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その瞳にひかりを  作者: 錐兎
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第六話 半(わかつ)


***


走って、走って、走って、走って。ただひたすら、階段を上り続けた。

小さな石を踏んで血が出ても、足がもつれて転んでも、膝を打ってもすりむいても、その足を止めることはない。息が上がりっぱなしでも、呼吸を整える余裕はない。ただ、足の痛みも忘れるほど夢中で走っていた。

目的地は、この先にある神社。友達は、そこの境内に祀られているはずのあるものが、私を守ってくれるのだと教えてくれた。これまで、ここに来るまで、何度もそう言っていた。

その友達は、皆消えてしまった。

私を守るためと、襲ってくる妖怪から身を挺して私を助けてくれた。

彼らの最後を、私は一度も見ていない。いつも、はやく逃げてと言われていたから。

でも、本当は友達を置いて逃げるなんてしたくなかった。

彼らは、私がこの世に生まれてから、ずっと私と一緒にいてくれた初めての家族だったから。たとえ彼らが人間ではなくても、私の友達であり、家族であることに変わりはない。

そんな彼らを、置いていけるはずがない。

しかし、それが彼らの願いだったから。私は、彼らから知識や力を与えられているばかりで、そのお返しなどできない。だから、彼らの願いを私が叶えることができるのなら、そうしたかったのだ。

その度に胸が苦しくなる。

その度にせつなくなる。

でも、私は涙を流さなかった。

それは、周りに彼らがいたからだ。

皆は私が泣くと、とても悲しそうな顔をする。だから、そんな顔をさせたくないから、私は泣かない。皆に心配をかけないように、大丈夫と笑顔になる。

本当は悲しい。でも、それ以上に皆を悲しませたくなかった。

だから、私は笑う。

でも、それも終わってしまった。

私は今、泣いている。

最後の、たった一人になってしまった友達を、なくしてしまったから。

涙を流しながら階段を上がっている。

悔しい、悲しい、怖い。

私のとなりにはもう誰もいない。自分でなんとかしなくちゃいけない。

彼らの死を、無駄にしちゃいけないんだ。

ようやくたどり着いた。そびえ立つ大きな鳥居には、額束と呼ばれる看板のようなところに「出雲大社」と書かれていた。

八百万の神が集うというこの神聖な場所に、一体何があるというのか。

私を守ってくれるものとは一体なんなのだろうか?

境内に入って、ようやく足を止める。とたんに力が抜けて、地面に座り込んでしまった。肩を上下に揺らし、呼吸を整えようとするが、心臓がどくどくと波打って集中できない。

その時、誰かが私の隣に立った。

否、正しくは立っていた。いつの間にか、その人は私のすぐそばまで近寄っていたのだ。

ゆっくりと顔をあげる。嫌な雰囲気はしないから妖怪ではないだろう。でも、人間でもないような気がするのは、なぜだろうか?ならば、彼らと同じ幽霊か?――否、きっとそれでもない。

ゆっくり見上げると、その先に見えたのは華やかな着物を身につけた、まるで光に包まれたように輝く一人の女性だった。私を見てやさしく微笑んでから、腕をあげて境内の下手を指差す。その先に視線を移すと、そこには小さな古びたほこらがひっそりとたたずんでいた。

私は女性を振り返って尋ねた。

「あなたはだれ?あそこに、なにがあるの?」

すると、女性はまた微笑んで、腕を下げて私に視線を合わせるようにしゃがんだ。

「私は天照あまてらす。この神社の番人のようなものよ。あの祠には、あなたを守ってくれるものがあるわ」

そう言って、私の頭を撫でる。なんだか、今まで感じたことのない雰囲気だ。邪気のようなものは一切感じないし、むしろ神聖すぎるほど清い。

「わたしをまもってくれるものってなんなの?みんなにきいても、だれもおしえてくれなかった……」

皆はいつもその話をすると、行ってみればわかると言ってはぐらかすのだ。そうまでして言おうとしないのはなぜなのか。いつも首をかしげていた。

私がそう言うと、天照は困ったように笑って、彼らと同じように言ったのだ。

「そうね……。見てみればわかるわ」

「そっか……」

「ごめんなさい。でも、それを言えないのは理由があるの」

「りゆう?」

そうやって聞き返すと、天照は苦笑いをした。

「あなたが、異例だからよ」

言って、天照は立ち上がった。それを見上げてもう一度尋ねる。

「いれいって?」

「……きっと、わかる日がくるわ」

またはぐらかすように言って、天照は私を祠へ行くよう促す。すると彼女は、鳥居から階段の方へと体の向きを変えた。

「どうしたの?」

「あなたを襲った妖怪がこっちに向かってきてるわ」

彼女のその言葉に反応する。さっきの妖怪が、私を追ってきているんだ。

どうしよう。このままでは天照が妖怪に食べられてしまう。私は、また友達をなくしてしまうのだろうか。

天照はそんな私の動揺に気づいたようで、こちらを振り返って微笑む。

「大丈夫よ。妖怪はここへは入れないもの。もうあなたが悲しむことはないわ」

「……ほんとに?」

「ええ。私、嘘は嫌いなの。さあ、祠へ行ってちょうだい。中に入っているものは、もうあなたしか使わないから。持って行って構わないわよ」

そう言って、またやさしく微笑む。それに迷いながらもうなずいて、私は立ち上がって祠へ走った。

近くまで来ると、それは遠くから見るよりも古びて見えた。ところどころに苔が生えていて、木目は雨のせいで黒く変色してしまっている。

この中に、今まで探していたものが、私を守ってくれるものがあるのだ。たくさんの友達をなくして手に入れるものなど後悔の産物としかならないだろうが、これは――この中にあるものは、みんなが求めていたものだから……。

固唾を飲んで、ゆっくりと祠の扉を開ける。

中には、紫色の布に包まれた何かがあった。両手におさまるほどの小さなものだ。それを手にとって、布をとってみると、それはひとつの文箱だった。

ゆっくりと、そのふたを開ける。中には――全て黒い石で作られた、二連の数珠が入っていた。数珠にしては輪が短いそれを手に取ってみる。

どう見ても普通の数珠だ。これを、どう使えばいいのだろう。妖怪に向かって突き出すのだろうか?お経というものを唱えなければならないのだろうか?頭上に疑問符を浮かべるも、それらしい答えはあまり出てこない。

その時、ふと左手にある痣が目に止まった。私が生まれた時からそれはあった。なんなのか誰に聞いてもわからないと返されたものだ。いくら水で洗ってもそれが消えることはなく、ただ不思議な文字だった

もしかして、これと関係しているのだろうか?だとしたら、この文字がなんなのかわかるかもしれない。そう思って、試しに左手にその数珠を通してみた。

そして次の瞬間、目の前が真っ暗になった。


***


取り出したかばんに、夏休み中の課題と、錫杖と持鈴ついでに手錠を入れて身支度を整える。忘れ物がないか確認するが、武瑠の家とこの家はそれほど離れていないから、もしあったとしてもすぐ取りに戻れるだろう。そう考えながら、宗谷はかばんを肩にかけて玄関に向かった。

今日で夏休みに入ってからちょうど二週間がたつ。一週間前に早坂と一悶着あって、紆余曲折はあったものの、最終的には伊駒と仲良くなった。女の子同士の友情というやつができ上がってしまったからか、今日の勉強会にはその早坂も参加するそうだ。

その代わりといってはあれだが、今日は一日練習だとかで陵は不参加だ。陸上部のエースも大変だな。全く変わりたいとも思えないほど忙しいようだ。

まあ、陵がいないからといって伊駒好きが減るわけではないから、きっと今日も静かに集中して勉強はできないだろう。

そう考えて、ため息をつく。まったく、伊駒がきてから俺の周りは急にうるさくなったな。そんなことを考えていると、廊下でじいちゃんに呼び止められた。

「今日も武瑠くんの家か?」

「ああ、うん。勉強会」

「そうか……」

「……なに?」

妙な間が気になってそう尋ねると、じいちゃんは考えるような素振りをしたあとに、急に目を鋭くさせた。俺ははっとした。じいちゃんがその目をするときは、必ず仕事のときだったからだ。

仕事といっても農業の方ではない。――陰陽師の方だ。

「最近、お前の気に少しだが妖気が混じっているだろう。夏休みに入ってすぐに、武瑠くんの家から戻った時からだ。彼の家で、何かあったんじゃないのか?」

さすが現役陰陽師だ。そこら辺の嗅覚は衰える様子を見せない。

「……うん」

いい機会なのかもしれない。今後はたぶんじいちゃんの力を借りる時が来るかもしれないし、俺はまだまだ卵だし。それなら、今詳細を話すのが一番だろう。

そう思って、場所を変えて居間につき、じいちゃんに伊駒のことを話した。

正直、疑問だらけだった。善妖を代表する白狐であるというのに、その身は陰陽師に封印されて強制的に人間の体にさせられている。封印した陰陽師も謎だらけで、女であることと紫紺色の瞳をしていたことしか分かっていない。それに、前に伊駒が、俺の錫杖とその女法師の錫杖が全く同じものだと言っていた。白狐は嗅覚と聴覚に優れているからそれに間違いはないだろうし、それならなぜ、俺の錫杖が?

その疑問を話すと、じいちゃんは深く考えるようにうなった。

「そうか……」

「うん。じいちゃんはなんか知らないか?その陰陽師のこととか」

「ああ」

意外にも心当たりがあるようだ。俺が尋ねるとじいちゃんはうなずいた。

「その女法師は、柴ノしばのぎ一族の者だろう」

「柴ノ木?」

初めて聞く名前に反応する。

「そうだ。柴ノ木一族は、陰陽術を発祥させた一族でな。皆紫紺色の目をしておって、術自体は血統にしか受け継がれんと聞いた」

「……え?でも、じゃあ鴻上は?俺たちの陰陽術はどうやって始まったんだ」

「言い伝えによると、鴻上陰陽術開祖が柴ノ木一族の女子と結ばれたのが始まりだそうだ」

柴ノ木一族の女と鴻上の男が結ばれ、女は男に術を授けた。その代わり、血統のみに術を授けるという掟を破った女は柴ノ木と絶縁し、子孫を残して男の前から消えたという。後日、遺書とともに錫杖が男のもとへ届けられ、以後、女が姿を現すことはなかった。

遺書には、鴻上陰陽術を絶やしてはいけないということと、自分の錫杖を代々当主に受け継いで欲しいということが書かれてあった。

「白狐殿が言っておったことが本当ならば、お前に受け継いだ錫杖は、白狐殿を封印した女法師のものと同じということになるな」

「……ってことは、鴻上陰陽術開祖の妻は、伊駒を封印した女法師……?」

「そういうことになる」

なんという巡りあわせだろう。伊駒の因縁の相手が、自分の祖先だったとは。まさか、彼女はこれを想定して錫杖を受け継がせたのだろうか?しかし、もしそれが当たっていたとしても、一体何のために?

「そう悩むことはない。ありのまま、白狐殿に伝えてきなさい」

「え?」

伏せていた目をこちらに向けて、じいちゃんは真っ直ぐに俺を見て言う。

「善妖は我ら陰陽師の味方。お前がその支えをするのだ、宗谷」

「……俺が」

「無論、お前はまだまだひよっこ同然だからな。謎が出てきたらわしに伝えるのだ。お前だけの力で解決しようとなどするなよ」

「……はい」

陰陽師とは、妖怪を祓い、悪霊を鎮め、幽霊を成仏させ、人間を守る存在。唯一妖怪から、人間を守ることができる人間だ。ならば、妖怪でありながら人間を守る善妖を助けない理由などないのだ。

「よろしい。呼び止めてすまんかったな。もう、行ってもいいぞ」

「あ、待ってじいちゃん!」

立ち上がって畑に向かわんとするじいちゃんを呼び止めて、俺は一つ訊いた。

「封印呪のことなんだけと……」


***


「もー!全然分かんない!」

ペンを投げ出してそのまま床に手を付く。その降参のポーズに、桧里は苦笑した。ワークを開いておよそ五分で透穂は音をあげたのだ。いくらなんでも早すぎないだろうか……。

「さっき開いたばっかじゃん。がんばって」

武瑠の応援の言葉に、しかし透穂は反発する。

「だって、ほんとに全然わかんないんだもん!……こうなったら、解答をちらっと……」

「また写す気でしょ!だめだよちゃんと考えないと」

「武瑠くんだって答え見てるじゃん!」

「俺は参考にしてるの!写すのとは違います」

「む~」

奮闘の末、折れたのは透穂だった。頬を膨らまして再度ペンを握る。しかし、そのペンが文字を書く様子はない。

武瑠の家の居間で行われている、もう恒例となってしまった勉強会。と、いう名の夏休み中の課題を終わらせる時間だが、今日のメンバーは武瑠と桧里と透穂と、一話前の前半にさかのぼってみれば一見昼ドラ状態だが、今となっては仲良し三人組である。本来ならば、この場にはもう一人、彼らの中で最も秀才な宗谷がいるはずなのだが、なぜかまだ来ていない。約束の時間をある程度過ぎてしまったので、先に始めていようと提案したのが武瑠だった。

そして、開始早々音をあげたのが透穂であり、勉強会は全く進んでいないと言っても過言ではないようだ。締り役でもある宗谷がいない分なんだか集中ができないのと、どうやら頭はそこまでよくない透穂がこの場にいるのが主な原因だろう。

ワークと睨みあいを続ける透穂。それを気にかけた桧里は、透穂のすぐ隣まで寄ってワークを覗き込んだ。

止まっている問題は、数学の多項式の展開のようだ。かっこの中に項が三つあって、その括弧は二乗されている。少し難しめの応用問題である。桧里はその問題にペンを指す。

「これは、x+yの部分をAに置き換えて、一旦展開するんです。そのあとに、Aをx+yに戻すんですよ」

「えっと……こう?」

桧里の言った通りに書くと、どうやら正解まで進んだようだ。険しかった表情がぱっと明るくなった。

「ほんとだ、できた!ありがとう桧里ちゃん!」

「いいえ、お役に立てたなら光栄です」

その光景を見守る武瑠。透穂が勉強会に参加したいと言い出したときは、どうなるやら少し不安だったが、こうして桧里がついてくれていることで、不安は解消された。何より、桧里はむさくるしい男の中に紅一点だったため、花が咲いたように雰囲気が明るくなった気がする。

というか、二人とも仲良くなったというのになぜ互いに「ちゃん」呼びなのだろうか。女の子はわからないな~。と武瑠は思っているが、彼と陵も宗谷のことは「さん」付けである。

その時、今日二度目のインターホンが鳴った(一度目はもちろん透穂だ)。

「あ、宗谷さんかな」

出てくるね、と言って一人立ち上がって玄関に向かう。靴を履いて玄関を出て、門を開くと、案の定そこには宗谷がいた。

「あ、宗谷さん」

「よう」

「遅かったね。なんかあったの?」

「……ああ、ちょっとな」

苦笑いをする宗谷に、武瑠は思うところがあったが、彼がこんな顔をするときは大抵が触れて欲しくない時であると認識しているため、極力気にしないようにしている。そっか、とだけ言って、武瑠は宗谷を家の中に招いた。

しかし、気にならないわけではない。小さい頃から一緒にいるからもう慣れてはしまったが、最近では妖怪関連でもいろいろあった。幼馴染の秘密もこの夏休みに知ったし、なにより環境が変わった。妖怪が――桧里が家に来てからは。

案の定、宗谷が勉強会に加わるとなぜかその場が締まった。透穂も桧里に教えてもらいながら真面目に問題を解いていたし、桧里もどこか楽しそうだった。唯一暗かったのは、宗谷の雰囲気だ。やはり何かあったのだろう。心配になって聞こうと思ったが、それがなぜか億劫に感じて、やめた。

その後、夕方まで続いた勉強会は、透穂が帰るということで終わりになった。彼女の家は宗谷や陵と違って、武瑠の家からは遠く、バスを使わないといけないらしい。市内循環バスで、その上田舎ということでそんなに便は多くない。つまり最終便が早いのだ。だから、あまり遅くまではいられない。

透穂が帰ってから、今度はなぜか陵が来た。

「逢いたかったよ~桧里さん!」

「きゃあ!」

来て早々、陵は桧里に思いきり抱きつく。ぎゅっと抱きしめた陵は幸せそうに微笑んでいるが、顔を胸に押し付けられた桧里は顔を赤くして抵抗もできないままだ。もう二週間近く逢うたびにこれが行われているためか、桧里もだんだんと慣れてきたようで気絶はしなくなった。が、彼女がこれを避けたり押し戻したり、はたまた陵の背中に手を回したり……ということになるまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。

「お前今日は一日練習じゃなかったのかよ」

相変わらずの行為に呆れの表情で尋ねる宗谷。なんだか、その表情にはどことなく疲れも混じっているように見える。

「そうだったけど、来ないとは言ってないでしょ!」

「まあそうだけど、疲れてるんじゃないの?汗もすごいし」

額にある雫を指して言う。どうやら、部活が終わってそのままこっちに来たようだ。

「だって、はやく桧里さんに逢いたかったんだもん!」

ぎゅっと抱きしめる力を強める。桧里はもがく様子もなく、ただじっと動けないでいた。ふと、陵はあることに気づいて桧里を開放した(といっても肩に手を置いたままだ)。それにまたびっくりした桧里は、どうしたのだろうと陵を見上げる。

「ごめん、汗臭いよね。シャワー浴びてくればよかった……」

そう言われて、桧里はきょとんとした。

「いえ、汗は頑張った人の証しですから。私は好きですよ」

その言葉に、その場が静まった。正確に言うと、驚いて声が出なかったのだ。

「お前は武瑠かよ」

沈黙を破ったのは宗谷であり、急に話に出された武瑠は頭上に疑問符を浮かべる。

「確かに。でも、ありがとう。やっぱり桧里さんは桧里さんだね」

そう言って、陵はまた桧里を抱きしめる。桧里もまた固まった。

前にも思ったが、なぜ桧里はあんなにも恥ずかしい言葉を普通に言うのだろうか。本人は全く恥ずかしげもなくさらっと言うのに、聞いた方が恥ずかしく感じてしまう。しかし、そんな言葉に救われる時もあった。純粋なその言葉に、安心してしまうのだ。そんなところは武瑠そっくりだと思う。

宗谷と陵は、心の内にそう感じていた。

「ああ、いい匂い……」

桧里の首筋に顔を埋めると、びくっと反応するのがわかった。背中に回している手をだんだんと下げて腰まで持ってくる。女の子の体はびっくりするぐらい細くて、柔らかい。その上いい香りがする。

「いいかげん自重しろ」

このまま手を下げてお尻を触ろうかと思うより先に、宗谷から制止の声がかかる。その声色に怒気が含まれていなければ、もっと先を楽しめたのに。と、思いながらも名残惜しそうに桧里を今度こそ開放する。

「話があるんだ」

解放された桧里を確認して、唐突に宗谷が言った。

「伊駒、狐になってくれ」

「あ、はい」

言われて、桧里はポケットから数珠を取り出す。黒い石で作られた二連数珠のそれは、人間の状態にされた桧里の封印を一時的に解くことのできる封印呪破りの数珠だ。まあ、解くといっても完全に解けるわけではないのだが。

一度周りを見渡すようにして、桧里は隣の陵を見上げる。

「あの、最初は倒れると思いますから、よろしくお願いします」

陵は彼女の言っていることがよくわかっていなかったが、桧里は特に気にする様子もなく数珠を左手に通した。とたんに、桧里の体が傾く。気絶したように倒れる体をとっさに支える陵。なるほど、こういうことか。しかし、ここが室内でよかった。

閉じられた目が再度開けられると、その瞳は紅く染まっていた。

ぱちぱちと瞬きを繰り返して、ふと見上げると陵の顔が近くにあるのに気づく。いつもは武瑠が支えてくれているから少し驚いた。周りを見るといつもの面子が揃っている。代わりに、朝見たはずの透穂の姿はない。

「……透穂は?帰ったのか?」

第一声は同性を気にかける言葉だった。だが、武瑠にとっては、その発言はただ微笑ましく感じるものだった。

「うん。バスがもう出ちゃうんだって」

「そうか」

支えてくれている陵に礼を言って離れる。珍しくまだ一度も喋っていない宗谷を見ると、その顔には不安が現れていた。

「桧里」

「ん?」

彼女を呼んだのは武瑠ではなく宗谷である。声が少しこわばっていて、なんだか迷っているように見える。

「……お前を封印した、女法師のことがわかった」

目を見開く桧里。武瑠と陵も、宗谷の言葉に反応する。

「それほんと?」

「ああ。……じいちゃんにお前のことを話したんだ」

宗谷は、桧里を封印したのが陰陽術の発祥である柴ノ木一族であるということ。その一人が鴻上陰陽術開祖の妻であり、意図はわからないが桧里を封印したこと。遺言で彼女の錫杖が代々受け継がれ、自分に回ってきたことを話した。

「……そうか。それで、お前があいつの錫杖を」

ぽつりと呟く。それに頷く宗谷は、いまだに暗い顔をしたままだ。

妖怪の桧里と宗谷が初めて出逢ったとき、互いに互いを誤解していた。錫杖は、一度作ったら最後、全く同じ音を奏でる物は二度と作れないのだ。だから、因縁の相手と同じ音の錫杖を見たとたん、桧里は我を失って宗谷を絞め殺そうとした。結局それを止めたのは武瑠だったのだが。

「……ねえ」

ふと、武瑠が声をかける。かけられた宗谷は顔をあげて首をかしげる。

「なんて名前なの?その陰陽師さん」

少し戸惑いながらもそう問いかける。

「え?……」

「いや、だって。いつも女法師とか陰陽師とか呼んでるけど、宗谷さんだって陰陽師じゃん?だから、ねえ?」

と、陵に同意を求める。

「あ、ああ。そうだな」

気まずい雰囲気を少しでも明るくしようと思ったのだろう。陵もその意図を察して武瑠の意見に同意した。桧里もその言葉で宗谷を見る。

「……こよみ

実はあの後、祖父に家系図を見せてもらっていた。開祖・景宗かげむねのとなりに書いてあった名前は――柴ノ木暦。

「……暦、さん」

「……柴ノ木、暦……か」

武瑠の頑張りも虚しく、また暗くなる雰囲気。

宗谷は目を伏せ、桧里はなにか考えるように上の空だ。武瑠と陵はちらりと目を合わせ、この空気をどうしようかと無言の会話をしている。

しかし、その沈黙を破ったのは桧里だった。

「だが、やはり人間の命は短いな……」

「……桧里?」

自然と彼女へと視線が集まる。その表情は、どこか悲しげだ。

「開祖の妻ということは、もう、死んでいるんだろう」

「……ああ」

宗谷が頷く。すると桧里は当然か、とつぶやいて目を伏せる。

「桧里?どうしたの?」

今の会話で、桧里は一体何がしたかったのだろうか。それが武瑠にはわからない。しかし、宗谷と陵は気づいたようで、顔を渋めた。

「そっか、封印呪はかけた本人が解かない限り消えないんだったね」

「え?」

陵の言葉に目を見開く武瑠。

「それって、桧里はもう元の姿に戻れないってこと……?」

「そうだ」

武瑠の問いに、力なく返す桧里。

「嘘、でしょ……」

「残念だがこれは本当だ。すまないな、武瑠。お前には一生迷惑をかけそうだ」

そう言って苦笑いする。表情にこそ出さないが、桧里の左手は爪が食い込むほど強く握られていた。やはり悔しいし、悲しいだろう。自分のあるべき姿に戻れず、力も抑えられたままというのは。そんな桧里を、武瑠はまるで泣きそうな目でみた。

すると、急に動き出す武瑠。そのまま宗谷の目の前まで歩み寄り、彼の両肩をがしっと掴む。まるですがるような武瑠の目に、宗谷は目を見開く。

「ねえ、他に封印呪を解く方法ってないの?ねえ、宗谷さん!」

強く掴まれた肩にさらに力がこもる。それほど武瑠が必死だということが、桧里を助けたいという思いが切に伝わってくる。そんな武瑠に、宗谷は何も言えなかった。

「やめろ武瑠。気持ちはわかるけど、もう無理なんだよ」

「そんなのわからないじゃないか!もしかしたら何かあるかもしれないし、そうでなくても少しでも桧里の負担を減らせるならそれでいい!」

「武瑠……」

こんなにも必死で、自分たちに反抗する武瑠を見るのは初めてだった。その理由も、桧里を助けたいという、武瑠らしいものだ。

「……ことは、ない」

「え?」

ふと、顔を伏せている宗谷が小さく呟いた。

「……他に、ないことはない」

「それって、封印呪を解く方法のこと?」

「ああ」

宗谷の言葉に武瑠の顔がぱっと明るくなった。

「宗谷!」

だが、それを止めるように急に怒鳴る桧里に、武瑠は訳が分からず、宗谷は桧里の目を見て、悔しそうに顔を歪めてそのまま視線をそらした。

「どうしたの?だって、他にあるんでしょ?そうだよね宗谷さん!」

しかし、宗谷の表情は変わらない。桧里も悲しげな顔のままだ。そのまま武瑠に歩み寄って、自分と顔を合わせるように腕をとってこちらに向かせる。そして腕を握ったまま、桧里は武瑠をなだめるような口調で言う。

「よく聞け、武瑠。もう、封印呪を解く方法はないんだ。でも、俺はこのままでも平気だから。大丈夫だから。だから……諦めよう」

その言葉に、武瑠は一瞬言葉を失った。

「……でも、他にも方法が」

「そんなものはない!」

再度怒鳴る桧里。その叫びには、哀しさが含まれているように感じた。

「ないんだよ……もう」

武瑠にすがるように服を掴む。桧里は、泣いていた。

「……桧里」

武瑠の胸に頭を押し付けて、うつむいたまま涙を流す。

まるで、触れてほしくないように、もう一つの方法を拒む桧里。なぜ、こんなにも拒むのか。自分にかけられた封印を解けるかもしれないというのに……なぜ?もしかしたら、桧里はその方法がどういったものなのかを知っているのかもしれない。それが、とても危険だとしたら?もし、自分達にまで被害が及んで、誰かが傷つくとしたら?そんな方法なら、武瑠だって選ぼうとはしない。もしかしたら、桧里はそれが嫌なのかもしれない。

自分の胸に頭を押し付けている桧里の、その頭に手を乗せる。

桧里は、自分が傷つくよりも、周りの人間が傷つくのが怖いのだ。それは、善妖という人間を護らなければならない立場にある使命感なのかもしれないし、ただ、大切な人が傷つくのが嫌だという気持ちなのかもしれない。桧里にとって、武瑠は特別な存在だ。自分を死の淵から救い出してくれた光であるのだから。その光を失うのは、怖いのだろう。

「……桧里の血を、飲むんだ」

ふと、宗谷が呟く。その声は低く、依然哀しみが含まれたままだ。

その言葉に、首だけ後ろを振り返る武瑠。桧里ははじかれたように顔を上げて、目いっぱい開いた目を宗谷に向ける。

「宗谷、お前!」

涙でぬれた目で睨む。その紅は、まるで獲物を射殺すように鋭い。だが、宗谷は顔を伏せたままあげようとせず、桧里の制止の声を聞く気はないようだ。

「桧里の、血を?」

「ああ、そうすれば……」

瞬間、武瑠の横を何かがものすごい速さで通り過ぎた。そして気付いたときには、それは――桧里は、宗谷を突き飛ばして、そのまま馬乗りになって胸倉を掴んでいた。

一瞬の出来事に頭がついて行かない武瑠。その光景を、ただ唖然と見ていた。

「お前……どういうつもりだ」

これまでにない低い声で、桧里はうなる。

「それを教えるってことが、どんなことかわかってるのか!」

「わかってるよ!」

怒鳴る桧里に負けじと声を張り上げる宗谷。二人の睨みあいは、いつもの狐と犬の口喧嘩とは違う、真剣見を帯びている。

「ならば、なぜ教えようとする!お前は武瑠を犠牲にするつもりか!」

「犠牲って……?」

桧里の発した言葉に、眉根を寄せて陵は問うた。しかし、今桧里にはその疑問に答えてやれる余裕はない。

「んなこと、誰も言ってねえだろ」

「なら、なぜだ!」

「疑問を疑問のままで置いとくのは駄目だと思ったんだよ」

冗談ではない。そう、宗谷の目が語っている。

一度、方法があると言ってしまったのだ。例え今教えなくとも、いつか言わなければならないときが来るだろう。それを案じて、宗谷は苦肉ながらも言おうとしたのだ。

「だからといって……」

胸倉を掴む力が弱まる。それを見て、武瑠は桧里に歩み寄り、後ろから彼女の両肩を掴む。そのまま、自分の方へと引っ張って宗谷の上からおろした。

「桧里。俺、知りたいよ。その方法がどんなに残酷でも、誰かを犠牲にしなくちゃならなくても。少しでも桧里を助けられるなら、桧里の重荷を分け合って一緒に背負えるなら。……俺が役に立てるなら、桧里を助けたいから」

後ろから抱きしめられる。強く、強く。武瑠のその言葉に、桧里は目を見開いて、また涙を流す。自分を抱きしめているその腕に手を添えて、ただぎゅっと、その腕を握っていた。

「…………わかった」


***


「封印呪を解く方法か……」

「うん」

さかのぼること四時間前。宗谷が家を出る前に祖父に呼び止められ、桧里を封印した陰陽師が自身の祖先であったことを知った後のことである。畑仕事に出かけようとした祖父を呼び止めて、宗谷は桧里にかけられている封印呪のことを尋ねていた。

「前にじいちゃんが教えてくれた、かけた本人が解くって方法以外に、何かないかな?」

正直、駄目もとではあった。自分が知る範囲では他の方法なんてものは存在しない。だが、六十代後半で現役の陰陽師である祖父なら、なにか手がかりでも知っているかもしれない。そんな淡い期待を胸に秘めて、祖父の口が動くのを待つ。

「……ひとつだけ、あるにはある」

「え……それ、本当?」

「うむ」

まさか、方法があるとは思わなかった。しかし、それならば渡りに船だ。それが自分でもできるのなら、今日にでも桧里の封印を解けるかもしれない。

そんな希望が胸の内にあった。

「どうすればいいんだ?」

「……封印されている妖怪の血を、人間が飲むのだ」

「……え?」

一気にどん底に突き落とされた気分だった。

「封印呪は人間には効かん。その人間に、呪いのかかった妖怪の血を授ければ、妖怪にかかっていた負担は消え、大抵の術者がかけた封印呪は解かれるだろう」

「で、でも!そんなことしたら……」

「……ああ。血を飲んだ人間は、半妖になる」

お先真っ暗、だ。

半妖とは、文字通り半分妖怪である人間のこと。妖怪の力を授かり、普通の人間とは比べ物にならない力を手に入れることができる。しかし、その体の元は人間なのだから、妖怪に比べれば数段脆いものとなってしまう。その上、母体の血を一定の期間中に飲んでおかないと、半妖は生きてはいけない。放っておけば、そのまま半アヤカシとなってしまい、最終的には自我が崩壊して自分の命を削りながら周りに大きな被害を与えて、自爆する。例えどんな理由があろうとも、半妖になるのはリスクが大きすぎるのだ。

そんなことは、彼らには――武瑠と陵にはさせたくなかった。

「……じいちゃん。それってさ、俺にもできるかな」

うつむいたまま、祖父にそう尋ねる。膝の上で握ったままの拳に力を入れ、祖父の返答を待つ。

「……残念だが、それは無理だ」

そんな言葉に、俺は勢いよく顔をあげて言った。

「どうして」

「お前は陰陽師だ。陰陽師の血を受け継いでいる。その血がある限り、お前は半妖にはなれんのだ。陰陽師の血と妖怪の血は、例えそれが善妖の血であったとしても、互いに拒絶し合う。そうすれば、お前は死ぬだろう」

拒絶。死。その言葉に、顔を歪めていく。

「妖怪の血を拒まない体というのは、陰陽師でも異能者でもなく、本当に、普通の人間だけなのだよ」 

俺でも、陵でも、桧里の枷を外すことはできない。できるのは……武瑠だけ。

でも、そんなこと、武瑠には言えない。言えば、武瑠は自ら半妖になろうとするだろう。それは確信できた。でも、半妖は身体的な影響が大きい。もし、武瑠が桧里の血を拒んでしまったら……命を落としてしまうだろう。

そんな賭けには、乗れない。


***


「俺やるよ」

宗谷と桧里から、封印呪を解くもう一つの方法を聞いて、武瑠はやはり自分がやると言いだした。武瑠のこの性格ならば当然の行為なのだろうが、これだけは皆が反対する。

「お前話聞いてたのか?」

「ちゃんと聞いてたよ」

「だったら!これがどんなに危険なことくらいわかるだろ!もしお前の体が桧里の血を拒んだら、お前死ぬんだぞ!」

「わかってるよ!」

「いいや、わかってないね。それ以前に武瑠、お前半妖になるんだぞ?」

宗谷と武瑠の言い争いに、陵も加わる。もちろん宗谷側だ。

「だから、わかってるって!」

「わかってねえって言ってんだよ!」

三人の怒涛の言い争いに、桧里は少し呆れていたが、これでは話が進まないと思って、突然三人の頭を手で押さえつけて、互いに頭突きさせる。

ごつん!と、鈍い音がなる。とたんに頭部の痛みに苦しむ三人。患部にはすでにたんこぶが見える。

「てめえ、なにすんだよっ……」

「いたい……」

「この、怪力女狐っ」

「話が進まん。喧嘩は終わってからにしてくれ」

「いや、それだと意味無いよ……」

そう言って頭を抱えながら苦笑いする武瑠に、桧里は目を合わせる。

「武瑠。宗谷の言っていることは本当に深刻なことだぞ。お前の体が妖怪の血を受け付けなかったら、お前は拒絶反応を起こして死ぬ。それに、俺の血を飲めばお前は半妖になる。一度なれば、もう元には戻れないんだぞ」

「それでも、俺は……何と言われようと、俺は半妖になるよ」

そのまっすぐな目には、確かな覚悟と決意があった。そのまっすぐすぎる目に、桧里はわずかだが気圧されてしまった。

「……そうか。わかった」

「おい桧里!お前……」

「だが!」

諦めたようにつぶやいた言葉に、まさかと宗谷が口を出すが、それを遮るように言葉を放つ。

「……だがな、武瑠。俺は、お前を半妖にしてまで、封印を解こうとは思わない」

その言葉に、武瑠は目を見開く。

「お前を犠牲にした幸せなんて、欲しくない。だから……」

「だから、諦めろって言うの?そんなの、俺嫌だよ!俺だって、なにも役に立てないまま桧里が一人で苦しんでるの見てて、幸せになんてなれないよ!」

その悲痛な叫びに、桧里は顔を歪める。

武瑠は純粋だ。それでいて頑固で、一度決めたらてこでも動かないほど意志が強い。そんな彼を、きっと諦めさせることなんて無理なんだろう。

そう、思ったときだった。

突然陵が叫んだのだ。

「伏せろ!」

その言葉に、桧里はとっさに武瑠に覆いかぶさる。宗谷と陵もすでに頭を下げていて、すぐに襲った衝撃に身を固くする。

窓ガラスが派手な音をたてて全て割れ、四人に破片が降りかかる。幸い破片はそれほど大きくなく、背中や腕にささるということは免れた。

顔をあげて、襲ってきたモノを見る。そこには、じゃらじゃらと全身に鎖を巻きつけ、落武者の姿をした妖怪がいた。鎖の先にはいくつもの鎌がぶら下がっていて、たぶんさっきの窓ガラスはその鎌で割ったのだろう。

ぶんぶんと鎖鎌をまわし、標的を絞っているように見えるそれは、仏頂面で四人を見ていた。

「あいつは……」

鎌髭かまひげだ」

鎌鬚。もとは落武者だった妖怪だという。その名の通り、ひげの代わりに鎌がわんさかと生えているようにも見える。

「ったく、こんなときに……」

「仕方がない。宗谷」

「ああ」

それだけ言葉を交わして、二人は鎌鬚に向かって行く。武瑠と陵はひとつ隣の部屋へと避難する。室内では鎖鎌は使いにくいだろう。それを利用すればすぐに祓えるはずだ。

そう思い、鎌鬚に近づこうと床を蹴る。だが、鎌鬚が突然振り回す鎌の数を増やした。鎖を短くして、器用に振り回して壁を作っている。まずはこの壁をすり抜けなければならない。

そうは思っても、同じように器用なことはできない桧里は、いつかやったように、その鎌の壁に突っ込んでいった。

「おい桧里!」

下手をすれば腕や首が切り落とされてしまうというのに、一切迷わず突っ込んでいく桧里に宗谷はひやっとした。結局弾き飛ばされた彼女に駆け寄る。どうやら足りない部分はないようだが、腕や頬に大きく裂傷ができていた。そこから流れ出る赤い血に、今は少し戸惑いを感じてしまう。

「大丈夫か」

「ああ。あの壁、少し手ごわいな」

「開けるか?」

「難しいだろうな。少しでも隙ができればやれそうなんだが」

「わかった、なら俺がやつを引き付けておく」

一方に集中してしまえば、もう一方に急に攻撃をされても鎖鎌はすぐには回せないだろう。

今度は宗谷が鎌鬚に迫る。やはり鎌の壁で近寄れず、更には近づこうものならと鎖鎌が飛んでくる。それを避けながらも、部屋の右手に少しずつ誘導していく。再度飛んでくる鎌に、反射的に後ろへ飛んで避ける。すると、その鎌が床にささったまま、強く引っ張っても抜けないような状態になったのだ。それを見て、宗谷は迷いなく錫杖をその鎌へと振り下ろした。すると、緑色の火花が豪快に散って、電撃のように鎖を伝って鎌鬚へと直行する。

一瞬でたどり着いた電撃に、鎌鬚は仏頂面のまま固まった。とたんに振り回していた鎌は動きを止めて床にばらばらと落ちていく(結果的に、宗谷は隙どころか相手の動きを止めたということになる)。

そして、それに飛びかかる影がひとつ。爪を刃のように長く鋭くさせた桧里が、無防備になった鎌鬚に向かって、思いっきりそれを振り下ろした。

切り裂かれた鎌鬚は、落ちていた鎖鎌とともに黒い煙となって跡形もなく消えた。

ふう、と息を吐いて室内を見渡す。窓ガラスは全て割れて破片が床に散らばって、障子や机もぼろぼろだ。室内で戦闘を続けるのは不味かったかもしれない。……いまさらか。

そうふんぎりをつけて、桧里は宗谷とともに武瑠と陵が避難した部屋へと向かう。幸い被害はさっきの部屋だけだったようだ。二人のいた部屋に破損しているものは見当たらない。

「桧里!宗谷さん!」

姿を現した二人に駆け寄る武瑠。その片方がまた傷だらけなのを見て、武瑠は呆れから溜め息をついた。

「もう、桧里また傷だらけじゃん」

「いいんだよ、すぐ治るし」

「だからって、迷いなく鎌に突っ込むなよな。寿命が縮まるかと思ったぜ」

「鎌に突っ込んだのっ?」

「ちょっと狐!それは桧里さんの体でもあるんだからな。もし痕が残ったらどうしてくれんだよ」

「大丈夫だって。一日寝ればすぐ治っているさ」

何故だろう。こんな言いあいをしている時間が、すごく幸せに感じてしまう。さっきまでの言い争いとは違って、ひどく日常的で、平和だった。武瑠が半妖になるということは、この幸せな時間がなくなってしまうということになるのだろうか。それが、嫌だと思った。

ふいに会話が途切れ、武瑠の手が桧里へと伸びた。それに気付くも、武瑠が一体何をしようとしているのかはわからない。ただ不思議そうに武瑠を見上げる桧里は、次に起こったことに、上手く対応できなかった。

後頭部へと回された手によって、逃げることはできなかった。もう片方の手で顎をしっかり固定され、桧里はされるがままだった。鎌で切れた頬から流れる血に吸いついた武瑠。それにようやく気付いた桧里は、抵抗しようとしたが――もう、遅かった。

傷から流れていた血は見た目よりも多く溢れていた様で、すでに武瑠の体内へと取り込まれていた。武瑠を押し戻そうとするが、なぜか上手く力が入らない。武瑠に制止の声をかけても、彼の行動がとまる様子はない。抵抗もむなしく、桧里は武瑠に自分の血を与えてしまったのだ。

次の瞬間。武瑠の体が波打った。

桧里から手を離し、苦しそうな声をあげる。その目がきつく閉じられ、次に開けた時。その目を見て、桧里は驚愕のあまり声を失った。

瞳は紅く染まり、本来白いはずの部分は真っ黒に染まっていた。

「武瑠っ」

やっと出た言葉。しかしそれ以降、桧里は何も言えなかった。

彼女にも、同じような衝撃が襲ったのだ。全身が鼓動とともに波打つような衝撃が走った。左肩が焼けるように熱い。上手く呼吸ができない。視界が黒くなっていく。倒れた武瑠に、駆け寄ることができなかった。

そしてそのまま、二人は意識を失った。


***


次に目を覚ました時、異様に体が軽く感じた。

起き上がってみると、やはり軽い。いつもの疲労感がほとんどないし、鎌髭に受けたはずの傷がすでに治っていた。

「起きたか」

声のする方を見ると、宗谷と陵がベッドの横の床に座っていた。反対側を見ると、そこには眠っている武瑠がいる。まだ、目を覚まさないようだ。

「……どうだ、体の調子は」

恐る恐る聞いてくる宗谷に、体が軽くなったことを伝えると、二人とも表情を明るくしていった。

しかし、左肩がさっきからひりひりして痛い。そこにはあれがあるはずなのだが。

「封印呪。どうなったの」

今度は陵が尋ねてくる。俺はその言葉にとっさに左手に力を入れた。握りこぶしになったそれをゆっくりと持ち上げて、恐る恐る開く。

なにも、言えなかった。

ただ、また涙が溢れそうだった。

そんな俺の様子に気づいた宗谷は、左手をとって広げる。

そこには、封印呪が刻まれたままだった。

「……嘘、だろ……」

「どうして……」

宗谷の祖父が言っていたことが本当ならば、武瑠が桧里の血を飲んだ今、封印呪が解けているはずなのに。それはまだ刻まれたまま。

武瑠がやったことは無駄だったのだろうか。ただ彼が半妖になってしまっただけ、自分は何も変わらないままなのだろうか。ひどく、虚しかった。

「……かい、り……?」

視線を向けると、寝転がったままこちらを見上げる武瑠。その目は元の色に戻っていたが、少し疲れているように見える。これも、半妖になった影響だろうか。

「武瑠。大丈夫か?」

「……うん」

そう言って起き上がろうとするが、うまく力が入らないようだ。背中に手を回して起こしてやると、途中からは自分で起き上がれていた。回復が早い。武瑠自信まだ自分の体の変化がわからないようだが、実際彼から妖気は出ている。量も少ないし、覇気もないが、確かにそれは妖怪のものだ。

「どうなったの?封印呪は……」

その言葉に、三人とも表情を暗くする。桧里は武瑠に見えるように左手を開いた。

「……今のお前なら、見えるだろう?」

それに視線を落とした武瑠は、目を見開いた。今まで見えなかったものが見えた高揚感と、そこにあるという事実に、武瑠はしだいに目を伏せた。

「そっか……。駄目だったんだ。俺、役に、立てなかったんだ」

武瑠の涙が桧里の左手をぬらす。桧里は手はそのままで、武瑠を抱きしめた。

「確かに、完全に解くことはできなかった」

右手で武瑠の背中を撫でて、落ち着かせようとする。桧里のその言葉に反応した宗谷は、伏せていた顔を上げた。

「完全に?それ、どういうことだ」

次に出た言葉に、武瑠は思わず顔をあげる。

「封印呪は解けたよ」

「え?」

桧里のその言葉の意味がわからなかった。

「でも、まだ残って……」

「ああ。左手の方は力が強かったから解けなかったんだろうな」

「言ってる意味が、わからないんだけど……」

呆然と、桧里の言葉を耳に入れるが、頭がついていかない。

「武瑠。お前と初めて逢ったときに言わなかったか?俺の体には、二つの封印呪がかけられているんだ」

「え」

そうだったっけ?

必死に記憶を辿ろうとするが、頭が混乱していてさっぱり思い出せない。

「ここに……」

言いながら、桧里は襟をずらして左肩をあらわにする。その行為に武瑠と宗谷が顔を赤くするが、桧里はまったく気にしない様子でつづける。三人に見えやすいように肩の部分を見せると、そこには封印呪の形を描いた火傷の痕が残っていた。

「手のものよりは大きな封印呪が描かれていたんだ。だが、それはこうしてなくなっている」

そう言って襟を戻すと、桧里は武瑠に向き直って言う。

「成功したんだよ。ありがとう、武瑠」

その言葉に、いつの間にか止まっていた涙が、また堰を切ったようにあふれ出した。そのまま桧里に体をあずける武瑠。背中に腕を回しているあたり、しばらくは離してくれそうにない。

「よかった……よかったよぉ……ううっ」

完全に解くことはできなかったが、それでも、桧里の重荷が少しでも減ったのだ。武瑠にとっては、それだけでも満足だった。

「桧里」

「ん?」

ふいに宗谷に呼ばれる。その顔は、まだこわばっている。

「お前、本当に二つの封印呪がかけられてたのか?」

「ああ。さっきからそう言っているだろう」

「……そうか」

「どうしたんだ宗谷。何かおかしいことか?」

「……普通は、封印呪を二つかけることはありえないんだよ」

「ありえない?」

「ああ。うちのじいちゃんでも封印呪は妖怪一体につき一つしかかけられないんだ。なのに、お前の体には確かに二つ刻まれていた。それに、左手のは消えなかった」

つまりは、柴ノ木一族にあって、鴻上陰陽術にはない力があるということ。血を分かつことで片方は消えたが、もう片方は消えなかったこともそうだ。もし、二つの封印呪が、それぞれ封印しているものが違うのだとしたら?桧里が目覚めた時、彼女がまとう妖気がはるかに増していたことが嫌にでもわかった。もし、左肩の封印呪が彼女の膨大な妖気を抑えていたのだとしたら、さらに強力な力で抑えられている左手の封印呪は、一体何を封印しているのだろうか?

考えてみると、なぜか寒気がした。夏だというのに。

自分の悪い予感が当たらなければいいが。そう思いながら、ふと泣きじゃくる武瑠とそれをあやす桧里を見て、そんな考えがなんだかどうでもよくなってしまった。今は、とりあえずこの四人で笑えていればそれでいい。それで、幸せだから。



(第六話 半 終)

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