第30回 鍾毓、明帝の親征を止める
鍾繇の死は、魏にとって大変な損失であった。
曹操に仕えてから三〇年以上、魏の建国のために命を捧げてきたと評価されていい、働きぶりであった。
実際、明帝もこの働きぶりを認めており、若干二四歳の鍾毓に父親の爵位である定陵侯を継がせている。
鍾毓の字は「稚叔」という。
一四歳にして官途に就いたことにより、その時に父の鍾繇が贈った字である。
「稚」は幼いという意味、「叔」は三男を表している。
そうすると「幼い三男」の意味となるが、この字をつけることで、幼くして仕官したからといって、自分が天才であるなど思わぬように、という戒めの意味がその裏には込められている。
鍾毓は、父親の鍾繇同様、頭の回転が速く、人当たりのいい質であった。しかし、言うべき時は言う。それも、父親同様である。
鍾繇が亡くなる二年前、魏国に危機が訪れた。
西暦二二八年(太和二年)のことである。
蜀の諸葛亮孔明による第一次北伐が催されたのである。
この時、明帝は自ら親征するという意気込みを見せた。
魏の将兵の士気を奮い立たせるための決断である。
しかし、これを止めたのは鍾毓であった。鍾毓は言う。
「陛下が自らご出陣となれば、魏の将兵たちは奮い立ち、我が魏の勝利は間違いないと思います。しかし、陛下が出陣しなくとも、都に鎮座し号令をするだけで、魏の将兵は十二分の働きをするでしょうから、安々と動くことは得策ではありません。」
「私が行かずとも、勝てるというか?」
「はい。帷幄の内に策を張り巡らすことにおいて、漢代の張良、陳平のような人材や、国士無双と言われた韓信の如き勇者も綺羅星の様にこの魏国にはおります故、安心して任されるべきかと。」
「わかった。まずは、皆に任せるとしよう。」
「ご英断でございます。」
こうして、明帝は親征を見送ったが、魏国は見事に勝利をおさめたのである。




