第1話
「兄さん! 兄さん、しっかりして!」
エマさんの悲鳴が、宿の廊下に響き渡った。
私は慌てて部屋を飛び出す。隣室のナオトさんの部屋。扉を開けた瞬間、息が止まった。
エマさんがベッドに取り縋り、両手から緑色の光を放ちながら、必死に治療魔法を唱えている。しかしナオトさんは苦悶の表情で呻き、額には脂汗が浮かんでいた。
あれから三日。
森で呪いを引き受けてくれたあの日から、まだ三日しか経っていない。なのに彼の体は、見る影もなく衰弱していた。
「エマさん」
駆け寄ると、彼女が振り返った。目が腫れて、涙が溢れていた。
「エリアーナさん……兄さんが……兄さんが……」
言葉が続かない。彼女の震える唇から、嗚咽が漏れる。
私の視線がナオトさんへ向く。彼の体からは黒い靄が立ち上っていた。二日前の聖域の泉で行われた儀式。あの時、私の体から移された呪いが、明らかに異質な形へと変貌している。
「闇喰らい……」
エマさんが絞り出すように呟いた。
「呪いが変質してるの。エリアーナさんから兄さんが引き受けた呪いが、兄さんの中で新しい形になった。周囲の光を食らう呪い……私の治療魔法も、吸い取られて……効果が……」
セバスチャンが足音も立てず部屋に入ってきた。状況を一瞥して、顔色を失う。
私の胸が、鉛のように重くなった。
私のせいだ。
私が十四年間背負っていた呪い。それをナオトさんが引き受けてくれた。命を賭けて、私を救ってくれた。なのに呪いは彼の中で変質し、今度は彼を殺そうとしている。
何もできない自分が、情けなくて、悔しくて、拳を握りしめた。
「エリアーナさん……」
エマさんが私を見上げる。その目には、諦めが滲んでいた。
「私の魔法では、もう……限界がある。このままだと……」
言葉を飲み込む。「死ぬ」とは、口に出せないのだろう。
「何か……何か方法はないんですか?」
私の声も震えていた。
「浄化魔法なら……闇を中和できる魔法なら、もしかしたら……でも、そんな魔法を使える人は……」
エマさんが俯いた。絶望の色が、部屋を満たしていく。
ナオトさんが、また苦しそうに呻いた。低くて、掠れた声。聞いているだけで胸が締め付けられる。
許せない。
こんなの、絶対に許せない。
彼は何も悪くない。ただ私を救おうとしてくれただけなのに。その代償がこれだなんて、あまりにも理不尽だ。
でも……私は何もできない。ただ見ているだけ。またしても、誰かに守られるだけの存在。
違う。
もう違う。呪いは解けた。私はもう、あの頃の無力な少女ではない。
「私が……私が、何とかします」
エマさんとセバスチャンが、驚いたように私を見る。
「お嬢様……しかし、お嬢様には魔法の心得が……」
「何か方法があるはずです。きっと」
右手の薬指にはめた母の指輪を、強く握りしめた。銀の指輪。母の形見。いつもは冷たい金属なのに、今は妙に温かかった。
指輪が私の決意に応えているのだろうか。
「セバスチャン。お母様のこと……もっと詳しく教えてください」
ナオトさんがちょうど意識を失ったところだった。