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夜だけ開く本屋

作者: のっち

最終電車の走り去った駅前には、もうほとんど人気がなかった。

カフェの明かりも消え、コンビニの前で缶コーヒーを飲むサラリーマンがひとりいるだけ。風が歩道の落ち葉をかき混ぜる音が、やけに耳に残った。


午前0時。ビルの谷間のような狭い通りに、一つだけぽつんと灯る光があった。

そこは、小さな古本屋だった。昼間には見た覚えのない、知らない名前の本屋だった。


『月の舟書房』。


看板の文字は、どこか西洋風の筆記体で、少しかすれていた。


その夜、桐谷澪はなぜかその店に足が向いた。家はすぐそこなのに、まるで吸い寄せられるように——。


カラン、という鈴の音が扉の奥で鳴った。


中は思っていたよりも広く、天井まで積まれた本棚が並んでいた。

照明は柔らかく、古い電球が壁際でぼんやり光を灯している。どこか図書館のようでもあり、教会のようでもあった。


「いらっしゃいませ」


カウンターの奥から、年齢不詳の店主が顔を上げた。

黒のシャツにグレーのカーディガン。白髪まじりの髪と、金縁の眼鏡。

その声も姿も、夜の静けさに溶け込むようだった。


「おひとりですか?」


「……はい」


「お好きなだけ、見ていってください。今夜は三時までやっております」


その言葉に、澪は少しだけ首を傾げた。まるでこの店が“夜だけ開いている”と知っている前提のような口ぶりだったからだ。


本棚を見て回ると、どの本も状態はいいのに、どこか懐かしいにおいがした。

紙とインクと、そして少しの埃の香り。

時代もジャンルも雑多で、絵本から哲学書、絶版本に個人出版の詩集まである。


その中に、一冊だけ手が止まった。


タイトルは『星を渡る舟』。無名の詩人の小さな詩集だった。

装丁はくすんだ水色で、表紙に夜空と舟のイラストが描かれている。


ふと、そのページの間に何かが挟まっていることに気づいた。


メモ用紙だった。


『澪へ。あの夜のこと、君はまだ覚えている?』


まるで、それは——


死んだはずの、彼の字だった。



三年前の春。澪の恋人だった佐久間亮介は、事故でこの世を去った。

大学のゼミで出会い、趣味の読書や映画、深夜のラーメンまで何でも語り合えた。そんな日々が唐突に失われ、澪は今もその喪失をうまく処理できずにいた。


亮介の字は独特だった。角ばっていて、でも丸みのある、彼にしか書けない文字。

だからこそ、間違えるはずがない。


メモは、それ一枚だけだった。


店主は、何も言わなかった。

澪がレジに詩集を持っていくと、静かに微笑んで受け取った。


「お代は、今夜の思い出で結構です」


そう言って、カバーをかけて手渡してきた。


「……あの、これ……誰が?」


「さあ。けれど、本は時に、持ち主の心を吸い込むものでして」


「……?」


「また、お待ちしておりますよ。澪さん」


名前を告げた覚えはなかった。

だがその瞬間、澪は何も聞き返せなかった。


扉を出て、振り返ると、看板の灯りはすでに消えていた。


本屋は、夜の闇の中に溶けるように消えていた。



次の日の夜、澪は仕事帰りに再び「月の舟書房」へと足を運んだ。


一度目の訪問が偶然だとすれば、二度目は確信だった。あの詩集に挟まれていたメモ、亮介の文字、それが現実なのか幻なのか、確かめずにはいられなかった。


駅を抜け、コンビニを過ぎ、細い路地を進む。

夜の闇が深くなるにつれて、街の喧騒は遠のいていく。やがて、昨日と同じように一つだけ灯る看板の光が見えた。


『月の舟書房』。


今夜も確かに、そこにあった。


店に入ると、鈴の音が静かに澪を迎えた。


「いらっしゃいませ」


昨日と同じ店主が、同じ口調で挨拶をする。まるで一度も閉じていなかったかのように。


澪は迷わず詩集の棚へと向かった。『星を渡る舟』は、昨日彼女が持ち帰ったはずだから、もう棚にはない。

代わりに手に取ったのは、亮介が昔好きだと言っていた作家の短編集。


ページをめくると、そこにもメモが挟まっていた。


『君がこの本を読むのは、きっと夜だと思ってた』


また、亮介の文字だった。


澪は本を閉じ、深く息を吸った。


「これは……どういうことなんですか」


カウンターへ向かい、震える声で尋ねる。


店主は、しばらく黙ってから答えた。


「本は、読む人の時間を記憶することがあります。その想いが強ければ、言葉が残ることもある」


「誰かが仕掛けたとかじゃなくて……?」


「この世のことすべてが、説明できるとは限りません」


曖昧な微笑みに、澪は返す言葉を失った。


しかし、それでも確かに、そこに亮介の“存在”があった気がした。書かれた言葉には、他の誰にも書けない温度がある。記憶の中の彼が語るような、そんな言葉ばかりだった。


それから澪は、夜の度に「月の舟書房」を訪れるようになった。


週に数回。仕事帰りや、眠れない夜。

そのたびに、彼女は違う本を手に取り、ページのあいだにある“言葉”を探した。


すべての本にメモがあるわけではなかった。

けれど、時折、本当に偶然のように挟まっていた亮介の言葉。


『あの時、君が笑った理由、僕はちゃんとわかってた』


『また一緒に、本を読みたかった』


そのすべてが、まるで過去と現在のあいだにある細い糸を手繰り寄せるようで。


澪は少しずつ、心をほどいていくのを感じていた。


ある日、詩集のなかに、写真が挟まっていた。


それは、ふたりが最後に出かけた日、古い喫茶店で撮ったポラロイドだった。誰がどうやって、そこに挟んだのか。


「……亮介、あなたなの?」


小さな声が、誰にも届かぬ夜に沈んでいった。


澪はその夜、店を出る前に店主に尋ねた。


「この店は……一体何なんですか?」


店主は本を棚に戻しながら、まるで独り言のように言った。


「未練というものは、夜に現れやすいものです」


「……未練?」


「だからこそ、夜だけ開くんですよ。この店は」


「あなたは、誰なんですか?」


「それも、お客様次第でしょう」


店の灯りが、また静かに揺れた。

その光の中で、澪はまるで夢の中にいるような感覚に包まれていた。


本に挟まれていたものは、ただの紙切れじゃない。

言葉でもなく、記憶でもない。


——それは、想いだった。


亮介の想いが、まだこの世界のどこかに残っていた。


そして、澪の心にも。



ある夜、澪がいつものように店を訪れたとき、見慣れた光景の中に、ひとつだけ違和感があった。


奥の書棚の陰、今まで見たことのない木製の扉が、半分だけ開いていたのだ。


それまで何度も通っていたのに、その場所に扉があるとは気づかなかった。


「すみません、あれって……?」


澪が尋ねると、店主は珍しく、口をつぐんだ。


「……今日は、特別な日なんですね」


「え?」


「入ってみますか?」


扉の向こうは、狭い階段だった。古びた木が軋む音が、彼女の足音と混ざって響いた。


階段を降りた先には、薄暗い照明のついた小部屋があり、中央には一脚の椅子と、机、その上に開かれた一冊の本が置かれていた。


澪はそっとページをめくった。


そこには、誰かの手記のような文章が綴られていた。


——はじめて彼女に会ったのは、雨の日だった。


——彼女は、傘を忘れていて、俺が差し出した傘を拒まなかった。


——それからというもの、俺は日記を書くようになった。彼女のことばかり。


文体も筆跡も、亮介のものだった。


澪は、静かに手を口元に当てた。


この日記は——彼が生前に残していたものなのか、それとも、この場所が引き寄せたのか。


ページを捲るたび、記憶が呼び起こされていく。


——君が本を読む姿が好きだった。


——声に出さずに笑うところとか、感情が行間に浮かぶのが、わかった気がして。


——俺の命が尽きるその日まで、あの光景は、ずっと焼きついていると思う。


澪の頬に、ひとすじの涙が伝った。


彼が、最後まで想い続けてくれたことが、言葉としてそこに残っていた。


部屋の隅には、小さな引き出しがあり、開けてみると手紙が一通だけ入っていた。


宛名はない。ただ、封筒に「君へ」とだけ記されていた。


澪はそっと封を開けた。


『澪へ』


『もしこの手紙を見つけたなら、きっと君はまだ本を愛しているんだろうなと思う』


『そして、僕のことも——少しだけ、思い出してくれたなら、それだけで十分だ』


『本は、誰かと誰かをつなぐ舟だと思う。きっと君がこの店を訪れたのは、偶然じゃない』


『ありがとう。僕はもう、大丈夫』


手紙は、それで終わっていた。


澪はゆっくりと目を閉じた。心の奥に、柔らかな何かが灯った気がした。


階段を上がって戻ると、店主が静かに立っていた。


「……見つけられたようですね」


「はい」


「本というのは、不思議なものです」


「ええ、本当に」


その夜、澪は一冊の詩集を手に、静かに店をあとにした。


外はまだ深い夜で、街は眠ったままだった。

けれど彼女の胸の中には、もう一度やり直せるような、新しい朝の予感があった。



あれから澪は、書店を訪れる回数を少しずつ減らしていった。


本屋は相変わらず深夜の三時間だけ開いていたが、澪の心には少しずつ朝が差し込んできていた。


日常に戻ったのだ。仕事をして、同僚と他愛ない話をして、週末には近くの図書館で過ごす。


だが、不思議と“月の舟書房”での出来事は、現実味を持って彼女の中に残っていた。あの本たちも、手紙も、亮介の手記も。


夢のようだったが、夢ではなかった。


ある日、彼女は思い立って一冊の本を買った。


新刊の詩集。少し青くさいけれど、どこかまっすぐな言葉が並ぶその本に、彼女は惹かれた。


そして、自室の机に座り、便箋を取り出した。


『亮介へ』


『元気でやっています。そちらがどんな場所なのか、私は知る由もないけれど、今の私は、ちゃんと歩いています』


『あなたの手紙を読んで、ようやく涙が出ました。あれが、きっと別れだったんだと気づいたときには、もう泣くことも忘れていたのに』


『でも今は、こうして言葉を残そうと思える。あなたが私にしてくれたように』


手紙を書き終えたあと、彼女はそれをそっと詩集の中に挟んだ。


そして、夜を待った。


十二時ちょうどに、再び「月の舟書房」の前に立った澪。


店は今夜も静かに灯りを灯していた。


中に入ると、店主が変わらぬ微笑みで迎えた。


「こんばんは」


「こんばんは」


澪は詩集を手にしてカウンターに歩いた。


「この本、置いてもらえますか?」


店主はその意図を悟ったように、ゆっくりと頷いた。


「もちろんです。どこに置きましょう?」


「詩集の棚に。亮介がいた場所に」


澪は微笑んだ。どこか安堵の混じったその笑顔に、店主もまた優しい眼差しを向けた。


棚に本を差し込み、澪はふと、手を止めた。


「この店は、誰のためにあるんですか?」


「その時々で、変わるのかもしれません」


「じゃあ、私は……」


「“舟”に乗って、渡る人だったのでしょう」


答えは曖昧だけれど、それでよかった。


店を出ると、東の空がかすかに白み始めていた。


——朝が来る。


澪は少しだけ深呼吸をして、夜の空気を胸に吸い込んだ。


彼と過ごした時間は、過去になった。

けれど、それは失われたわけではない。


彼が遺した想いが、本のなかで確かに残り、自分を支えてくれていた。


澪はもう、振り返らなかった。


ただまっすぐに、朝日が昇る方へと歩き出した。


その背は、もう何も重たくなかった。


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