第21回 鍾繇、荀彧の死を聞く
潼関の戦いの翌年、悲劇が起きる。
「王佐の才」と言われ、潁川郡きっての名士、荀彧が寿春で病死をしたのである。
最後まで、曹操の魏公就任には反対の意を示し続け、最後は中央から寿春に遠ざけられ、失意の病死となった。
曹操が自ら行った人事ではあるが、まさか、こんなに早く亡くなるとは思っていなかった。まだ、四九歳だった。分かり合える日が来ることを期待していた一方で、もう、どうにもならない、という冷えた気持ち、それが曹操の正直な心持でもあった。
ただ、荀彧の功績は称えられるべきであり、哀悼の辞を述べ、悲しみを露わにした。
鍾繇は、「荀彧こそ、天才である」と思っていた。
自分より一回り若い荀彧が早世したことが、残念でならなかった。従兄の荀攸が言う。
「文若は、漢の再興への気持ちがあまりにも強すぎた・・・。現実をもう少しとらえて、柔軟に対応をしてほしかったが。」
「それが出来ないのが、文若殿のよきところだったのでしょう。私は、尚書台で職を共にしておりましたおり、文若殿の意に沿わないものも作っていましたが、彼は知っても何も言いませんでした。」
「意に沿わないもの、とは。」
「魏国建国の際の、法整備の骨格などです。」
「魏国・・・。そうですね。魏公になるということは、国を作るのと同じということですね。」
「はい、そして魏公になられ、魏国が正式に建国されれば、当然次なる目標は“魏王”でございましょうから。」
鍾繇は、誰よりも先んじて現実を受け入れて取り組んできた。ただ、儒家として、その魏国の法整備の骨格といえども、その基底に置かれるのは漢同様、儒学である、という信念だけは貫き通すと決めていた。
そしてとうとう西暦二一三年(建安一八年)、曹操は魏公に就任し、ここに魏国が誕生したのである。




