第17回 鍾繇、司隷校尉となる
献帝は曹操に迎い入れられ、正式に許都を都にすることを宣言した。それと共に曹操は「丞相」に就任した。これで、曹操は献帝という、天子の後ろ盾を得たことになり、今後の勢力拡大を加速させていくことになる。
荀攸、荀彧、鍾繇はどうか。
荀攸は、主簿、軍師に命じられ、軍事作戦の立案に関わる。
荀彧は尚書令、待中となり、曹操政権と天子の政、両方の顔と言った大躍進である。
そして、鍾繇は尚書僕射に任ぜられた。
尚書僕射は、尚書令の下ということになるので、一二歳も歳が離れている荀彧が鍾繇の上官という風になるが、「王佐の才」と言われる荀彧が、制度の設計といった大きな視野に立つ仕事を行い、鍾繇はその実務を担当したという格好で、普通の上官と部下、という関係ではなかった。
こうして一九六年(建安元年)は、中央の政務に明け暮れたのである。
翌年、早くも鍾繇に転機が訪れる。
宛城に本拠地を持つ張繡と、荊州刺史の劉表が同盟を結んだ、という報告が入った。
曹操としては、いずれ来る袁紹との北方での戦いに集中するためにも、背後である南方が安定しないのは極めて危険であった。
更にはこの頃、涼州の方も騒がしくなってきた。
「韓遂」と「馬騰」は同盟を結んだり、反故にしたりとその関係が安定せずに、その影響は関中地方まで及ぶものであり、西方も不安定の様相を呈してきた。
曹操は、張繡と劉表には自分が当たることにした。
そして、涼州と関中を誰に任せたのか。何と、その命を受けたのは鍾繇であった。
鍾繇は県令の時も、一度も軍の指揮を採ったことは無い。つまり、軍事の直接的な経験は皆無である。
その鍾繇が、どうやって精強な涼州の韓遂、馬騰や、関中の軍閥と戦えばいいのか。この任を受けたとき、鍾繇は曹操に初めて反論したと言ってよい。
「曹操様。この度の人事、いささか納得がいきませぬ。」
「元常、珍しいではないか。何に納得がいかない。」
「ご存知だと思いますが、私は軍の指揮をしたことは一度もありません。それを、紛争が絶えず、話し合いの席に着かすにも武力がものを言いそうな地域の統括など、私に出来ましょうか。」
「鍾繇。私は、お前に戦に勝てとはいっておらん。涼州と関中地方に戦を起こさせるな、と言っているのだ。」
「戦を、起こさせない・・・。」
「そうだ。今回私は、宛城の張繡征伐に行く。おそらく、劉表も出て来るであろう。それに集中するために、関中と涼州は静かであって欲しいのだ。」
「・・・。つまり、戦が起きない様に調整せよ、と。」
「そうだ。それなら適任は誰だ。私が最初に思いついたのも、荀彧が思いついたのも、元常、お前なのだ。」
「・・・ご意志はわかりました。精一杯、つとめさせて頂きます。」
こうして、鍾繇は矛を用いず、荒くれ者どもをおとなしくさせよ、という曹操の命に従い、「司隷校尉」として、節を持して関中の重要拠点である潼関に赴くのである。




