第四話 害(そこない)
***
「私」が初めて生まれたとき。
そこは、霧の濃い林の中でした。私の前に赤い鳥居がたっていて、私の後ろには鳥居と同じ色をした小さな社がありました。
私は、そのときはまだ三歳にも満たない幼児で、社の中に光るなにかがあるのを気にも止めず、それよりももっと不思議なモノ達に興味を抱きました。たくさんいるのに、どの人にも足がなく、どことなく透けていて、宙に浮いているんです。
それは……それらは、ちょこんと座り込んでいる私の周りをぐるりと囲んで、私に微笑みを向けました。
それらは言いました。自分たちは「幽霊」という存在だと。そして私が「妖怪」という存在だと。私は彼らの言っていることがわかりませんでした。なんせ、年端もいかない子どもだったから。
でも、それら――幽霊たちが嘘をついているようには思えませんでした。なぜかはわかりません。でも、そう思ったんです。今考えると、たぶんそれは子どもなりに何かを感じ取ったんだと思います。
そして、幽霊たちは多くは語らず、私の手を引いて歩き出しました。
幼い私は彼らに尋ねました。
「どこにいくの?」
すると彼らは、私のほうを見て言いました。出雲に行くんだよ、と。
また、私は尋ねました。
「『いずも』ってなに?」
彼らは、土地の名前だと答えました。
「『とち』ってなに?」
彼らは、今から行く場所のこと、それから今私が踏みしめている地面のことだと答えました。
それをきいた私は、自分が歩んでいる地面を見下ろして、同じ場所を何度も踏んだり、飛び跳ねたりしました。
「ねえ、ゆうれいさん。どうしていずもにいくの?」
彼らはこう答えました。
「そこに、君を守ってくれるものがあるから」
***
夏休みに入って四日目のことだった。
その日は、相変わらずいい天気で、洗濯にはもってこいの日和だった。蒸し暑い気候はまだやむ気配を見せず、洗濯物を干す桧里の額にも汗がにじんでいた。まだ辰の刻をすぎたころ(つまり朝の八時以降)、武瑠のベッドから布団をはがし、広い庭に立っている物干し竿にかけてほこりをはらい、それに続いて洗濯物をその隣にかけ終わる。一息ついた桧里は、洗濯かごをもって家の中に入ろうとする。
そのとき、縁側から走ってくる足音が迫ってきた。そちらに目を向けると、慌てた様子の武瑠がすぐに姿を現した。それに、どうかしましたかと声をかけると、
「どうかって…桧里さん、洗濯物は俺がするって言ったでしょ!それに、近所の人に見られたらどうするの!」
と、怒られてしまった。
瞳の黒い――人間の桧里は、住まわせてもらっているのだからと自分から家事炊事をやると言いだしたのだが、家の外にでるものは人目があるからダメだと武瑠に言われていた。
「……すみません。でも、何かしていないと気がすまなくて…」
あくまで桧里は善意で行っている。武瑠はそれをよくわかっているし、正直かなり助かっているのだが、もし妖怪の桧里の姿を見られてしまったらと考え、せめて洗濯だけは、と桧里にたのみこむ。すると、それを了承する桧里。ひとまずは大丈夫そうだ。
そのとき、桧里の背後にせまる人影があった。
それはゆっくりと桧里に近づき、すぐ後ろに来たと思ったら、一拍置いた後に彼女の背中に飛びついた。
「きゃあ!」
なんとも女の子らしい悲鳴をあげる。突然の事態に驚いて、持っていた洗濯かごを地面に落としてしまう。後ろから飛びついた(正確にいうと抱きついた)人物はそれを気にも止めず、桧里の悲鳴とは対照的な猫なで声をあげる。
「かーいーりーさん!逢いたかったよ~!」
そう言って幸せそうに頬を緩めるのは、昨日アタック宣言をしてきた陵だ。自分が変態だと爆弾発言をした本人は、それを裏切らずに早くもセクハラ行為をしている。それを見ている武瑠は、陵が門をくぐった時点ですでに気づいていたのだが、彼の何かを企むような顔を見て、「なんかしでかすなこいつ」と察し、あえて何も言わずにいた。それは陵の桧里に対する想いをわかっているからという理由が一つと、陵の企てを失敗に終わらせるようなことをすれば、あとから彼に何をされるかわからないのが一つだ。まあほとんどは、とばっちりを食いたくないという思いからである。
陵に抱きしめられているとわかった桧里は、顔をゆでダコのごとく赤く染め、気絶した。異性との免疫がない彼女にとっては、相当なことだったようだ。陵はそれに気づかず、力の抜けた彼女の体をいまだに抱きしめ、今度は頬ずりをしている。
さすがにもう止めたほうが良いのでは?と思ったが、武瑠が声をかけるより前に陵の背中に何かがぶつけられた。その瞬間に、キンッという音。
小さい痛みで声をあげる陵。その後ろに立っていたのは、錫杖を手にした宗谷だった。
「なにするのさ宗谷さん!」
「気絶してんぞ、伊駒」
「えっ?ああー!桧里さんー!」
ぶつけたというよりかは、当てた、もしくはどついたのほうが正しい表現かもしれない。まあ、今はそんなことよりも陵はようやく気づいた気絶の件に夢中である。
そして時間は過ぎてゆき、今はちょうど正午。気絶から目を覚ました桧里をふくむ四人は、武瑠の家を離れて、近くにある商店街に向かっていた。
それは桧里が目を覚ましてすぐのこと、陵の発言が元だった。陵が、桧里の着ている服について指摘したのだ。武瑠の服を着ている、と。それに武瑠は当然のように言葉を返したが、陵はそれを許さなかった。誰でも、思い人に自分以外の男の服を着て欲しいとは思わないだろう。それを了承した武瑠。しかし、桧里の服といえば、彼女を拾った日に着ていた一着しかない。ずぶ濡れだった服はすでに乾いてはいるが、一着しかないのはあまりよろしくないだろう。と、考えたすえ、買いに行こうということになったわけだ。
人間の桧里のままでは陵によるセクハラまがいのスキンシップによって気絶を繰り返すだけということで、宗谷の提案で数珠を身につけた桧里。武瑠は彼女の瞳が紅いことを他の通行人が不審がらないかと懸念していたが、桧里は気に止めず、周りの景色を楽しんでいた。とは言っても、ただの田舎の道だ。面白みのありそうなものはほとんどない。だが、桧里にとっては新しいことがあふれているのだ。
「そんなに楽しい?桧里さん」
フードをかぶり、できるだけ紅い目が目立たないようにしていても、彼女から出される楽しげな雰囲気はすぐにわかった。
「あぁ、すごく楽しい」
「ただの田舎のど真ん中に、楽しい要素なんてねえだろ」
桧里の声は本当に嬉しげで、それをきいた宗谷も嫌な気分にはならないが、本当に田舎だ。さっきも言った通り、楽しそうなものなどない。
「そんなことはないぞ。俺にとっては『田舎』というもの自体初めてだからな」
「え、そうなの?」
彼女の言葉に耳を疑った。もしかして桧里は、都会っ子なのか?という疑問が武瑠の脳をよぎる。
「生前、俺はずっと雪山に住んでいたからな。すみかを移す機会もそんなになかったし、人里には一度も降りたことがなかった。それは死んだあとも同じ。白狐は秘宝からあまり離れることができない。人が来るのは絶えなかったが、俺が動くことは一度もなかった。だから、人が住む場所というのは、俺にとってはどんな所でも新しい」
「そうなんだ」
「狐にとっては新しくても、桧里さんにとってはこの景色は普通なんだからさ、そんな風に桧里さんの体で心底楽しそうな雰囲気かもし出すのやめてくれるかな狐」
機嫌が悪そうにばっさり言い放った陵。相手が自分の好く人物でなくなった瞬間これだ。まるで対応が違う。しかし、当の桧里はそんな言葉に耳を向けずに、今度は塀の上で横になっている猫に夢中だった。
「桧里さんって猫好きだよね。ミルクもすっかりなついちゃったし」
武瑠が飼っている白猫のミルク。放浪癖があって猫らしいが、寝るときは必ず武瑠のベッドにもぐり込んでくる。夏といっても夜はある程度冷えるため、ぬくもりを求めてくるのだ。まるで桧里のように。
そんな絵を連想させ、武瑠は桧里を見て笑った。
「……武瑠」
「え?」
いまだに機嫌が悪そうに言う陵。
「いい加減区別つけない?」
「区別ってなんの?」
「桧里さんと狐の。特に呼びかた!」
その発言に武瑠は「唐突になんだ」と、顔で言う。
「宗谷さんもだけどさ、桧里さんと狐の区別つけとかないと、読んでる方もわからないんだから。今はどっちなんだろうって考えるでしょ?毎回毎回瞳の色が紅か黒かって言うわけにもいかないしさ」
読んでるほうってなんだ?という疑問はあえて触れず、じゃあどう呼べばいいの?と武瑠は陵に尋ねる。
「例えば、瞳が黒いときは今までどおり『桧里さん』で、紅いときは『桧里』とか」
「よし、それでいこう」
「即決めかい」
そうツッコミを入れたあと、今度は宗谷を見る陵。
「…なんだよ」
「言ったでしょ、宗谷さんもだって。で?どうするの」
「俺に聞くなよ」
宗谷は、八咫烏の襲撃以来、桧里のことはどちらも「伊駒」と呼んでいる。まあ、口喧嘩をするときは大抵「女狐」に変わるが。
「んなの別にどうでもいいだろ…」
「どうでもよくないから言ってんだろ」
「呼びかたなんていちいち…」
「よしじゃあ狐のときは名前で呼ぼう。武瑠と同じ『桧里』ね。よし決定」
「おい」
「いいよね?」
有無は言わさない。と顔に書いてある陵。
「ね?」
「…………」
「ね?」
「わかったよ好きにしろ!」
無言の抵抗のすえ、結局折れたのは宗谷だった。こういうときの陵は怖い。
そんなこともあり、道中退屈はしないで商店街についた四人。早速、武瑠がよく来る服屋に入り、普段は見ないレディースのコーナーに向かう。桧里自身に服のセンスはほとんどないため、ここは男三人が選ぶ。が、他にも女性客はいるので、なかなか周りの目があり選びにくい。
だが、桧里のために、服選びを何とも楽しげにする者が一人いた。いわずもがなそれは陵なのだが、「他人の目なんてどうでもいい。自分にとっての一番は桧里さんだから!」と、平気で言いそうな雰囲気でルンルンと服をあさっている。さっきの機嫌の悪さはどこへやった。
ある程度服を集め、それを桧里に渡す。が、渡されても何をすればいいのかわからないため、桧里はただ首をかしげた。
「着てみて。サイズがあってるか確認しないと」
頭上にハテナを浮かべる桧里にそう助言する武瑠。それに従い、桧里は試着室に入ってカーテンを閉めた。
あとは待つのみ。といったふうに力を抜く武瑠と宗谷。とは言っても服を選んだのはほとんどが陵だが。
三人が試着室の前で待ち、中では桧里がせっせと着替えている、その時だった。
「あり?武瑠に宗谷に陵まで、お前らこんなとこで何してんの?」
ぎくり、とした。
声がしたほうに目を向けると、そこにはよく知ったクラスメイトがいたのだ。
「ま……祀?」
「よう武瑠」
「ど、どど、どうして、ここに?」
異様な慌てっぷりに宗谷が小さく「どもりすぎだ」と言って小突く。
「どうしてって、服屋にいるんだから、服買いに来たに決まってんじゃん」
「お、俺たちも、そうなんだよ」
「へ~、男三人でむさっ苦しいな」
そう言って楽しげに笑うのは、陵をのぞく三人と同じクラスの男子、信楽祀だ。かなりの剽軽者でムードメーカー的存在。クラスの中で押しの強さとアホさ加減は一番だが、根はいいやつだ。
「つーか、なんで宗谷くんと武瑠くんはそんなに傷だらけなの?」
祀は二人を見て心配そうに声をかけた。昨日陵も疑問に思ったが、後で妖怪に襲われたことを聞いたので、その原因はちゃんと把握した。
「え?あ~いや、ちょっと、ね」
「ちょっとってなによ、ちょっとって」
だが、祀は妖怪を知らないただの一般人――人間だ。妖怪に襲われたんだ、なんて口が裂けても言えないし、言ってしまうともしかしたら祀が妖怪に狙われてしまうかもしれない。決して言ってはならないのだ。
「転んだんだよ」
悪びれもせずに真顔で言い張る宗谷。祀は彼に疑いの眼を向ける。そりゃあそうだ。包帯だらけの人に「これは転んでできたんです」なんて言われても、なんの説得力もない。誰が聞いても嘘だとわかる。
「うっそ~ん、んなわけないでしょお」
「…………」
無言の抵抗再び。というか、今回はどうしても引けないため、宗谷はこれ以上触れるなオーラを圧力にかえて祀にかける。
「へ~そっか~転んだのか~!まったく~二人ともおっちょこちょいだな~!」
どうやら効き目は抜群のようだ。冷や汗が祀の額を流れているのは、きっと気のせいではないだろう。
ちなみに、二人よりも傷の多さがダントツだった桧里は、昨日の時点ですべての傷が消えていた。朝起きてみたら、いつのまにか傷がなくなっていたのを武瑠は見ている。その時に聞いた話では、妖怪は人間と比べると自然治癒の力が強く、普通ならすぐに治ってもおかしくないそうだ。その治癒力の源は妖力なので、それ自体をほとんど封じられている今の桧里は、一瞬で治すのは無理だが、早ければ一日で治るという。
「なあ、武瑠んちって、今家誰もいないんだろ?」
話を変えて、今度は武瑠に問い始める祀。
「ああ、うん」
両親が夏休み中に旅行に行くことは、何人かに話した覚えがある。祀もその一人なのだろう。
「じゃあさ!今からみんなで武瑠んち行こうぜ!」
「えっ!」
二度目のぎくり。困ったように驚く武瑠を見て、祀は疑問を抱く。
「いいだろ~?別に。誰もいないんだったら、迷惑かけることもねえし!」
「え、えと、いや…それは…」
「ええ~!ダメなのかよ!」
「……いや、その」
嘘をつけない武瑠には、この場をうまく逃げることはできない。そこで、らちがあかないと感じた陵が助け舟をだす。
「今、武瑠の親戚が来てんの。だから家は無理だよ」
彼の言葉に武瑠は「ナイス陵!」といった表情になり、なんとか誤魔化して祀を諦めさせることに成功した。ほっとしたように一息つく。
「ちぇ~、つまんねえな~夏休みだってのに。こうなりゃ、いっちょナンパでもしてこようかしら」
ふざけたようにそう言って、祀は武瑠たち三人に別れを告げ、店を出て行った。嵐が去ったかのように力を抜く武瑠。嘘も方便というか、人を騙すのはあまり好きではないのだが、この場合はしかたない。
「ったく、中学生がナンパとか何言ってんだか」
「まあいいじゃん、桧里さん……じゃなかった。…えっと、桧里もバレなかったし。今家に来られるのは無理だし」
今というか、桧里がいるときはずっとだ。そう心のなかでつけたしておく。
「武瑠~」
すると、着替えがやっと終わったのか、カーテンの向こう側から桧里の声がする。
「終わった?」
「あぁ」
カーテンが開けられ、陵が選んだ服を身につけた桧里が姿を現す。白のシフォンチュニックにサブリナパンツ。清楚で女の子らしい服をまとう桧里を見て固まる宗谷。笑顔で似合っていると言う武瑠に、何かを思いついたように桧里に近寄る陵。彼女の左腕を掴んだと思うと、それぞれ違う反応を示す二人に尋ねる。
「ねえ、これはずしていい?」
これ、といったのは、桧里の左手首についている数珠。
「ダメに決まってんだろ」
「でもさあ、はずしたって周りにはバレないでしょ」
「ダメだ、お前がセクハラして気絶するのが目に見えてる」
自分の思い人の状態で、可愛らしい姿を見たいがために駄々をこねるも、ダメの一点張りで諦めるしかない。
「別に今じゃなくても、帰ったら着替えてもらえばいいじゃん」
「……ちぇ~」
絶対ファッションショーしてもらうから、と心に決めて、陵は渋々諦めた。
「武瑠、これはどうすればいいんだ?」
桧里の背後にある、結構な量の服たち。それを見て武瑠は苦笑した。
「とりあえず全部着てみて。きつかったり、動きにくい服はよけといてくれればいいから」
「わかった」
うなずいた桧里は、再びカーテンを閉めて着替えに取り掛かる。服の量が量なため、しばらくはかかりそうだ。
その間三人はぼーっとするわけでもなく、再び服選びにとりかかる。私服はあれで十分だろうから、あとは寝間着と下着だ。
「寝間着はいいとして、さすがに下着は選べないよ」
「あたりまえだ!」
思春期まっさかりな中学生三人には、やはりそれはきついようだ。ただ一人をのぞいては。
「そう?じゃあ僕が選んでいい?」
「アホかお前は!」
「え~?だって、宗谷さんも武瑠も選ばないんでしょ?だったら、僕が選ぶしかない」
「お前の思考はどうなってんだよ!ちったあ恥を知れ、恥を!」
顔を真っ赤に染めて怒鳴る宗谷に、武瑠も賛同する。いくら桧里のことが好きだからといって、彼女の下着を普通に選びはじめるのはどうかしている。
「ていうか、サイズも知らないでしょ?」
「サイズって?」
「……む…胸の」
「あ~。桧里さんはCカップだよ」
「…………へ?」
爆弾投下。
いかにも「そんなの知ってて当たり前じゃん」というような態度で、陵はさらっと彼女のバストサイズを言ってのけた。いくらなんでも、これを知っているとなると悪寒が走る。
「なんで知ってんだよお前は!」
胸ぐらを掴んで大きく陵の体をゆする。身長差が約三十センチあろうが、この際関係ない。
「朝、抱きついた時に確認したんだ~」
「…………お前、最低だな」
「どうとでも言うがいい。知った者勝ちさ」
その時の陵は今までになくいい笑顔をしていた。
***
服を着るよう、武瑠に言われた桧里は、初めて見る形の服に奮闘していた。どう着ればいいのかは大体わかるはずなのだが、どうもうまく腕が通せない。この着方で本当に合っているかどうかも不安ではある。
ようやく袖に腕が通ったとき、桧里は奇妙な気を感じた。こちらに近づいて来るようだが、いまいちはっきりとしない、不安定な気だった。どことなく妖気に似ているのだが、やはりはっきりとしないため、妖怪だとも言い切れない。
すると、カーテンの向こう側から武瑠たちと会話をする、初めて聞く声がした。誰か知り合いが来たのだろうかと思って、特に気に止めず、今度はサブリナパンツにとりかかる。足を通し終わるころには、すでにさっきの人物は去っていたようで、武瑠に声をかけ、カーテンを開ける。
三人の反応からして、どうやら着方は合っていたようだ。固まった宗谷はほおっておくとしよう。
再び、武瑠から指示がかかる。今度は自分の後ろに積まれている服を、すべて着てみろということだ。自分にとって、果てしない作業だな。と感じながらも、カーテンを閉めて服を脱ぎ始める。
それからカーテンの向こうから騒がしい声が聞こえたが、黙々と服を着脱していった。
***
ようやく衣類を購入して一段落着いたころ。時刻はすでに申の刻をゆうに回っていた。まあつまりは、日が沈もうとしているということだ。
服屋から出た四人は、購入した大量の衣類を手に、商店街の一角にあるベンチで休憩をとっていた。自動販売機で買った缶ジュースを飲みながら、外の空気を吸う。どの店でも、大抵は固有のにおいがあって、外とはだいぶ違う。外に出たときは、空気が澄んでいる気がしてもおかしくない。
四人とも缶をカラにして、さあ帰ろうかというときに、それは起きた。
「火事だあああ!」
そう叫ぶ男の声。
焦ったような声色からしても、緊迫していることがわかる。
四人はその声がしたほうに向かい、少し進んだところに人だかりを見つける。その向こうには、二階の窓から火を吹き出す家があった。
轟々と燃え盛る炎は、家をのみのこんで、しだいに範囲を広めようと一階に広がりつつあった。もうこの状態では、手がつけられないだろう。火事は初めて目にするが、炎から立ちのぼる黒い煙は、毒々しさと恐怖を表しているようだ。
消防隊が到着し、炎に直接水がかけられる。だが、炎は勢いを弱めず、それどころか悪化しているようにも見える。
これじゃあいつ消火できるかわからない。
その時、炎が吹き出す窓から、何かが飛び出した。
白い、馬のような。たてがみや尻尾の部分が赤くゆらゆらとしていて、まるで炎のような動きをしている。かなり大きい。普通の馬よりも一回り大きく見えるそれは、どうやら周囲の人には見えないようで、それが出てきた時にも、人だかりの中には反応を示す者は誰ひとりといなかった。しかし、桧里と宗谷にはそれが見えた。
「あれはっ?」
「妖怪…じゃ、ないようだが」
「え?なに、なにかいるの?」
武瑠の反応からも、あれが人には見えないことが確認できる。
「あいつから、霊気を感じる」
「あぁ、どうやらあいつは、悪霊のようだな。…それも、動物の」
死してなお、何かに対する怨念、憎悪、嫉妬が強いと、幽霊は悪霊へと変化する。少しでも強い力を求めて、人を襲う。それは、動物の霊でも同じこと。人型の霊は話すことができるが、動物は命を失っても動物。会話をすることは不可能だ。そんな悪霊をどうにかしなければ、最悪死人が出る。
そんなことはあってはならない。
「どうする?祓うか」
「いや、悪霊の状態ならまだ間に合う。成仏できるならそっちのほうがいい」
悪霊でも、霊は霊だ。怨念や憎悪をはらってやれば、成仏させてやることもできる。できるなら、妖怪のように祓うよりも、そっちのほうがずっといい。
馬の悪霊――炎馬は、炎のたてがみをゆらし、空を蹴って走り出す。
怨念が強ければ、それに反応して悪霊の炎が実現することがある。おそらく、あの火事は炎馬が原因なのだろう。そうとなれば、急がなければならない。また他の家で被害が出る前に、炎馬をどうにかしなければ。
桧里と宗谷は走り出し、炎馬を追う。向かう先には、山がある。
「山に向かっているのか?」
「それならそれで良い。人がいない場所に追い込むぞ!」
そう言うと、桧里は地面を思い切り蹴って、民家の屋根に飛び乗る。屋根から屋根へとわたっていくうちに、少しずつ炎馬との距離を縮めていく。その反対側から、宗谷が同じようにして炎馬をはさみ、山に誘い込む。
苦しげな悲鳴をあげながら炎馬は走り続け、山の麓まで来たと思ったら、今度は急斜面を登り始める。炎馬は浮いているため難なく進むが、地に足をつけている二人は明らかに不利だ。すぐに距離が離れてしまう。
これではダメだと思い、桧里はまた地面を蹴る。今度は、炎馬を捕まえようとするが、動きが速く、なかなか触れられない。
林の中を駆ける。すると、炎馬が突然木に体当たりをし始めた。前方に現れる木に向かって、何度もたてがみを押し付けるように体をぶつける。
「自分の炎で燃やそうってか」
そうはさせないといわんばかりに、桧里の渾身の蹴りがようやく炎馬に直撃した。宙に飛び出し、真上から足を振り下ろすようにしたそれは、いわゆるかかと落としだ。
それが効いたようで、また苦しそうな悲鳴をあげる炎馬。すると、地面に着地した桧里に向かって、大きな口をあんぐりと開ける。その瞬間、炎馬の口から炎の柱が勢いよく吹き出してきた。とっさによけるが、少し肩の部分にあたってしまったようだ。服が黒くこげ、隙間から爛れた肌が見える。
このままではらちがあかない。すきをついた炎馬はまた走り出し、木に体当たりを繰り返す。いつ山火事が起きてもおかしくない状況だ。
せめて、炎馬がなにに対して恨みをもっているのか、もしくはどんな怨念から悪霊となったのか。それがわかれば成仏させることが可能なのに。
そのとき、宗谷の脳裏に陵がかすめた。
そうだ、あいつなら。陵の異能をうまく使えば、炎馬の生前の記憶を取り出せるかもしれない。そう思い立ち、宗谷は桧里に向かって叫んだ。
「桧里!」
「なんだ」
「陵だ!陵の力を使う」
「……なるほど。わかった。俺はこいつをなるべく引き止めておく。そのうちに」
「ああわかってる」
言い出すと同時に来た道を戻り出す。武瑠と陵もこちらに向かってきているはずだ。山を下りながら、辺りに目を配ると、二人がこちらに来ているのが見えた。宗谷も急いで二人のもとに行き、おそらく火事の原因である炎馬の出現をはなす。
「なるほど。その悪霊の記憶を見ろってゆうんだね」
「ああ。今は桧里が足止めをしている。なるべく早く終わらせねえと、いつ山火事が起きるか分からない」
「山火事…」
不安げにいう武瑠に、宗谷が安心させるように言う。
「大丈夫だ。そんなことが起きないように、今桧里が踏ん張ってる」
桧里のもとへ走りながら、炎馬から刻の玉を採る方法を尋ねる。
「悪霊は僕の目には見えないから、当然直接触れることもできない。こういう時は、間接的に採るんだ。昨日やったのは物だったけど、今度は宗谷さんか狐のどちらかが、僕とその炎馬の仲立ちになるんだ。そうすれば、間接的に刻の玉を採取できる」
「仲立ちってのは、何をすりゃいいんだ」
「特に難しいことはない。ただ、対象に触れてさえくれればいいんだ。それか、炎馬から直接攻撃を受けた場所とか、それでも刻の玉は採れるよ」
陵の説明に宗谷はなるほど、と相槌を打つ。
そうこうしているうちに、桧里のいた場所まで戻ってきた。だが、そこには桧里も炎馬もいない。木が何本か倒されていて、そのうち焼けた跡があるものや、燃えている最中のものまで有り、ここで激しい戦いがあったことを物語っている。
三人は桧里を探した。まだそんなに離れてはいないはずだ。
その時、頭上から悲鳴が聞こえる。苦しそうな、鳴き声。
宗谷はとっさに上を見上げると、空を蹴って走る炎馬と、そのすぐそばに木から木へと移動しながら確実に炎馬に攻撃を当てる桧里の姿があった。
「あそこだ!」
「桧里―!」
自分の名を呼ぶ武瑠の声が届いたのか、こちらに目を向ける桧里。しかし、炎馬はそのすきを見逃さなかった。視線をそらした桧里にむかって体当たりをしてきたのだ。突然すぎて対処しきれなかった攻撃は、重力に逆らえず、桧里の体は地面に叩き落とされた。
「桧里!」
すぐさま駆け寄るが、桧里はいたって平気そうな顔で「大丈夫だ」と言った。
「大丈夫なわけないでしょ!」
「大丈夫だって」
「でも…」
「とりあえず、陵頼んだ」
武瑠の言葉を遮って、宗谷は刻の玉を優先する。宗谷の言葉にうなずいて、陵は片手を桧里の肩――さっき炎馬の炎を受けて火傷した部分――に手を当てる。少し経って、陵の手が肩から離れたと思うと、彼の手には赤黒く濁った色の刻の玉があった。
「なんだ、この色は…」
「ちょっと待ってね」
空いているほうの手で、ズボンのポケットから銀色の懐中時計を取り出す。慣れた手つきで上蓋を開け、歯車がむき出しの刻盤の上に、採取したばかりの刻の玉を落とした。刻盤に触れるより前に、刻の玉は吸い込まれてそこから波紋のようなものが広がる。
その瞬間、陵の周りにいくつもの刻盤が浮かび上がる。
カチカチ、カチカチ。
たくさんの刻盤の針の動く音が、陵の頭に響く。次第に、意識が刻盤に吸い込まれていく。
頭にいくつもの映像が流れ込む。炎馬の、生前の記憶。
戦。戦場。甲冑をまとった何人もの人間。馬に乗った人間。死んだ人間。死んだ馬。見えた記憶はそんなものばかりだった。どの記憶でも、戦による殺し合い。
機動力である馬は、戦に巻き込まれて死ぬ。死んだとしても誰も気に止めない。躊躇なく踏み越える者がほとんどだ。馬は死ねば大きな障害物でしかない。戦場の人間にとっては、ただ、それでしかないのだ。
最後に見た記憶は、自分が自分にのっている人間の操作で、炎の中に突っ込むものだった。乗っていた人間は自分を踏み台にして上に登っていく。自分には逃げ道がない。そのまま炎の中で焼かれ死ぬのを待つだけだったのだ。
そこで急激に意識が戻され、今見た記憶を思い返すと吐き気を覚える。
「……陵、大丈夫?」
心配げな面持ちで、自分をじっと見る武瑠。その瞳が、今はとても心地よく感じる。
「……うん。大丈夫」
「そっか、よかった」
武瑠の純粋さには、これまで何度か救われたことがある。今回もなんだか助けられた気分だ。だから、武瑠を助けてやりたいと思える。
「どうだった?炎馬の記憶」
「……ひどい記憶だよ。これまでにも血にまみれた記憶は何度か見たことあったけど、今回もひどい。…怨念は、人間に対して。あの炎馬は、生前戦馬だったみたい。何度も戦に駆り出されて、最終的には炎に包まれて焼け死んだ。だから……きっと、人間にも自分と同じ目に遭わせようとしてるんだと思う」
あの刻の玉の色は、燃え盛る炎の赤、そして人間に対する怨念の黒が混ぜられていたのだ。
「……なるほど」
「戦馬か」
「…炎馬は、どこに行ったの?」
周りが静かなことに気づき、武瑠は炎馬の行方を尋ねるが、桧里を地面に叩き落とした時には、すでにいなくなっていたという。だが、桧里は言った。
「大丈夫、あいつはまたここに来るさ。今は興奮しているんだろう」
「…え?」
あまり、彼女の言っていることがわからなかったが、その時、二人の耳をつんざく悲鳴が聞こえる。あの、苦しそうな鳴き声。炎馬が来たのだ。
「……来たな」
「あいつは、きっと優しい馬だったんだろうな」
「どういうこと?」
陵が尋ねると、桧里はあの苦しそうな鳴き声をさした。
あの悲鳴は、死んだときの記憶を思い出している証拠。そして、それと同時に、あの醜い人間たちのように、自分も復讐心に駆られてしまい、罪のない人間を苦しめてしまった。それに嘆いているのだろう、と。
だから、倒されに来た。祓われに来たのだ。自分から。
自分のことが見えている存在。自分に傷をつけることができる存在。それを、やっと見つけたのだろう。だから、戻ってきた。
「安心しろ。お前を祓ったりはしない。成仏させるには、邪心を取り除かなければならないが、今のお前に邪心はない。だから、安心して成仏しろ」
空を駆ける炎馬に向かってそう言って、宗谷は小さな鐘を取り出す。
持鈴と呼ばれるその鐘の音は、霊を成仏させる力があるという。
チリン、チリン、と心地の良い音が周囲を満たす。
それは炎馬にも届いたようだ。炎馬は最後に一度いななき、光に包まれて消えていった。
***
「どうして、幽霊なんて存在するんだろう」
「え?」
翌日、午後からの部活を控えた陵が、武瑠の家を訪れていた。昨日と同じように桧里に抱きついて気絶させてしまったあと。ふと、武瑠がつぶやいたのだ。
「……さぁ~、そういう論理的なことは、専門家である宗谷さんに訊くべきでしょ」
「そうだけど。ただ、ちょっと疑問に思っただけだもん」
「あぁ、さいですか」
呆れたように、もしくは諦めたようにそう返事をする。
武瑠のふとした疑問には、これまでにも何度か付き合わされたことがある。が、どれもどうしようもないことばかりだ。今回みたいに、答えが見えなさそうなものにばかり疑問を持つのだ。いつも。
「……あ、でも。僕は幽霊がなぜここに残るのかはわかるよ」
「どうゆう意味?」
「霊としてこの世に残ってしまったのには、必ず理由があるって意味。例えば、残された家族が心配で、とか。未練が残ったまま死んでしまったり。先のことがきになったり。まあ、理由は人それぞれだけど、共通点があるのわかるか?」
「え?……えーっと」
陵の話を思い返すが、そういうクイズはあまり得意ではない。頭を悩ませる武瑠を見て、陵は笑った。
「答えは、どの理由でも、必ず未来が関わってるってこと」
(第四話 害 終)