第7回 鍾繇、党錮の禁を避ける
西暦一六六年(延熹九年)、鍾繇一五歳の春の季節。
宦官による政治の乱れを、「清流派」と言われる李膺・郭泰が弾劾したが、宦官たちはこの弾劾を逆手に取り、官僚(党人)が朝廷を誹謗中傷したと、逆に告発するに至った。
この宦官による告発を、時の天子桓帝は信じ、党人たちは弾圧され、約二〇〇人の党人が「禁錮」とされた。禁錮というのは、もう官途に付けない、ということを意味する。
荀爽は、今回は弾圧を免れたが、儒学の大家、名士としての名は天下に轟いているので、洛陽に居を構えていては、いつ巻き込まれるかわからない、ということで洛陽の私塾をたたみ、故郷の潁川郡にて隠棲生活を送ることを決めた。
多くの弟子たちは、共に潁川郡へと懇願したが、荀爽がついてくるのを認めたのは、鍾繇の様に、故郷が潁川郡である者に限ってであった。
荀爽は鍾繇に言う。
「鍾繇よ。私は、故郷では私塾はもう開かないつもりだ。自分の著作にしばらくは、長ければ生涯をかけて取り組むつもりだが、手伝ってはくれるかな。」
「もちろんです。私は先生の行くところであれば、どこへでもお供をさせて頂く所存です。」
「そうか、助かる。しかし、お前はお前の道が見えたならば、その時は遠慮せずに、羽ばたいていくのだぞ。」
「わかりました。そうさせて頂きます。」
こうして、荀爽は早々に故郷の潁川郡に戻り、以後、学問への情熱を自分の著作に傾け、約二〇年間注ぎ続けることになるのである。
一方、鍾繇はどうか。
荀爽と共に潁川郡に戻ると、荀爽の庵にて、洛陽同様の生活を送った。この庵には、潁川郡出身の高弟が数名いるだけであるが、その者たちと荀爽の著作の手伝いに励み、これはこれで充実した日々となる。
そして、三年後。
再び洛陽に嵐が吹き荒れた。
外戚の竇武と陳蕃らが宦官排除を画策したが、宦官の曹節・王甫が詔勅を偽造し、竇武らを誅殺するに至ったのだ。
この宦官の勝利で、粛清の荒らしは三年前の党錮の禁をはるかにしのぐものになる。
清流派と目される名士たちが再び弾圧され、処刑・投獄・連座が拡大し、多くの血が流れたのだ。
荀爽が前回、潔く隠棲を選んだのは正解であった。もし、洛陽に残っていたら、今回の嵐を避けることは出来なかったであろう。
この後も、鍾繇はしばらく荀爽に仕えるのである。




