迷宮
紫色の葉を持つ奇怪な植物の迷宮に放り込まれてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。数分なのか、数時間なのか、それとも数日なのか。この場所では時間の感覚が麻痺してしまう。
『ビリー、疲れたら休んでくれ』
アイヴィさんが振り返って私を気遣ってくれた。彼女は全く疲れを見せていないが、私の足はもう悲鳴を上げていた。ブーツの中で足裏が火照り、膝が震えている。
—大丈夫です。アイヴィさんについていきます
私は強がって答えたが、実際のところ限界に近かった。それでも、この不気味な迷宮でアイヴィさんと別れるなんて考えられない。
迷宮の通路はどこまでも続いているようで、どちらに進んでも同じような風景が広がっている。巨大な黒い幹と紫の葉、そして足元には湿った土がぬかるんでいる。
その時、空から冷たいものが頬に当たった。
雨だ。
最初はパラパラと軽い雨粒だったが、次第に激しさを増していく。紫の葉の隙間から降り注ぐ雨は、なぜか普通の雨よりも冷たく感じられた。まるで壁のような木々が行く手を遮り、私たちを閉じ込めようとしているかのように感じる。
雨が激しくなるにつれて、気温がどんどん下がってきた。最初は心地よい涼しさだったのが、今では身体の芯まで冷えるような寒さになっている。私の歯がカチカチと音を立て始めた。
—さ、寒い...
『このままでは凍死する』
アイヴィさんが決意を込めた表情で立ち上がった。
『ビリー、少し下がってくれ。燃やす』
—え?
『ドラゴン形態になれれば楽なのだが...』
アイヴィさんが悔しそうに呟いた。ジャガーノートとの戦いで負った傷がまだ完全に癒えていないんだろうか。
『人間の姿のままでも、本気を出せば...』
アイヴィさんが大きく息を吸い込んだ。今度は先ほどとは明らかに違う。身体全体から熱気が立ち上り、瞳が金色に輝いている。
「グォォォォオオオ!」
咆哮と共に、口から吹き出された炎は先ほどの比ではなかった。青白い炎の柱が迷宮の壁を直撃し、紫の植物たちを一瞬で灰にしてしまう。氷は瞬時に蒸発し、辺り一面が蒸気に包まれた。
私はその圧倒的な熱に思わず後ずさった。
しかし、蒸気が晴れると、信じられない光景が広がっていた。
灰になったはずの植物たちが、まるで何事もなかったかのように再生していたのだ。それも、以前よりもさらに太く、さらに濃い紫色になって。
『馬鹿な...』
アイヴィさんが愕然としている。あれほどの炎でも効果がないとは。
さらに不気味なことに、足元から冷気が這い上がってきた。最初は靴底がひんやりする程度だったが、だんだん足首、膝へと冷たさが広がっていく。
—息が...白く...
私の吐く息が白くなり始めた。アイヴィさんも同じように白い息を吐いている。
迷宮の壁となっている植物の幹に、薄っすらと氷の膜が張り始めた。私は寒さに耐えかねてバランスを崩し、とっさに壁に手をついてしまった。
「痛っ!」
手のひらが凍りついた壁にくっついてしまう。慌てて引き剥がすと、皮がむけて血が滲んだ。
『ビリー…』
アイヴィさんが心配そうに駆け寄ってくる。足元の地面も薄氷が張り、歩くたびにパリパリと音を立てた。
氷と雨に打たれながら歩いている時、アイヴィさんが首元に手を当てているのに気がついた。
—どうかされましたか?
『何かに刺された感じがする』
私が彼女の首元を見ると、小さな赤い斑点がいくつかできていた。虫刺されのようだ。
その時、私たちの足元で何かが蠢いているのに気づいた。最初は地面の土かと思ったが、よく見ると小指ほどの大きさの黒い虫が無数に這い回っていた。
ぞわっと背筋が凍る。
見回すと、アイヴィさんの腕や足にも同じような虫がいくつも這っている。私自身も、ブーツの上から何かがもぞもぞと動いているのを感じた。
「ひっ!」
私は反射的に足をばたつかせて虫を振り払った。アイヴィさんも慌てて身体の虫を払い落としている。
『ここはやばい、どうしたらいい』
アイヴィさんの焦りが精神通信を通じて伝わってくる。足の痛みがどんどんひどくなっていく。歩き続けたせいで靴擦れができ、その上に虫刺されまで加わって、一歩一歩が拷問のようだった。
その時突然—傍受 という言葉が頭に浮かぶ。
すると頭の中に鮮明な映像が浮かび上がった。まるで上空から見下ろしているような迷宮全体の地図が、脳裏に描かれたのだ。それでも迷宮の全容はわからない。
でも、悪意のようなものが出ている方向はわかった。
—アイヴィさん!道がわかります!
『何?』
—こっちです!左の通路を進んで、三つ目の角を右に曲がって...
私は頭の中に浮かんだ地図に従って、アイヴィさんを案内し始めた。
正しい道を進むにつれて、奇妙なことが起こり始めた。最初は微かだったが、だんだんはっきりとした敵意を感じるようになったのだ。それは迷宮全体から発せられているような、どす黒い憎悪のような感情だった。
そして、それと同時に、現実とは思えない光景が目の前に現れ始めた。
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突然、アイヴィさんが立ち止まった。彼女の表情が恐怖に歪んでいる。
『あ...ああ...』
—アイヴィさん?どうしたんですか?
アイヴィさんは私の声が聞こえていないようだった。何かを見つめて震えている。彼女の視線の先を見ても、そこには紫の植物があるだけだった。
『ジャガーノート...また来たのか』
アイヴィさんが呟いた。ジャガーノート?あの獅子頭の化け物のことだろうか。
『逃げ...逃げなければ』
アイヴィさんが後ずさりを始めた。明らかに何かの幻覚を見ている。
—アイヴィさん!しっかりして!ここにはジャガーノートなんていません!
私は彼女の手を掴んで精神通信で必死に呼びかけた。
『また負ける...またあの屈辱を...ドラゴンの誇りが...』
その時、アイヴィさんの瞳が突然燃え上がった。恐怖が怒りに変わったのだ。
『邪魔をするな!』
突然、アイヴィさんが私に向かって炎を吐いた。間一髪で身をかわしたが、頬を熱波がかすめ、肌がヒリヒリと焼けた。
『アイヴィさん!』
私が叫んでも、彼女の目は私を見ていない。幻覚の中のジャガーノートと戦っているのだ。
『今度こそ...今度こそ倒してやる!』
アイヴィさんが再び炎を放つ。私は咄嗟に横に飛び退いたが、迷宮の壁に背中を強打した。鈍い痛みが背骨を駆け上がる。
しかし、私は立ち上がって再び精神通信を送った。
—アイヴィさん!私です、ビリーです!敵じゃありません!
『黙れ、ジャガーノート!』
彼女の拳が勢いよく振り下ろされた。私は必死に防御したが、腕に強烈な衝撃が走る。鈍い音と共に左腕に激痛が走った。
「あああっ!」
私は痛みで膝をついてしまった。左腕がまともに動かない。
アイヴィさんが再び襲いかかってくる。今度は蹴りだった。
私は咄嗟に転がって避けたが、アイヴィさんの蹴った地面がえぐれる。
—うっ...
血の味が口の中に広がった。転がった拍子に舌を噛んでしまったのか、口の端から血が垂れる。
それでも私は諦めなかった。
—お願いです!私の声を聞いて!あなたと一緒に焼き鳥を食べた時のこと、覚えていませんか?
『何を言っている...』
少し動きが鈍った。効果があったのかもしれない。私は痛む体を押して立ち上がった。
—あの時、あなたはとても嬉しそうでした!「うまい!」って精神通信で叫んで...
『焼き鳥...?』
アイヴィさんの動きが止まった。混乱している様子だ。
—そうです!それから肉まんも食べて、クレープも...あなたは人間の食べ物にとても感動していました。
私は左腕を押さえながら、右手で血を拭った。視界がぼやけているが、アイヴィさんの表情が変わりつつあるのが分かる。
『ビリー...?』
やっと、彼女の瞳に私の姿が映った。
—はい、私はここにいます。あなたは安全です。ジャガーノートはここにはいません。
『私は...お前を...攻撃したのか?』
アイヴィさんが愕然として自分の手を見つめた。そして私の傷だらけの姿を見て、顔面蒼白になった。
『私がやったのか?』
—大丈夫です。大したことありません。
『なんてことを...すまない、すまない...』
アイヴィさんが震えながら私に近づいてきた。
—謝らないでください。この迷宮の罠です。あなたのせいじゃありません。
私は右手でアイヴィさんの手を握った。
—アイヴィさんが正気に戻ってくれて、本当に良かった。私はあなたを信じていました。
『ビリー...』
—今は迷宮から出ることを優先しましょう。それに...
私は痛みをこらえながら続けた。
—アイヴィさんを助けることができて、嬉しかったんです。私にも、あなたの役に立てることがあるんだって。
『馬鹿な奴だな...自分の身体も顧みずに』
でも、アイヴィさんの声には優しさが戻っていた。
『少し休もう。お前の傷の手当てをしたい』
—でも時間が...
『お前が倒れたら元も子もない』
アイヴィさんは私を壁に寄りかからせ、持っていた布で私の傷口を拭ってくれた。左腕は確かに腫れ上がっていたが、幸い骨折はしていないようだった。
『もう二度と、お前を傷つけたりしない』
アイヴィさんが誓うように言った。
—あなたは私を守ってくれる人です。幻覚に惑わされただけ。私はそれを知っています。
『ビリー...お前がいてくれて本当に良かった』
私たちは互いに存在を確かめ合いながら、再び迷宮の奥へと向かった。