第47回 鍾会、反乱を起こす
鍾会は鄧艾に続き、成都に入城することになった。
自分の献策した作戦が見事に決まり、本来なら喜ぶべきところではあるが、魏の朝廷では一番手柄は鄧艾、ということになり、大尉に任ぜられ、二万戸の領地が加増された。
一方、総大将である鍾会はどうか。鍾会は鍾会で大きな評価を受けたが、任ぜられたのは司徒であり、加増は一万戸にとどまった。二番手柄、という立ち位置である。
こういった論功行賞にも不満があったのだろう。
鍾会は、鄧艾が「専断権」を行使したことを理由に、鄧艾を弾劾したのである。
「専断権」とは、その場にいる将軍が行使するもので、今回の場合は、降伏してきた劉禅を行驃騎将軍に、太子を奉車都尉に任命したり、蜀の官僚たちにも魏の官職を与えたり、鄧艾自身の部下に取り立てるなどをした。
これは、占領地で人心をいち早く安定させるための処置であるが、鄧艾はこのことを自分の手柄として誇ったのである。
鍾会としては、その様な権限を自分でさえ与えられていないのに、故事に順じたとはいえ、鄧艾のやり方は許せるものではなかった。
この後さらに鄧艾は、呉に関する上奏で自分の意見を述べ、独断はならぬ、という見解が朝廷から出たにもかかわらず、その独断専行の考えが改まることは無かった。
そこで鍾会は、鄧艾の独断専行が改まらず危険であると弾劾し、それが認められ、鄧艾は罪人となって送還されることになったのである。
これをいい機会だと捉えたのが、蜀の降将、姜維である。
姜維は鍾会に野心があると確信し、反乱を起こすことを提案してきたのである。
鍾会は考えた。
確かに今反乱を起こし、迅速に行動すれば、天下を取れる可能性は大いにあること、仮に失敗しても、蜀に退却して一地方の王くらいにはなれるであろう、という算段をしたのである。
しかし、ことはそう簡単に運ばず、結局事前にあっけないほどすぐに露見して、鍾会は処断された。享年四〇歳であった。




