第19回 鍾繇、赤壁の戦い
西暦二〇八年(建安一三年)、この頃から「王佐の才」荀彧と曹操の意見の食い違いが顕在化してくる。
まず、荊州や孫呉を狙う「南征」に関して、荀彧は消極的であった。実際、曹操軍が水戦に慣れていない事、気候の違いからの疫病の心配などといった点で、反対意見は荀彧以外からもそれなりに出ていた。
そして、家臣の一部からまだ大きな声ではないが、曹操の功績は「魏公」になっても差し支えないものではないか、ということがささやかれ出し、それにも荀彧は反対であった。
「公」という立場は、「王」に次ぐ者であり、皇族しかなれない、というのが通常であり、曹操が魏公になるということは、漢王室をないがしろにする行為であり、漢王室の復興を願う荀彧は、とても容認できる話ではなかったのである。
従兄の荀攸はどうか。
こちらは荀彧と正反対で、南征、魏公就任ともに賛成の立場を取っていた。
この二人を比較すれば、理想主義者が荀彧で、現実主義者が荀攸である、という説明が一番早くてわかりやすい。
もう倒れる寸前の漢王室の「復興」を目指す荀彧と、「新しい力」で天下を治めた方が良い、と考える荀攸、という構図になる。
そして、鍾繇はどうか。
南征に関しては、自分が口を出すべきである事柄ではないので、賛否を示す必要はない、と考えている。
一方、魏公就任についてはどうか。
鍾繇はまだ公には意見表明していないが、曹操が魏公の席に着くのは、実際の所、時間の問題、と思っている。よって、賛否を表明しなければいけないのであれば、積極的ではなくとも「賛成」という答えになる。
まずは、南征の是非である。
曹操は結局、「是」として、南征軍を編成した。約二〇万の大軍である。曹操は再び関中と涼州を、鍾繇を司隷校尉に任命し、任せることにした。
鍾繇は今回も潼関に拠点を定めて、涼州と関中の警戒に当たった。
軍事経験の無い鍾繇が、涼州、関中を押さえるというのは、実際無理ではないのか、という反対意見も曹操陣営にはあった。しかし、涼州の馬騰や韓遂、漢中の軍閥、豪族といったものたちから見れば、鍾繇の威張らず、泰然自若とした態度が、思いの外受け入れられ、尊敬の念を集めるに至っていた。
そのため、司隷校尉で鍾繇が赴任をしている間は、不思議なくらい紛争が起こらず、曹操はその当たりを見抜いていたのだと思われる。
曹操の南征は、最初は順調であった。
まず、荊州刺史劉表が死亡した。その後を継いだ劉琮は、曹操に全面降伏した。この知らせを聞いて慌てたのが、客将として荊州の樊城を守っていた「劉備玄徳」である。
劉備は、すぐさま逃亡を図るが、長坂の戦いで敗北してしまう。その苦境を救ったのが、「諸葛亮孔明」であった。
諸葛亮は、舌先三寸で「孫権」を言いくるめ、同盟を結ぶことに成功した。そして「赤壁の戦い」が勃発。
孫権軍三万に対して、曹操軍は荊州の水軍も編入して一〇倍の三〇万ほどの兵力で圧倒したが、孫権軍の計略にはまり、敗北を期すことになる。
この隙に劉備は荊州南部の四郡を自領に組み入れるという漁夫の利を得たのである。
手痛い敗北を期した曹操であるが、無事戻ることは出来た。
この時、「郭嘉が生きていれば、この様な敗北はしなかったであろう」と言及しているが、実際に反対者は多数いたので、今回は曹操の決断が間違えた結果の敗戦、であった。
やはり、不慣れな水戦ではいくら曹操が戦上手といえども、南方の者には適わない、ということを示した。
しかし、これで諦める曹操ではない。
荊州水軍に自軍の兵を合流させ、水軍強化に勤しんだ。
しかも、今度は速戦速攻ではなく、じっくりと時間をかけて調練を積むことにしている。
その間、どうするか。
南方を保留にした以上、曹操の目は必然的に「西」に向かったのである。




