第29回 鍾繇、死す
西暦二二六年(黄初七年)、漢より禅譲を受けて帝位についた文帝が早くも亡くなった。享年、四〇歳のあまりにも、早すぎる死であった。
文帝は、「冷徹漢」と言う様な印象を持たれがちであるが、鍾繇にとっては、頭の回転が速く、その判断、決断も適切であり、働きやすい環境であったと言えた。
実際、家臣の働きを適切に評価し、働きの良かったものにはそれ相応に報いることもしており、鍾繇も「相国」、「太傅」とその位が上がっていたことからも、それがわかる。
曹丕の後は、鍾繇の薫陶を受けた曹叡が継いだ。
「明帝」の誕生である。
「ここが、我が人生の区切りであろう。」
鍾繇は引退も頭によぎったが、明帝に呼ばれた。明帝が言う。
「太傅よ。率直に聞く。あなたの頭に、我が父の死を受けて、引退の二文字はよぎったであろうか。」
「・・・。正直に申し上げます。この元常、これを機に一線から身を引くべき、と考えました。」
「やはり、そうか・・・。しかし、太傅よ。今一度、その考えを改め、私に力を貸してはもらえぬであろうか。」
「ありがたいお言葉ですが、この老体、もうさほど、お役に立てるとは思いませぬ。」
「太傅よ。あなたほどの知見、経験の持ち主はこの魏に人材が多いといえども、やはり見当たらぬ。どうか、引き続き太傅として、私の相談や皇室の教導に携わって欲しい。」
「・・・。わかりました。この老体に何が出来るかわかりませぬが、お受けする以上、命の限り、尽くさせて頂きます。」
こうして鍾繇は引退を取りやめ、太傅として留任した。
明帝が喪に服している間も、鍾繇は魏国の政務を支え続け、つつがなく明帝の親政が始められるように心を砕いた。
鍾繇も七八歳になり、さすがに体もきつくなってきた。
明帝も、明らかに鍾繇の衰えが目に見えてきたことから、徐々に政務から身を引くことを承認し、とうとう事実上の引退となったのである。
しかし、明帝の鍾繇への信頼は変わらなかった。
参内させることはなかったが、文制に関する諮問は明帝から鍾繇に使者を出すことで、行われたのである。
そして、鍾繇八〇歳。とうとう、病床についた。
鍾繇は若き官僚である鍾毓と、まだ五歳の幼子である鍾会を枕頭によんだ。そして言う。
「鍾毓、お前は一四歳で出仕を果たし、周りから神童ともてはやされたが、よく、それに踊らされずに、ここまでやってきた。お前の一番の長所は、謙虚さにある。そのことを決して忘れず、地道に一歩一歩前に進んでくれ。そうすれば、必ずや大成すると、父は信じているぞ。」
鍾毓は拝礼した。
そして、鍾繇はもっと近くにと鍾会を誘い、頭に手を置きながら優しく語り掛ける。
「会よ。お前とは出会ったばかりだが、もう、お別れだ。父として、何もしてやることが出来なかったが、兄の毓の言うことをしっかり聞き、いい子でいるのだぞ。」
鍾会は幼きながらも、これが父との最後の会話になることが分かったのだろう。そして、聞いた。
「父上。私も父上の様になれますでしょうか。」
「もちろんだ。努力を怠らず、人の言葉に耳を傾け、真っすぐに進んで行けば、道は拓ける。そうすれば、私など及ばぬ存在になれるであろう。」
鍾会は、全ての意味を理解したのではないだろうが、深く頷いた。鍾毓に言う。
「毓、申し訳ないが、会のことはよろしく頼む。」
「もちろんです。弟の事はどうか、ご心配せずに。弟ではありますが、自分の息子だと思い、私が立派に育ててみせます。」
鍾繇は、軽く頷いた。そして、そのまま眠りについた。
働き続けた人生であった。西暦二三〇年(太和四年)、八〇年の人生を終えたのである。




