当に用意されていた手配なのか。

 それでも、ほんの少しだけ、肺を満たす空気が軽くなった気がした。


「……ありがとう、カイルさん」


 だが、安堵の余韻を味わう時間は残されていなかった。


 ——ガガガンッッ!!


 艦全体を巨大な槌で叩いたような衝撃が走り、食堂のテーブルが跳ね上がる。

 空になった水筒が床に転がり、不気味な衝突音を響かせた。

 続いて、壁の向こう側で嫌な音が響く。

 カリカリ、ぎりぎり。

 鋭利な何かが、分厚い装甲板を執拗に掻きむしるような、生理的な嫌悪感を呼び起こす音。


「げっ、マジかよ……『熱喰らいヒート・フリー』の大群か……!」


 カイルが顔をしかめて立ち上がる。


「ひーとふりー……?」


「この辺りに生息するデカいノミ! 陸上艦の排熱に引かれて集まってくるんだよね。放っておくと排気口とか装甲の隙間を破って中に入ってくる……!」


 ノミ。

 そんなものがこの不気味な音を立てているというのだろうか。ノアは無数の拳大のノミが艦に群がっている姿を想像して身震いする。


『ノミ共のお出ましだ。非番の六班、九班も叩き起して対応にあたれ! カイルはお姫様を連れて後方区画へ。万が一、食い破られた箇所から侵入されたらお前が迎撃しろ』


 ジークの声が艦内放送から流れ、それに応じてカイルが動き出す。

 サッとノアの手を取るとニッと口角を上げて笑った。


「行こう。ウチはこういうの慣れてるから安心して」


 * *


 艦内は一瞬にして戦場へと変貌した。

 頭上や壁の向こうから絶えず響く、爪が金属を削る不快な音。

 通路を駆けていくのは、獣の耳や尾を持つ者、岩のように屈強な体躯の者——この世界の「ヒト」の多様な姿が、無骨な武装を携えて忙しなく交差する。

 そのうねりに逆らうように、カイルはノアを伴って艦の最奥、居住区画へと急いだ。


「こっちだよ! 居住区の隔壁さえ閉めれば、奴らでも食い破るのは無理だから!」


 カイルが重厚なハッチの操作盤へと駆け寄り、慣れた手つきで権限コードを叩き込む。

 だが、期待された閉鎖音は響かなかった。

 操作盤は無情な赤色を点滅させ、無機質な拒絶を繰り返す。


「故障かよ、こんな時に……!」


 カイルが焦燥を露わにした、その瞬間だった。

 背後の通気ダクトを塞いでいた鉄網が、内側からの圧力で弾け飛んだ。

 硬い甲殻が擦れ合う音と共に転がり込んできたのは、赤黒い斑点を持つ異形の節足動物。

 中型犬ほどのサイズだが、異常に発達した後ろ脚と、あらゆる物質を噛み砕くために進化した巨大で鋭く尖った顎が、それが「ただの虫」ではないことを告げていた。


「熱喰らいヒート・フリー……!」


 複眼がぎらりと動き、獲物を——ノアを捉える。


「ノア、下がって!」


 カイルが瞬時にノアの前に割り込む。

 いつの間にか彼が装着していた指ぬきグローブには金属板が取り付けられていて、明確に“戦闘用”のものだということがわかった。

 だが、ダクトからは二匹、三匹と、次々に異形が溢れ出してくる。


「シッ!」


 弾丸のような速度で跳躍した一撃を、カイルが拳で迎え撃つ。

 鈍い破砕音が響き、一匹が壁に叩きつけられて沈黙する。ひしゃげた外骨格の隙間から緑がかった汁が飛び散って、不快な匂いがする。

 残る二匹は仲間のその無惨な姿を見て方針を変えたのか、巧妙に軌道を分散させ、カイルを迂回するようにしてノアへと狙いを変えた。


(——死ッ……?! 死にたくない、まだ!)


 眼前に迫る、腐った油のような臭気と死の予感。

 反射的に後ずさった足が、壁の整備ラックから落ちていた「何か」を強く踏みつけた。

 バランスを崩して倒れ込む中で、ノアはその物体へと手を伸ばす。


 それは、重厚な鉄の塊だった。

 持ち手らしきグリップと、焼け焦げたような太い銃口。

 掌が冷たい金属に触れた、その瞬間。


 脳内で、凄まじい情報の奔流が弾けた。


 ——。


 理解などしていないはずだった。

 それなのに、指先が勝手に動き始める。

 グリップを握る力加減、親指で跳ね上げるべき安全レバー、そして——内部で澱んでいるナニカを循環させるための“栓”。


「……っ!」


 視界が、変容する。

 機械の内部を走る、蒼い光の線。

 その輝きがどこで詰まり、どこをバイパスすれば限界を超えた供給が可能になるのか。

 それは知識ではなく、この肉体が——ルカ・ホークウィードという少女が培ってきた業だった。


(足りない。ここが邪魔……!)


 ガシャリ、と。

 ノアの細い指が、無意識にバレルの側面にある調整ダイヤルを力任せに回した。

 本来なら解除に専用の器具が必要なリミッターを強制的にねじきられる。リミッターの破損とともに失われた内部機構の繋がりに意識を向ければ、そこに触れている手から伸びた光の線が途切れたそれらと絡みついて心臓の鼓動と同期するように機械が脈動を始めた。


「これでッ……!」


 迫り来る熱喰らいの顎が、ノアの喉元に届く寸前。

 ノアは、沸き立つような熱量を孕んだトリガーを引き絞った。


 ——咆哮。


 青白い炎の奔流が、狭い通路を真っ白に染め上げた。

 溶接器としての定義を置き去りにした高密度の火力が、跳躍していた三匹を空中で瞬時に炭化させる。

 凄まじい反動がノアの細い肩を叩き、彼女の体は後方の壁へと吹き飛ばされた。


 うだるような熱気と、焦げ付いた肉の臭気が充満する中、ノアは呆然と自分の掌を見つめていた。

 手の中の溶接器は赤熱し、断続的に小さな放電を繰り返している。

 先ほどまでノアの意識を支配していた「光の線」は、潮が引くように消え失せ、代わりに残ったのは、火傷しそうなほど熱い金属の質感と、自分の知らぬ「自分」への底知れぬ恐怖だった。


(……何をしたの、僕……?)


「……マジか」


 カイルの呆然とした声が、静寂を破った。

 彼は黒焦げになって転がっている「熱喰らい」の残骸と、へたり込んでいるノアを交互に見つめ、信じられないものを見るような目を向けている。


「それ……ただの修理用の溶接器だよな? リミッターを物理的に捻り切って、簡易方術の媒体として成立させたのか……? 正規の整備士だって、そんな危ない真似は――」


 カイルははっと我に返ったように歩み寄り、真っ赤に焼けた溶接器を、ノアの手から優しく、しかし確実に引き離した。

 一歩遅れて作動したスプリンクラーから冷たい水が降り注ぎ、加熱された金属が激しい水蒸気を上げる。


「っ……あ、ごめんなさい。勝手に、触ってしまって……」


 ノアはおずおずと顔を上げる。

 怒られるのだろうか。借り物の体で、借り物の道具を、勝手な理屈で壊してしまった。

 だが、カイルの顔にあったのは怒りではなく、言葉を失うほどの戦慄と、そして隠しきれない敬意だった。


「謝る必要なんてないよ。最善だった」


 カイルはノアの肩をそっと叩いて笑う。

 その時、通路の奥から重厚な軍靴の音が響いてきた。


「騒々しいと思えば、派手にやったもんだな」


 姿を現したジークは腰の長剣を抜き放ったまま、まだ余熱を持っているであろう残骸を一瞥すると、彼はノアの前で立ち止まった。

 赤い瞳が、黒焦げになった壁と、濡れ鼠になったノア、そして床に転がる損傷した溶接器を射抜くように観察する。


「カイル。報告しろ」


「……は、はい。居住区の隔壁が故障して、ダクトから熱喰らい三匹が侵入。俺が対処しきれなかったところを、ノアが……そこの溶接器を使って、一撃で。……信じられませんが、彼女、整備用の出力設定を直接弄って武器に変えたみたいです」


 ジークは無言で溶接器をカイルから受け取って興味深げに見つめる。

 ひび割れたハウジング、歪んだ噴射口。


「方術の基礎もなしに、こんな無茶はできないはずだが……」


 ジークの視線が、再びノアを捉える。

 今度は「保護すべき対象」を見る目ではなかった。

 戦場に立つ戦士を品定めするような、鋭敏な輝き。


「お前、記憶がもどったのか? それとも記憶障害は嘘か?」


「……いや、嘘でも、戻ってもないです。ただ、触れた瞬間に……どこをどう動かせばいいか、理屈抜きでわかった気がして。……怖かった、です」


 ノアの震える声に、ジークはふんと鼻を鳴らした。

 彼は溶接器をカイルに放り投げると、濡れたままのノアの頭を、大きな掌で乱暴にわしゃわしゃと撫でた。


「怖がる必要はねぇよ。その『わかった』って感覚は、お前が身体で覚えていた確かな過去ってことだろう」


 彼は長剣を鞘へ仕舞いながら歩き出し、肩越しにノアへと告げた。


「食後の休憩が終わったら、ミラに火傷を診てもらえ。その後……整備班のところへ行ってこい。明日からそこが持ち場だ」


 その言葉は、ぶっきらぼうで、現実的で。

 けれどノアにとっては、この鉄の揺籃の中で初めて与えられた、確かな居場所でもあった。


(……僕に、できること)


 それが奪ってしまった人生の、その残り香であっても。

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