第三話
「お前さんの身元がわかった」
指先が震え、心臓が早鐘を打つ。
知りたくない。けれど、知らなければならない。そんな矛盾した感情が喉元までせり上がってくる。
医務室に、重苦しい沈黙が落ちた。
低いエンジンの駆動音だけが響く中、ジークは無言で彼を見下ろしている。
その赤い瞳は、獲物を前にした肉食獣のように鋭く、逃げ場のない圧力を放っていた。
ノアは思わず、自分の体を抱くようにして後ずさる。
「……悪い。怖がらせたかったんじゃあないんだ」
彼は困ったように頭をかいてひとつ息を吐いた。
「少し、状況を確認したくってな。失声症かと思ってたんだが……嬢ちゃん、自分の名前はわかるか?」
赤い瞳が覗き込んでくる。
首を縦にも横にも振ることができず、ノアはただただ逃げるように視線を逸らすことしかできなかった。
「記憶障害、かな……?」
カイルの呟きに応じるようにジークがふんと鼻を鳴らす。
「なんにせよ、だ。……ルカ・ホークウィード。そいつがお前さんの名前だ」
ジークの口から放たれた音は、耳には馴染むのに、心だけが強烈に異物を拒絶していた。
ルカ。ルカ・ホークウィード。
聞き覚えのない名前。けれど、この体にとっては馴染み深いであろう名前。
知らず知らずのうちに自分を搔き抱く指に、力がこもる。
——……あぁ、やっぱり。
その名前は今この瞬間、彼にとって確定的な”罪”となった。
終わるはずだった自分が、消えていくだけだった自分が、どこともしれない場所で、美しく、健康な誰かの”今”を奪って、のうのうと呼吸をしている。
望まなかったわけじゃない。夢見なかったわけじゃない。
それでも、誰かを押しのけて手に入れた陽だまりを、暖かいだなんて思えない。
一気に血の気が引いていく。
「す、座りましょう、いったん……!」
崩れ落ちそうになった体を、慌てた様子のミラに支えられる。
診療台の縁に座らされながら、視線はどうしようもなくあの洗面台の鏡に吸い寄せられた。
鏡の中では、銀糸と紅玉を宿した美しい少女——ルカが、今にも死にそうな顔をしてこちらを見ていた。
——返せ。
そんな幻聴が聞こえた気がした。
消えてなくなって彼女に体を返せたらどんなにか良いだろう。そんな詮無い願いが胸を塞ぐ。
「で、ここからが問題なんだが……嬢ちゃん、聞くだけの余裕はあるか?」
あるわけが無いだろう。この男には目が付いていないのか。
「む、無理させないでください隊長っ……! め、目がついてないんですかっ」
ノアが心の内で吐き捨てた言葉を、ミラが代弁して食って掛かる。
だが、ジークは困ったように眉をひそめつつも、その鋭い視線はノアから外さなかった。
「今、必要だと俺は判断した。この子は自分が置かれた状況を知るべきだ」
「だからって……!」
「……ききま、す」
掠れた声が、その場の空気を割った。
ミラが驚いて振り返る。
ノアは膝の上で拳を握りしめていた。爪が食い込む痛みが、かろうじて意識を現実につなぎとめている。
既に彼にとって“最悪”というべき事態が起こってしまっているとわかった以上、今するべきことは嘆くことではないはずだ。
それに、“最悪”には慣れている。
余命の宣告も、効果のない治療も、希望が絶たれる瞬間も。
これまで何度も突きつけられ、その度に諦めと共に呑み下してきた。今回もまた、その一つというだけだ。尤も、その“味”はこれまでとはあまりにも毛色が違ってはいるが。
——それに……
奪ってしまったのなら。もし“死なせて”しまったのなら。
少なくとも、自分が何を奪ったのかを知らなければならない。それが、この体で生き永らえてしまった自分への、せめてもの償いだと思ったから。
「ぉ……しえ、て……くだ、さい……」
喉が張り付き、舌が回らない。
それでもノアは、濡れた瞳でジークを見上げた。
「……ならまずは、身元がわかった経緯からか」
ジークは近くのパイプ椅子を引き寄せ、背もたれを前にして跨るように座った。
軋む金属音が、張り詰めた空気にさざ波を立てる。
だが、彼はすぐには本題に入らなかった。
無精髭の浮いた顎を撫で、視線をわずかに彷徨わせ、ガシガシと乱暴に頭を掻く。その一連の動作はあまりに歯切れが悪く、これから語る内容がけして耳触りの良いものではないという躊躇いを雄弁に語っていた。
あるいは、目の前の少女——中身が何者であれ——の反応を、じっくりと観察するための間だったのかもしれない。
「本来なら身元不明者の照会なんてのは時間がかかるもんなんだが、お前さんの場合はかなり簡単にわかった。……国際的な行方不明者データバンクに登録があった。……お前さん、かなり良いとこの出だったらしいな。カイル」
「はい隊長」
ジークに促され、カイルが無言で端末を操作し表示させた画面をくるりとノアに向かって見せる。
そこには鏡で見たばかりの少女の顔写真と見慣れない文字が浮かび上がっている。
——見慣れないのに、読める……君のおかげなの……?
もう痛くないはずの胸が痛む。
誰かの今を、軌跡を、未来を掠め取っているような吐き気を催すほどの罪悪感。
「捜索依頼を出していたのは銀翼都市のホークウィード公爵家。まあ超名門だね」
「お前んちと同じくらいだな」
「話の腰おらないでくださいよ」
「すまん」
わざとらしいやり取りは空気をなんとか軽くしようという気遣いなのだろう。あるいは与えられた情報に対する反応を見ているのかもしれない。
だがそれを鑑みながら顔色を変えられるような余裕は、今のノアにはない。
——良いところの、お嬢様……。
それはつまり、多くの人がルカの失踪を悲しみ、帰りを待ち続けているという証明に他ならない。
ノアは膝の上の拳をさらに強く握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みだけが、かろうじて彼を現実につなぎ止めている。
その震える手に、そっと温かいものが触れる。見上げると、ミラが痛ましげな表情でノアの手を両手で包み込んでいた。
「隊長……本当に、今言わなきゃダメなんですか?」
ミラが咎めるような視線をジークに向ける。
しかしジークは深く息を吐き出すと、意を決したように首を横に振った。
「隠してどうなるもんでもねぇ。……悪いな、嬢ちゃん。ここからはちっとばかり胸糞悪い話になる」
前置きの言葉は、彼なりの不器用な誠意なのだろう。
ジークの声が、一段低く、冷たくなった。
「お前さんの捜索依頼が出されてから三ヶ月後……要するに今から五ヶ月前……ホークウィード家は滅んだ」
「……は?」
思考が停止する。
——滅んだ? この子の家が?
「……詳細は調査中だが、当主夫妻はもちろん、使用人に至るまで全員死亡。屋敷は焼失。事実上の全滅だな」
「ぜん、めつ……」
その言葉にぞわり、と背筋が粟立つ。
家族はもういない。
その事実に、胸の奥でドロリとした安堵が湧き上がったことに気づき、ノアは視界が暗転しそうになるような不快感を覚える。
待っている親はいない。泣いている兄弟もいない。
自分が『奪った』ことで悲しむ家族は、もうこの世のどこにもいないのだ。
——なんて、自分勝手で、浅ましい安堵だろう。
ミラの手が、きゅっとノアの手を握り締めた。その体温だけが、冷え切った世界の中で唯一確かなものに感じられた。
「普通なら、依頼主が死亡した時点で捜索依頼はデータのみを残してアーカイブされる——つまり『終了』扱いになる。捜索の費用を払うやつがいないんだから当たり前だな。……だが、この依頼は今も生きたままだ」
ジークの赤い瞳が、冷徹な光を帯びてノアを射抜く。
瞬き一つ許さないような圧力が、そこにはあった。
「依頼主が死んでもなお、誰かが金を払い続けて、この『ルカ・ホークウィード』を探し続けている」
失踪した良家の令嬢。
滅んだ家。
生き続ける捜索依頼。
彼が今までずっとノアを『心配』ではなく『観察』し続けてきた理由がよくわかる。
ジークはただ静かにノアを見下ろしていた。
「……とまあ、そんなわけだ。正規の手順でギルドや当局に『発見』を報告すれば、お前さんはその正体不明の依頼主の元へ引き渡されることになるだろうが——」
「隊長ッ」
カイルとミラが同時に声を上げる。
明確に非難の色を帯びたそれに苦笑いを浮かべて、ジークはちいさく手を振る。
「ちょっと傷ついたぞ俺は。報告するわけねぇだろ」
彼は肩をすくめてみせた。その表情には、厄介事を抱え込むことへの諦めと、それでも放ってはおけないというお人好しな色が混ざり合っている。
「とはいえ、これじゃあ近場の街へ送って『ハイ、さよなら』ってわけにもいかんだろう。俺たちは今の仕事が片付き次第、銀翼都市へ寄って、裏事情を探ってみようと思ってる」
そこまで言って、彼はニヤリと口角を上げた。
それは、あえて悪役を演じるかのような、獰猛で挑発的な笑みだった。
「ただし、だ。俺たちは慈善事業団体じゃあねぇ。タダ飯ぐらいを養う余裕もねぇ」
「……っ」
「連れてってやる代わりに、働いてもらうぞ。元お嬢様」
働け。
その言葉の意味を咀嚼するのに、数秒かかった。
それは、何も持たず、ただ罪悪感に押しつぶされそうになっていたノアに対し、彼が提示した唯一の——そして最も過酷な「生きるための切符」だった。




