第4回 鍾繇、荀爽を驚かす
鍾瑜は、荀緄から荀爽当ての手紙を預かると、すぐに洛陽行きの準備に入った。
荀爽と言えば、当代きっての名士であり、まだ三三歳であるが、その名は天下に知られている。その荀爽の私塾は、入門希望者が後を絶たず、入門を断っているほどだという。
そこに、鍾繇はわずか一〇歳にして、入門を許されたのだ。
実のところ、鍾繇より、鍾瑜が興奮していると言ってよい。
既に周囲に、
「我が一族の繇が、この度、洛陽の荀爽殿の私塾に入ることになった。」
と、吹聴して回っているくらいである。
鍾繇も子供ながら、荀爽の名は知っており、一日でも早く洛陽に行きたい、という気持ちが強い。
自身の興奮と鍾繇の為に、鍾瑜は準備を急いでいるのである。そして数日で準備を整え、鍾瑜と鍾繇は洛陽に向かった。
今回は、前回より随行する家人と荷は少ないので、洛陽までの旅程は三日程度と鍾瑜は思っている。
鍾瑜は馬上で鍾繇に、念を押すかの様に言う。
「お前は何の心配もしなくてよい。とにかく、学問に集中するのだ。何か困ったことがあったら、文で知らせるがよい。大概の事はこちらで何とかしよう。」
「お心遣い、ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、学問に専念致します。」
―三日後―
洛陽に到着した。
馬を降りて歩きながら、荀爽の私塾を目指した。
洛陽は先日来たばかりではあるが、やはり、格式高い古都の風、というのを鍾繇は感じた。これからは、この風に包まれながら学問に専念できるという幸せを噛み締めながら頑張ろう、と気持ちを新たにした。
ほどなくして、荀爽の邸宅兼私塾が見えてきた。
当代きっての名士というだけあり、若いながら中々の門構えの邸宅であった。入口に門番らしい者が立っていた。
鍾瑜は、
「我々は潁川郡から参った鍾瑜と鍾繇です。荀爽先生にお会いしたく、こちらに参上いたしました。」
と言って、懐から荀緄の紹介状を取り出して渡した。
「お話は伺っております。先生は今、講義の最中です。申し訳ないが、しばし、客間にてお待ちくだされ。」
別の者が来て、二人は客間に通された。
家人の掃除が行き届いているのであろう、塵一つなく、整然とした空気が邸内には漂っている。
しばらくすると、身なりの整った儒者風の格好をした男が入ってきた。
二人は立ち上がり、拝礼してその男を迎えた。男は言う。
「鍾瑜殿、鍾繇殿。お待たせいたしました。私がここの主の荀爽でございます。」
鍾瑜は、恐縮しながら
「荀爽先生。この度は無理なお願いをしまして、申し訳ございません。」
と言うと、荀爽は答える。
「いえ、我が兄を鍾瑜様の強い願いが動かしたのでしょう。今回の様な紹介、というのは初めての事です。」
鍾瑜は更に恐縮しながら、前回洛陽に来た際の人相見の老人の話を打ち明けた。
荀爽は聞き終わると、
「なるほど。それが、そちらの少年、鍾繇殿なのですね。」
鍾繇が挨拶をする。
「荀爽先生。お初にお目にかかります。鍾繇と申します。早くに両親を亡くし、以後、族父である鍾瑜に育てられ、今年で一〇歳になります。この度は、学びの機会を頂けるとのことで、心より感謝申し上げます。」
丁寧な挨拶に荀爽は微笑みながら、答える。
「鍾繇殿。一〇歳といえば、まだ、外で遊んだりしているのが普通であろうところ、学問に専念したいと、本当にお考えですか。」
「はい。私は文字を教わる前から、書庫に入って書物をじっとみて遊んでいたと族父から聞いております。文字を教わってからは、書物を読むのが面白くてたまりません。」
「なるほど。読んだ書物は、どういったものを?」
「はい。孔子様や孟子様といった聖賢の書かれた書物が一番面白いと思って読んでいます。後は、読んだとまで言えないかもしれませんが、尚書や礼記、易経なども目を通したことはございます。」
「ほう、既にそこまで。鍾瑜殿、もう鍾繇殿にはどなたか師をお付けになられたのですか?」
「いえ、特には。一人で書物に当たり、わからないところは聞いてくる、といった感じで、独学といってよいでしょう。」
「なるほど。わかりました。こちらで、鍾繇殿をお預かりいたしましょう。他の弟子と同じ扱いになりますが、その点、よろしいでしょうか。」
「もちろんです。身贔屓などは、全く期待しておりません。何なら、家人として、家向きの事にもお使いください。そういった日常の家事を知ることで、学問がより具体的に身につくようにも思いますし。」
「お気持ち、よくわかりました。鍾繇殿、鍾瑜殿の申す通り、家の事をやりながら学んでもらおうと思うが、よろしいか。」
「はい。どうぞ、よろしくお願い致します。」
こうして、鍾繇は一〇歳にして、荀爽に弟子入りを果たしたのである。




