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鍾繇一族  作者: 涼風隼人


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第25回 鍾繇、曹操の死を見送る

 西暦二二〇年(建安二五年)正月、巨星が堕ちる。

 

 魏王曹操が亡くなったのである。享年六六歳であった。

 

 「先に逝ってしまわれたか・・・。」

 六九歳の鍾繇は呟いた。

 

 曹操に仕えたのは、李傕と郭汜が長安を蹂躙していた頃であるから、実に二〇年以上の歳月が経過していた。

 

 文官として期待され登用されたと思っていたが、軍事経験が無いのに涼州や関中の荒くれ者たちの調整を任すと言われたり、軍権を渡されもした。

 

 そして、魏建国に向けての制度や法整備のほとんどを任されてもいた。

 

 時には戦場にも帯同させられ、仕えだしてからゆっくりと休んだ記憶というのがほとんど、無い。

 

 しかし、それが辛いかといえばそんなことは無く、毎日が充実していたように思う。鍾繇は目をつむり、

 「魏王様。今しばらく、お待ちくだされ。私には、まだまだあなたに与えられ、終えていない仕事がございます。」

と、祈りを捧げた。

 

 さて、後を継いだのは太子の「曹丕」である。

 

 そして、曹丕が後を継いだのは父の後だけではない。

 

 「漢」という国そのものの後をも継ぐ。

 

 まずは群臣たちが、「魏王に帝位を譲るべし」と上奏をした。それを献帝が受け入れ、「天命は魏にある故、帝位を受けられよ。」という詔を出す。

 

 曹丕は、それをすぐ受けずに、三度、断りを入れる。

 

 そして最終的には、献帝の強い意志を曹丕が受け入れる、という形で、ここに魏国の天子「文帝」が誕生したのである。

 

 この一連の流れを誰が考案したか。当然、鍾繇である。

 

 この鍾繇の作り出した「禅譲」の仕組みは、これ以後も長々と行われることになる。

 

 そして、鍾繇は魏国の「相国」となる。


 立場で言えば三公の更に上であり、三公を束ね、魏国の軍事、政治、制度設計全てに関わる、魏を象徴する家臣となったのである。

 

 この時、既に六九歳であるが、鍾繇は衰えを知らない。

 

 魏建国の詔も、もちろん鍾繇が作成した。

 

 おおよその内容としては、漢が衰え魏に天命が下り禅譲は必然的であること、新しい王朝としての政治方針や、官職についての制度などが含まれていた。

 

 ここまでは、曹操の頭の中にあったはずである。

 

 そして、ここからは、曹操といえども成し遂げられなかった、本当の意味での「天下統一」を、曹丕をはじめ、次世代の者に委ねたのであろう。

 

 鍾繇は、最後まで職務を全うする覚悟を決めている。

 

 ただ、天下を見渡す限り、孫権が呉の地方を治め、劉備が益州と漢中を押さえており、それらを討伐して天下統一を成し遂げるのは、一年、二年では出来ないであろう。


 「しかし、やれるところまでは、やる。」

と、七〇歳を目前にして覚悟を決めた鍾繇であった。

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