第三話 刻(とき)
***
光に包まれたあとは、記憶がない。
ただ、いつの間にか、真っ暗な空間にひとり、立っているだけだった。
何もない「無」の空間。
歩いてみても先がない。先すら見えない。道すらない。
本当に、なにもない。
ここはどこだ?――わからない。
自分は今、どこにいる?――わからない。
どこに立っている?――わからない。
どこを歩いている?――わからない。
私は、誰だ?――……わからない……。
自分のことがわからない。自分が誰なのかわからない。自分が生きているのか死んでいるのかわからない。自分の存在がわからない。
存在とはなんだ?
生死とはなんだ?
自分とはなんだ?
なにも……わからない。
こわい、怖い、恐い、コワイ。
わからないことがこわい。
なにもないことがこわい。
じぶんが……こわい。
助けて、誰か助けて。
誰でもいいから、助けて。
ここから、出して――。
***
床に敷かれた布団から飛び起き、肩で息をする。額から冷や汗が流れる。着ている服も、汗でぐっしょりとしていて気持ち悪い。
今が夏でも、夜はそこまで暑くない。しかし、自分が寝ている間噴き出ていた汗は、決して暑さからのものではなかった。
「自分が最も恐ろしいと感じること」
それをまた夢で見たのだ。
今日が初めてではなかった。これまでに何度も、毎日のように見ているのだ。眠るたびに必ず見るあの悪夢。
「孤独からの絶望」
一度でも味わえば、忘れることは極端に難しい。一人になるのが恐ろしくなる。一人でいるのが恐ろしくなる。死んだほうがましだと思えるようになる。
しかし、自分はすでに死んでいるのだから、死にたいと思っても仕方のないことだった。二度死ぬことなど誰にもできない。人間にも、ましてや妖怪にも。妖怪は祓われると存在が消えるが、それは死ぬとはいわないのだ。
どうにかして、あの悪夢を見ない方法はないだろうか?
今更ながらもそう思い、汗でぬれた服を着替えに伊駒桧里は立ち上がった。
その時、隣のベッドから布がすれる音がする。桧里はそちらに目を向け、そこにいた人物が起き上がるのを見る。
「すまない、起こしてしまったか」
「いや…」
目をこすりながら、この家の今の家長、楮武瑠は言った。
「さっきからうなされてたみたいだったから…。どうかしたの?」
「…あぁ、ちょっといやな夢を見て…」
「夢?」
その疑問形の言葉に桧里はうなずき、ベッドの端に座る。
「でも、夢というよりは……過去」
聞いて、武瑠は首をかしげる。
「たぶん、俺が人間になった瞬間の、法師に封印された後の記憶だ」
どこまでも真っ暗な空間に自分は立っていて、独りを恐れ、自分のことがわからなくなり、孤独から絶望する。
そういえば、昨日まで夢喰いに憑かれていた間もそのような感じだった。心を喰われて絶望する、似たようなものだったのかもしれない。
「一人ぼっちだったんだね……桧里さん」
武瑠はそう言って哀しげに眉根を寄せる。部屋は暗いが、目が慣れてきたため、今はちゃんと見える。
「前まではな。今は、武瑠がいるから」
言って微笑むと、声色で感じ取った武瑠も安堵した。
「その夢ってさ、今日初めて見たの?」
不意にそう尋ねる。
「いや…」
「じゃあ、何回目くらいかわかる?」
「わからない。数え切れないほど見てきたから…」
「毎日?」
「毎日」
それを聞いた武瑠は、少し考える素振りをする。
「それがどうかしたか?」
「その夢を見ないようにする方法ってないかな~って」
おもったらしい。
「それは俺も考えたが、夢だからどうしようもないんじゃないか?」
「でも、『夢』って寝る前に見たものとか、印象に残ったことが出てくるって聞いたことあるよ」
「『暗示』ということか?」
「たぶんそんな感じ。きっと桧里さん、寝るときにその夢のことを思い出してるんじゃないかな?」
言われてみればそうだった。いつもあの夢を見るのが恐くて、忘れようとしても逆に忘れられず、そのまま眠りについてしまうのだ。
「そうかもしれない。自分のそばに誰もいないから、孤独を感じて、夢のことを思い出している。ぬくもりがあれば、もしかしたら…」
「ぬくもり、か…」
再びシンキングポーズになる。そんな武瑠を、桧里はじっと見つめる。
「……どうかした?」
それに気づいた武瑠は、きょとんとした顔で桧里を見返す。
「いい案を思いついた」
「っえ?どんな!」
「武瑠と添い寝をする」
「…………へ?」
桧里に爆弾を落とされた。前に乗り出している体を戻せず、武瑠は文字通り固まった。だらしのない声が出ても気にならない。気にすることができない。
「武瑠と添い寝をする」
聞き取りづらかったと判断したのか、桧里がもう一度言う。が、今の武瑠にそれは逆効果だった。
武瑠は、学校でも男女関係なく会話できる方だった。人見知りはしないし、ある意味積極的だ。しかし、昨日から初めてなことが何度も続いた。会話はできても、触れ合うなどのスキンシップはほとんど経験がない。桧里を家まで連れてくるのに手を繋いだのが最初。その次に、彼女の下着を洗濯したし、肩を揺すった後に倒れる彼女を抱き支えた。その後、何度か抱きしめ、抱きしめられた。ここまで無意識だったものもあるが、思い返すと顔が真っ赤になる。よくあんなことができたなと自分で自分をほめたたえたいぐらいだった。しかし、今度はなんだ?添い寝などして、自分の精神は大丈夫だろうか。桧里に危害を加えないか全力で心配する。
「武瑠と添い寝を…」
「もういい言わないで!」
三度目の添い寝発言には耐えられず、桧里の言葉を遮る。もうすでに武瑠の顔は真っ赤だった。
「なんで…そ、そい…そい、ね…なの?」
これでも頑張ったほうだ。
「ぬくもりがあれば、俺も安心して、恐くなくなるんじゃないかと」
「…なるほど。でもさ!」
「なんだ?」
「……そい、ねじゃなきゃ、だめ?」
「手をつないだ状態で寝るというのも考えたが、もし離れたら困るし、もしかしたら俺が力を入れすぎるやもしれん」
そこは桧里の妖怪特有の馬鹿力を考慮して、ということだ。
「な、なるほど…」
説得力があるから困る。
「……嫌、か?」
不意に桧里が言う。武瑠の慌てぶりを見て、妖怪と添い寝をするのが嫌だと思っているのではないかと感じたのだ。あまり武瑠の嫌がることはしたくなかったのだ。
それは武瑠も同じだった。桧里にそんな悲しそうな顔をしてほしくはなかった。
だから、言ってしまった。
「嫌じゃない!むしろそれしかないよ!」
本音だが、武瑠はそれを言って後悔した。
そんなこんなで、武瑠は桧里とひとつのベッドでともに寝ることになった。もちろん、これから毎日だ。そのおかげか、桧里はあの夢を見ることはなくなった。
***
夏休みに入って三日目の午の刻を半刻ほど過ぎたころ(つまり午後一時)、昨日と同じ理由で訪ねてきた鴻上宗谷を入れた三人は、居間に置かれている机を中心に、それぞれ夏休みの宿題に手をつけていた。
といっても、三人とも同じ数学のワークを進めているのだが、ペースが違った。宗谷は苦手科目がもともとなく、数学はその中で得意なほうだ。三人の中では一番早く問題を解いている。武瑠は理数科目が苦手で、宗谷に比べると彼の半分ほどしか進んでいない。だが、回答を見ながら数式の解き方を覚え、なるべく自分の力で解こうと励んでいる。しかし、問題は桧里だった。
「……伊駒」
きりの良いところまで進んだ宗谷は、ペンを置き伸びをする。そして二人の進み具合を見た時だった。
「なんだ?」
ワークに向けていた顔をあげ、宗谷を見やる。宿題をし始めて、約一時間。その間桧里は、
「一問も進んでねえじゃねえか」
問題を解けずにいた。という以前に、問題の意味をとらえることができずにいたのだ。
「言葉の意味がわからんのだ」
それを聞いて宗谷はずっこけた。
しかし無理もない。桧里にとっては、数学の問題は呪文同様なのだ。日本語の羅列ならまだしも、英数字やバツマーク、見たことのない形のものや三角が紙面に埋め尽くされている。
「『ひらかたね』とはなんだ?」
「ひらかたね?」
「ひらかたね?」
武瑠と宗谷の疑問が重なる。桧里はその文字が書かれている場所を指差す。そこには「平方根」と書かれていた。
「…………」
「……桧里さん、それはね、『へいほうこん』って読むんだよ」
「へいほうこん?兵法のひとつか?」
「いや、そうじゃなくて……」
あまりのあほらしさに、宗谷は呆れて声が出なかった。
桧里は学校では頭が良いほうだった。さすがに宗谷には劣るが、理数科目を得意とする優等生だったことには違いない。だがそれは、あくまで学校では。つまり、封印呪破りの数珠をはずした人間の状態の話だ。本来の妖怪の状態では、勉強は最悪にできないのだ。
「宿題するときは数珠をはずせ。そうじゃないとこっちがイライラする」
呆れのため息をつき、そう桧里に言う。人間の状態なら、宿題もスムーズに進むだろう。
「でも、それって人間の桧里さんになるってことだよね?」
「あたりまえだろ。封印された状態になるんだからな」
それがどうした?と訊く宗谷に、武瑠は不安げな顔になる。
「桧里さんがここに来てから、一回も人間の状態になってないから……」
「で?」
「いや……いろいろ説明しなきゃいけないだろうし……」
「なぜ自分がここに居るのか、当然疑問に思うだろうしな」
ワークの空白の部分に落書きをしながら言う桧里。おそらく狐だろう。
「それに……」
「それに?」
「なんか、気まずくなりそうじゃん?」
「そうか?」
武瑠の考えはあながち間違ってはいない。むしろ、宗谷の考えのほうが珍しいのだ。武瑠は人間桧里とは部活動が同じだったが、相手が極端な人見知りだったため話しかけても逃げられるか会話が続かない。宗谷はあまり接点はなかったが、勉強面で優秀な桧里には一目置いていた。最初は封印呪のことがあったため疑ってはいたが、真実を知った今ではそんなことはないし、むしろ認めている。
「そんなこと、いつかは話さないと駄目だろ」
「わかってるけど。……傷つくんじゃないかな、自分が実は妖怪だって知ったら」
「!」
言われてみれば確かにそうだ。今まで当然のように人間として生きてきた自分が、他人に「実はあなたは妖怪です」なんて言われたら、普通は信じないし例え信じたとしても傷心に駆られるだろう。武瑠はそれが辛いのだ。
「そうだな、でも」
「いつかはわかること、知っていなければならないことだ」
落書きをしている手を止め、桧里は続ける。
「例えそれで心を打ち砕かれても、真実だ。いつかは受け止めれるさ」
桧里は、逢ったことのない自分を信じている。それに加え、武瑠や宗谷も信じている。もし、自分が――人間の桧里が悲しんでも、二人が……そうでなければ、彼女を好きでいてくれる誰かが包んでくれると、信じているのだ。
「そう、だね……」
「まさか狐に言われるとはな」
「どういう意味だ」
「そのまんまだよ女狐」
「なんだと警察犬」
あぁ、また始まった。と、武瑠は苦笑した。この二人は犬猿ならぬ犬狐の仲らしく、気に食わないことがあったらすぐに口喧嘩をしてしまうのだ。ちなみにこれで本日三度目だ。
「んだよ警察犬って」
「言わなかったか?警察犬と書いて『チビ』と読むんだ。覚えておけ警察犬」
「俺はチビじゃねえ!お前らがでかいだけだ!」
「負け犬の遠吠えにしか聞こえんなぁ」
「くそっ見てろよ女狐!すぐにてめえを追い越してやるからな!」
「ふんっ言ってろ」
どうやら今回は桧里の勝利らしい。
「あ、そうだ武瑠」
ふと、思い出したように宗谷が言う。
「あいつ、今日はくるんじゃないのか?」
「え、そうだっけ?」
「『明日は午前だけだから』って、昨日言ってたぞ」
「うそ!まずいじゃんどうしよう!」
「あいつは敏感だからなぁ、特にこいつに対しては。隠してやらないほうが、あいつは喜ぶと思うけど」
「そりゃそうだけど、駄目だよ。絶対反対するって」
「だろうな。ま、そこはお前に任せるわ。俺は関係ねえし」
「え~!助けてくれないの宗谷さん!」
「さっきから一体なんの話をしているんだ?さっぱりわからんのだが…」
説明を乞う桧里をよそに、どんどん話を進める二人。だが、そのときそれを遮るようにインターホンが鳴った。
それに反応し、武瑠は顔を青く染めていく。
「……来た」
「なにが?」
「来たな」
「だからなにが?」
「どうしよう宗谷さん!」
「俺は知らねえぞお~」
「……おい。聞けよ」
「とにかく桧里さん隠れて!」
「なにがとにかくなんだよ」
「いいから!二階!俺の部屋の押し入れにでも隠れてて!」
そんなこんなで、今桧里は武瑠に言われたとおり隠れている。理由などはほとんど説明をもらえず、ただ武瑠と宗谷の友人が来たからということしかわかっていない。あまり気は進まなかったが、武瑠の願いに背くということはまずしないので、とりあえず押し入れの中に身を縮めているわけだ。
隠れてから随分と時間が過ぎた。いまだに桧里は狭い空間から解放されず、暗いせいか睡魔に襲われていた。特に妖怪の気配もないし、寝てしまっても問題はないだろう。そう思い、桧里は睡魔に負けた。
そしてそれから数分。折り曲げた膝を腕で抱えた状態で眠る桧里。その腕から力が抜け、床に吸い込まれていく。その際、左側にある木箱か何かに、桧里の左手首が近づき、数珠が木箱の角に引っかかる。重力に逆らえない腕は、引っかかった数珠を無視してパタリと床についた。数珠は木箱に引っかかったままだ。
しだいに桧里の体が横に傾き、隣の荷物に頭をぶつける。
ゴンッと、いい音が鳴った。
その痛みに目を覚ました桧里は、瞳が黒かった。
一方その頃、訪れた客人もとい、二人の幼馴染である佐治陵を含めた三人は、さっきまで桧里と三人で宿題をしていた場所で、同じことをしていた。武瑠と宗谷は陵が来るより早く数学のワークを広げていたため、今から始める陵とは問題の場所も違う。それぞれが違う問題に取り掛かっているのだから、ひとりひとりの反応も変わるだろう。だが、陵はそれとは違った違和感を二人に感じていた。というよりは、武瑠を中心的に。
もともと武瑠は嘘がつけない。だからか、ちらちらと陵を、それと同時に上を気にしていた。明らかにわかりやすいので陵もすぐに気づいたし、そのことに宗谷も気づいている。それに加え、なぜか二人とも包帯やらガーゼやらを体の所々に巻きつけていて、一見すると「ただ転んだだけ」という理由では済まされない。つまり傷だらけなのだ。いったい昨日何があったんだと疑問に思う。
そしてもう一つ。陵はあることに疑問を抱いていた――――匂いだ。ある人物の匂いが、この空間だけでなく家中に漂っている。それに気づいたのは、玄関をくぐって居間に着くまでの間だった。そこまでずっと、彼女の匂いが漂っていたのだ。
陵はあまり幼馴染を疑いたくはなかったが、陵の彼女に対する気持ちを二人は知っているはずだ。武瑠は明らかに隠しているし、宗谷は我関せずというように振舞っている。
なぜ彼女がここにいるのか、もしくはいたのか。陵は考えたすえ、行動に出た。
「わり、トイレ」
「え!あぁ、うん」
トイレに行く素振りを見せ立ち上がると、武瑠から返ってきた反応は、あまりいいものではなかった。やはり、なにか隠している。陵はそう確信し、居間を出てトイレには向かわなかった。
向かおうとしたのは、二階だった。そう、向かおうとしたのだ。その前に、向かう必要がなくなったのである。階段の前で、そこから降りてくる彼女に出逢ったから。
彼女は――黒い瞳をした桧里は、陵の顔を見て、顔を青く染めた。
***
ここで、突然訪れてきた幼馴染――佐治 陵の説明をしておこう。
前回、ちび――鴻上宗谷とのっぽの話をしたが、今回はそののっぽもとい佐治陵の話だ。
彼は、さきほどから述べてあるとおり、宗谷と同じ武瑠の幼馴染だ。彼等とは幼稚園も同じで、ほとんど同じ時間を過ごしてきた。だから仲もそれほど良い。それは、彼等の両親同士も同じになるほど。
のっぽというだけあって、身長は177センチと中学三年生の男子の平均身長をゆうに上回る。宗谷と比べるとその差はなんと28センチ。30センチものさしが入るほどだ。しかし、そのことを彼は全く気にしていないし、むしろ役にたっている。
陵は陸上部に入っていて、種目は短距離。長い足はそれほど速度を上げ、記録も部の中で一番だ。いわゆるエース。他の部は三年は引退となっているが、陵は違った。近々大会もあり、そのために夏休みに入った今でも部活に励んでいる。昨日は一日中、そして今日は正午までトラックを走っていたのだ。
そして、そんな彼は「部活一筋な中学生」ではなく、勉強や学校生活、そして、恋もしていた。小学校から一緒で、中学一年生の頃に初めて同じクラスになったのだが、始まりはそこからだった。
なんて話は後にするとしよう。
宗谷の血統に続き、彼――陵にも、普通の人間とは違うところがあった。それは、人とはかけ離れた力――異能だ。
あるモノを得ることで、他者の記憶、過去を覗くことができる。彼に霊力はないが、間接的になら悪霊を成仏させることも可能。妖怪を相手にすることは不可能だが、なぜ、なにに対して怨念を抱いているのかを突き止めることはできる。
彼は、刻を自在にあやつる異能を持つ者。
異能者――timerである。
***
「桧里さん……」
「……陵、さん……」
蒼白になった桧里の口から小さくそう発せられた言葉は、一種の恐怖を抱いていた。目が覚めるとどこか知らない場所にいたのに加え、自分のものではない服を身につけているし、こうして彼にも逢ってしまっている。正直、彼に逢いたくはなかった。二年前に叶わぬ恋をしてしまった彼には……。
固まっていた足を無理に動かし、桧里はくだっていた階段を急いで登ろうと踵を返した。しかし、片足をひとつ上の段に乗せたときに腕を掴まれる。そのせいでそれ以上進めなかった。
「なんで、ここに?」
それはこっちが訊きたかった。なぜ自分がここにいるのかわからない。ここがどこかもわからないのに、逆に訊かれてもどう言えばいいのかわからなかった。
陵に背を向けたまま、桧里は振り向けず顔を伏せる。その時、彼らの声が頭に響き、ここが楮武瑠の家で、自分が彼に拾われたことを教えてくれた。それを全く同じように、陵に伝えようとしたとき、他の人間の声が耳に入る。
「桧里さん!」
「随分長いトイレだと思ったら、やっぱこうなってたか」
そちらに目を向けると、彼らが教えてくれた通りこの家の住人らしい楮武瑠と、幼馴染らしい鴻上宗谷がいた。
武瑠は、こちらに顔を向けた桧里を見て驚愕した。瞳が紅ではなく黒だったのだ。一昨日までは黒くて当然だったのに、今では黒いほうが異色のような気がしてくる。
「武瑠さん、宗谷さん……。じゃあ、本当にここは……」
「俺の家だよ」
確認をするようにつぶやくと、武瑠から返答が返ってくる。
「どういうことか、教えてくれるよね?武瑠、宗谷さん……桧里さん」
「こいつは何も知らねえよ」
三人に問う陵。それを宗谷が訂正する。
「どういうこと?」
「そのまんまだ。こいつには、ここ数日の……たぶん、夏休みに入ってからの記憶がない」
「……なにそれ」
「疑ってるなら、自分で試してみたらどうだ?お前の能力なら、可能だろ?」
その言葉で、陵は言葉をなくした。宗谷が自分の秘密を知っていることに驚愕したのだ。
「え?なに、能力って……」
話がわからない武瑠と桧里は首をかしげる。
「……知ってたんだ」
「お前がタイムなんとかってのを持ってるのを見たんだよ。それで、気になって調べてみたんだ」
「いつから?」
「中学入った時から」
「……そっか」
「ねえ、そのタイムなんとかってなに?能力って?ねえ宗谷さん」
「とりあえず、あっちで話そう。伊駒のことも。狐のことも」
「え!話すの?」
「そのほうがいいだろ、どうせもう隠したって無駄だ」
いくぞ。と言って、宗谷は踵を返し居間に向かう。それに続いて武瑠、陵も足を進める。桧里は、どうすればいいかわからず立ち止まっていた。
「お前も来い」
見かねた宗谷が声をかける。すると陵が、桧里の手を掴んで進み始めた。驚く桧里をよそに、陵は足を進め、居間につく。
それから、桧里と陵に、なぜ桧里がここにいるのか、そして桧里が人間の姿にされた妖怪だということをすべて説明した。
少しの沈黙のあと、口を開いたのは桧里だった。
「武瑠さん。宗谷さん。話してくださってありがとうございます」
「え……」
「……お前、もしかして」
「はい、知っていました。……私が生まれた時から」
驚愕だった。傷つくもなにも、彼女はすでに自分の正体について全て知っていたのだ。しかし、ここでひとつ疑問が生まれる。
「どうやって知った?」
知る方法、手段だ。桧里が護っていた神社は、人の来る場所にあるが、その日はあいにく女法師しか近寄っておらず、目撃者も一人もいないはずだ。
「教えてもらったんです」
「誰に?」
「……みんなに」
「みんな?」
人間の目撃者はいないはずだ。
「狐が封印された瞬間を見たやつが複数いるって言いたいのか?」
「……はい」
「桧里さんあのね、妖怪の桧里さんに聞いたんだけど……あの夜は陰陽師の女の人と自分以外、近くに気配はなかったって」
見かねた武瑠が以前桧里本人にきいたことを言うが、彼女はそれを否定した。
「本当なんです!本当に私聞いたんです!みんなに」
「じゃあそのみんなってのは誰なんだよ」
宗谷がそう強く発言すると、桧里は恐る恐ると口を開く。
「…………れいです」
「え?」
「……幽霊……です」
桧里のその発言は、彼らを驚愕させ、黙らせるにはもってこいだった。
「私、見えるんです。……信じられないかもしれませんけど、本当に見えるんです、幽霊」
「……なるほどな」
それを聞いて納得した人物がひとりいた。
「宗谷さん?」
「別におかしくなんかないんだよ、こいつの場合。封印される前の体は本物の妖怪なんだからな。封印された後に、霊力があってもうなずける」
封印されたのは主に妖力。それなら、霊力が残されていたっておかしくはない。
「それに、封印された反動で体も変化してるみたいだしな」
「変化って?」
付け足された言葉に反応する武瑠。
「例えば、大きくいって身体。妖力が抜けたことによって、こいつの身体は特異体質に変化した。霊が肉眼で見えるのを前提に、こいつの身体が善霊を集めてしまうのが一つ」
先ほど階段で桧里と陵を見つけた時も、彼女の周りに何人か善霊が浮上していたのを見た。
「その善霊に限らず、幽霊と会話をするのが一つ」
普通、善霊とも悪霊とも会話はしない。見えたとしても怖がってしまうのが通常だし、宗谷のような陰陽師ともなると幽霊との会話はあまりよくないとされているのだ。どれが善霊でどれが悪霊かはすぐに判断できないし、もしそれが悪霊だったならば、少しでも強い身体にとり憑こうと隙を狙ってくる。
「その上、こいつの身体は少しだが近寄った幽霊を浄化する力がある。だから、集まってきた善霊は、伊駒を助けようと思って助言するんだろう」
それが一つ。と言って、宗谷は人差し指を出した。
「その他に、だいぶ変わったところもある。例えば、性格、利き手、頭脳、身体能力。まぁざっと言うとこんなもんだが、手っ取り早く言えば鏡にうつった自分は何もかもが正反対だってこと」
聡明ではあるが少々荒々しかった妖怪から、温厚だが気が小さく極端な人見知りな人間に。左利きから右利きに。勉学がまったくできない妖怪から、秀才な人間に。ずば抜けた身体能力から、運動ができないといっても過言ではない状態に。
何もかもが正反対。宗谷の言う通り、妖怪である桧里と人間である桧里は、まるで鏡にうつしたようだった。
「……なんだよ……それ……」
納得したかに思えたが、三人のうちひとりは違った。
「宗谷さんさぁ、桧里さんとその狐のこと、まるで二人が同一人物みたいにいうじゃん」
陵だ。
「だったらなんだよ」
陵はギロリと宗谷をにらみ、桧里がきいたこともないような低い声で呟いた。
「……ふざけんなよ」
怒っている。武瑠と宗谷はすぐわかった。
陵が怒ることはめったにないが、今回はただ怒っているのではない。キレている。
「さっきから黙って聞いてたけどさぁ、なんでもお見通しなんだね宗谷さんは。でも間違いはある。桧里さんと狐は同一人物なんかじゃない。桧里さんは桧里さん。狐は狐なんだよ。一緒にすんじゃねえよ」
にらみ合う二人。といっても、にらんでいるのは一方的に陵だけだ。宗谷は怒った様子もなく、ただ陵を見つめている。
「なら、そう思う根拠は?」
「はぁ?」
しばらくのにらみ合いのすえ、発言した宗谷。
「俺は陰陽師としての知識が根拠だ。お前のその発言の根拠はなんだ?ただの情じゃねえのかよ」
そういわれて、陵は鳩に豆鉄砲を食ったような顔になる。そして次に、また宗谷を睨む。
「わかったよ。見せりゃあいいんだろ?」
言って、陵は片手を机に、もう片方の手を隣に座っている桧里の肩に乗せた。突然触れられたことに驚いた桧里はすっとんきょうな声を出すが、陵はいたって気にせず、机と桧里の肩から手を離し、前方に座る宗谷にそのまま両手を、手のひらを上に向けるようにつきだした。
「これが俺の根拠」
武瑠は首を傾げた。根拠だと突き出された手には、当然のように何ものっていないのだから。自信満々と突き出す陵を訝しげに見る。
しかし、それは武瑠にいたっては当然のことなのだ。普通の人間が見れば、誰だって手の上には何ものっていない。普通の人間が見れば。
しかし、今この空間には陵をふくめて三人の普通ではない人間が存在する。陰陽師の宗谷。霊力に関する特異体質を持つ桧里。そして、異能者の陵。
この三人には、陵の手のひらにあるモノがのっているのを見ることができた。
それは、二つの小さな立方体。
机に触れたほうの手の上には、赤い立方体が。
桧里に触れたほうの手の上には、白い立方体が。
のっているというよりは、少し浮いているようにも見える。それぞれ同じ色の光のようなものをまとって、浮いている。
サイコロのようなそれを確認すると、宗谷は陵に訊ねた。
「そっちの白いのは、伊駒の記憶ってことか?」
「そういうこと。前にも見たんだよね?俺がこれを持っているところを」
訊き返されて、宗谷は頷く。
「これは刻の玉。触れた者の記憶を具現化したものだよ。これは、僕みたいな異能者や、言うならば普通じゃない人間にしか見えない。だから、武瑠には見えないんじゃない?」
唐突に話を向けられる武瑠。だが、陵の言う通り武瑠には何も見えなかった。
「……あの、陵さん」
隣から小さく呼ばれ、なに?と返事をする。
「『異能者』、とは、なんなんですか?」
桧里の問に、武瑠も賛同する。
「『異能者』っていうのはね、人とはかけ離れた能力――異能をもつ人間のこと。例えば、動植物と会話ができたり、千里眼をもっていたり。僕の場合は、時間をあやつることができる。といっても、その人の過去をみたりとか、そういうのしかしないけどね。そして、その記憶を見るのに必要不可欠なものが二つある」
「そいつの記憶」
「と、それを見るための道具」
陵の手のひらにのっている刻の玉がひとつの記憶。それを見るための道具とは、彼が常に持ち歩いているものだった。
「これ」
と言って、陵がズボンのポケットから出したものは、
「懐中時計?」
銀色に鈍く光る、懐中時計だった。ウォレットチェーンのようにズボンにつながれている。開いてみると、いくつもの歯車がむき出しで、折れ曲がった長針や短針がいくつも重ねられており、刻盤もたくさんある。とても時間をよめそうにないつくりだ。それは、所有者の陵にしか扱えないようになっているからであり、例え奪われたり落としてしまっても、他人には使用できないようになっているのだ。
陵が言うには、刻盤のひとつは異世界の時間を指しているものもあるという。それが存在することで、時間軸のズレを確認することができるそうだ。陵自身もtimerであるため、時間軸のズレはすぐに感知することができる。同時にそれは、妖怪が近くにいることも表している。
「だから、僕も妖怪の存在は知ってたし、そいつらからの危険も察知できたから、今まで襲われずに済んだわけ」
異能者も、妖怪には狙われやすいのだ。
「話を戻すが、白いほうが伊駒の記憶なのは十分わかった。なら、そっちの赤いのは机の記憶だとでも言いたいのか?」
机に触れて取り出した赤い刻の玉。普通に考えれば、机の記憶だと思うだろう。
「これは、狐の記憶だよ」
「え?でも、机から採ったんじゃ…」
「正確に言うと、机の記憶の中にある狐の記憶。机とか、棚とか、大きく言えば家とか、物には一つ一つ命がある。今までともに過ごしていれば、物にだって記憶はできる。だから、その物に触れたりそばを通っただけで、その人物の記憶はものに刻まれる。それを、間接的に採ればその場に人がいなくても、記憶を採取することはできる」
「説明はわかった。が、それが狐の記憶だとして、何が言いたい?」
「……色だよ」
「色?」
刻の玉とは、対象者の記憶や印象、性格などで一つ一つ色が違ってくる。
「狐の刻の玉は、気が強かったり積極的なんだろうね。それに加え『妖怪』だからいろんなものを見てきたんじゃないかな?例えば、血とか。だから、赤い。それに比べて、桧里さんの刻の玉は、優しくて綺麗な心を持っていて、幽霊とも普通に接してるしで悪い印象がない。だから、白い」
「だったら?」
「これなら火を見るよりも明らかでしょ!普通、同一人物ならその刻の玉は全く同じ色になる。でも、この二つはまったく別の色だ。同系色ってわけでもない。対照的な色だ。これを見て、宗谷さんはまだ桧里さんと狐が同一人物だっていうの?」
強く問いかけられ、宗谷は陵の目を真っ直ぐ見るだけで、何も言おうとしない。
「これが、僕がtimerとしての根拠。これでもまだ否定する?」
それがなんだかもどかしく、陵は再度宗谷に問うた。すると、宗谷は陵から目をそらし、そのまま桧里を見る。宗谷と目があった桧里は、なぜこちらに目を向けたのかを疑問に思い、首を傾げた。それを見たからか、宗谷は少し笑ってまた陵に目を向けた。
「誰が否定するなんて言った?」
そして、告げられた言葉がそれだった。言われた陵はきょとんとし、反論を返す。
「だって、さっき根拠を示せって!」
「俺は根拠を示せって、言っただけだ。否定なんてしてねえよ」
「でも……」
「それに、お前が出した根拠も考え方も、あながち間違ってない。答えなんて、伊駒と狐の間にはないんだよ。そんなものは、考えたやつの自由だ。それに俺は、最初からお前の意見を否定する気も、自分の意見を尊重する気もなかったしな」
そう言って笑う宗谷を見て、武瑠も桧里も、そして陵も肩から力が抜けた気がした。張り詰められた空気も、すでに和んでいるように感じる。
「も~…宗谷さんにはかなわないよ……」
そう言って、陵は机に突っ伏した。いつの間にか刻の玉も消えている。
「そういえば、桧里さん」
力なく机にうつぶせた陵を見て笑いをこぼしていた武瑠。ふと、思い出したように彼女に問いかけた。
「はい?」
「数珠はどうしたの?持ってないみたいだけど……」
「え?……」
「桧里さん?」
必死に思い出そうとするが、いつの間にか真っ暗な押し入れに入っていたため、どこに数珠があるか記憶にない。
「……すみません。わかりません」
「えっ?」
「目が覚めてから数珠を見た記憶がないので……すみません!」
「……どうしよう」
「本当にすみません!」
何度も謝罪を繰り返す桧里の頭を上げさせ、武瑠は頭を悩ませる。このまま数珠が見つからないでいると、妖怪の桧里に戻れない。そうなると、彼女が悲しむと思った。また、真っ暗な空間で一人にさせてしまう。
「探そう!絶対見つけないと!」
「見た記憶がないんじゃ、陵の能力で見つけれそうにもないしな」
「っていうか、どんな理由があっても、僕は桧里さんの記憶を見ることは絶対にしないけどね」
「わかってるよそんなこと。しかたねえ、行くぞ武瑠」
「あ、ちょっと待ってよ!」
二人が立ち上がり、居間を出ようとする。それに続いて桧里も立ち上がった。
「私も探します!もとは私が失くしてしまったんですし」
しかし、宗谷がそれを拒んだ。
「お前はここで陵と待ってろ」
「で、でも!」
「いいから!おとなしくしてろ!」
バタンッと大きな音をたて、廊下に出る扉を閉める宗谷。彼の言葉に従い、桧里は外には出なかったが、いたたまれなかった。
「ねえ、桧里さん」
陵と、二人になることが。
「はなし、しない?」
そちらにゆっくりと目を向けると、こちらを見上げる陵と目が合った。すぐに桧里は目をそらし、先ほど座っていたところと同じ場所に座る。
陵の視線を常に感じつつも、目を合わせようとはせず、机の上を見る。
それから、少しの沈黙を破ったのは陵だった。
「最初に、謝らせて欲しいんだ。ずっと、返事を返せなくて、ごめん」
「陵さんは、悪くなんて、ありません、から。謝らないでください。……それに、もう……忘れてください」
そう言われて、苦しかった。泣きそうなほど悲しかった。
あのことを忘れろと言われたほうが、陵にとっては悲しいのに、桧里は覚えていられたほうが悲しいのだ。今までは、こんな機会がなかったが、今回はこのチャンスを存分に使わせてもらおうと思った。だから、陵は言った。
「やだ」
「……え…?」
「絶対、忘れない。忘れたくない」
「……どうして」
「それはこっちの台詞。どうして、忘れなきゃいけないの?」
そう言ったあと見た桧里の顔は、驚きに溢れていて、泣きそうだった。
「好きな子に告白されて、忘れたいって思うやつなんていないでしょ?」
見開かれた目から、ひとしずくの涙がこぼれた。
***
中学一年生の春。
陵はその時から、桧里に惹かれ始めていた。
小学校は同じだったが、一度も同じクラスにはならなかった。だから、彼女と話したことはない。あまり彼女の噂も聞かないし、どんな人なのか知りたいとかも、その時は思っていなかった。
でも、同じクラスになって、気が変わった。
入学当初、彼女は休み時間の間に本を読んでいることが多かった。それは珍しくなく、彼女の周りにも同じような人はたくさんいたから、なおさら目立たなかった。
僕は興味本位で、彼女に話しかけた。なんの本読んでるの?とか、それってどんな本?面白い?など、本で話題をつくった。そうすれば、彼女も話しやすいだろうし、次からも気軽に会話できるだろうと思ったからだ。でも、彼女の反応は違った。話しかけても、あまり会話は続かないし、時には逃げられる。向けられるのは硬い笑顔ばかりだった。
時間は過ぎてゆき、二学期に入る頃には、彼女にも新しい友達ができていた。彼女と同じようなあまり目立たない子で、話も合うようで、いつも一緒にいた。そのせいか、休み時間にも本を読むのが少なくなった。いつもその友達とおしゃべりをして楽しんでいて、その表情は、僕には見せてくれたことのない、華やかな笑顔だった。とても優しくて、綺麗な目を友達に見せていた。
それを見て、僕はなんだか悔しかった。彼女の友達よりも先に話しかけていた僕には、そんな顔も、目も、見せてはくれなかったのに。悔しくなったと同時に、燃えた。自分にも見せて欲しかった。あの笑顔を、向けて欲しかった。だから、決心した。絶対に仲良くなってやるって。
それから、僕は一日に一回は必ず話しかけるようにした。周りから見れば、僕が彼女に気があるように見えてもおかしくはない。でも、彼女は鈍感なのか、そんなことはわからなかったみたいだ。話しかけても、やっぱりまた逃げられる。見せてくれるのはあの硬い笑顔だけ。
そうじゃない。僕が見たいのはその笑顔じゃないんだ。
話の内容も、テレビやアニメ、ニュースとか話題になっていることも織り交ぜながら話をつくった。彼女と話しを合わせられるように、たくさん本も読んだ。
そしてある日、また、僕は彼女に話しかけた。すると彼女はびっくりしたようで、少しあわててうつむいた。本を読み始める彼女に会話を仕掛ける。
「昨日さ、図書館に行ったんだ。桧里さんが読んでるその本の一巻読んでみたんだけどね、すごく面白かった」
僕がそう言うと、彼女は興味を示したようで、文字の羅列から目を外し、僕の目を見る。その目はすごく希望に満ちていたように見えた。言いすぎかもしれないが本当だ。僕にはそう見えた。
よし!と思って続きを話す。
「主人公がヒロインに向かって叫んだ言葉。あれ、読んだときすごくびっくりしたよ。普通あんなこと大きな声で言えないよね。それに、あそこも!二人が森に入るシーンあったじゃん?そこの森のイメージとかも捉えやすかったし、怖いっていうのが直に伝わってきてさぁ、鳥肌立っちゃったよ」
つらつらと思ったことを一方的にしゃべっていると、彼女が小さく言った。
「私も。……あそこ、怖いですよね」
そこから、話が弾んだ。今までにないくらい話が続いて、それを遮るチャイムが鳴らなかったら、たぶん長い間話し続けていたに違いない。その時は、話しかけた僕もすごく楽しかった。それに、話している途中、ついに見せてくれたのだ。あの、華やかな笑顔を。僕に。
すごく嬉しかった。明日も、話しかけよう。そう決めて、僕は鼻歌を歌いながら部活に向かった。
そしてその後、毎日のように話す僕と彼女。本以外の話題でも盛り上がるようになって、毎日が楽しくなっていった。そして、僕は幼馴染の二人に言われて、ようやく自分の気持ちに気がついたのだ。僕にもあの笑顔を向けて欲しいと思ったのは、悔しいと思ったのは、僕が彼女を好きだからと。ようやく気づいたのだ。
すぐに告白しようと思った。でも、そんな勇気があっても、失敗して、ようやく築けた関係を崩すようなことはしたくなかった。やっと向けてくれるようになったあの笑顔が消えるのは、心底怖かった。だから、告白はできないでいた。
しかし後日、驚いたことに、彼女のほうから手紙をもらえたのだ。好きですと書かれた、ラブレターを。
それは三学期の最終日のことだった。朝来て、自分の机の中に教科書を入れようとしたら、中になにか入っているのが見えた。見覚えのないものだったので出してみると、それは手紙だった。四葉のクローバーのシールで封をされたそれは、「陵さんへ」とだけ書かれており、封筒には差出人の名前が書かれていなかった。残念なことに、その日、学校では中身を読むことができなかった。朝きたのも遅刻ギリギリだったし、教室で読んでいると誰が見ているかわからない。トイレで読むというのも自分的にしたくなかったから、結局部活を終え、家に帰ってから読んだ。
その手紙には、まず、ありがとうと書かれていた。自分に分け隔てなく接してくれて、とても嬉しかったと。それから、最初は無愛想に接してしまいごめんなさいともつづられていた。最初は僕に抱いていたのは憧れだったのだが、話していくうちにとても楽しくなって、気がついたら好きになっていたと。そして、好きです、と書かれていた。文末に書いてある名前を見て、僕は目を見開いた。「伊駒桧里」と書かれていたのだ。僕は嬉しさで舞い上がった。それと同時に学校で読んでいれば良かったと後悔した。それならば、今頃僕と彼女は相思相愛で恋人同士になれたというのに。
僕は新学期が、二年生が待ち遠しかった。
しかし、その新学期、僕と彼女は引き裂かれた。違うクラスになってしまったのだ。でも、それでも負けじと僕は彼女に逢いに行こうとした。だが、それを阻止するかのように、今度は学級委員長に選ばれてしまったのだ。それに加えクラスが一組と五組なので、教室が端と端に離れていて、少しの時間では無理だった。それでも時間を作っていこうとすると、今度は友人に捕まったり、先輩に捕まったり。部活でもエースということで次の部長に早くも選ばれ、昼休みにも呼ばれる始末。どうやっても逢いに行けないのだ。なんて不幸。これなら、家の住所とか電話番号とかを聞いておけばよかったとまた後悔する。が、今更だった。
結局、僕はその一年間、彼女と話をできずにいたのだ。話というか、逢うことすらできなかった。なんでこうなるんだ。せっかく相思相愛だというのに。これじゃあ僕が一方的に返事をできないでいるじゃないか。
早く彼女に伝えたかった、僕の気持ちを。じゃないと、彼女が悲しむと思ったのだ。僕にふられたのだと思い込んでしまうと思ったから。
待ち遠しかった二度目の新学期、三年生になった僕は、彼女と同じクラスになるのを願った。が、またしても違うクラスだったのだ。本当に、僕は不幸なのだと思った。神様なんていやしないんだと。
しかしそれでも負けずに彼女に逢おうとした。
そして、ついに、やっと、誰にも邪魔されない時間ができた。僕は彼女に逢いに行った。廊下を歩いている彼女を見つけ、僕は自然と笑顔になる。彼女は図書委員で、何冊か本を持ってこちらに歩いてきていた。
今なら誰にも邪魔されない。そう思って、僕は彼女に話しかけようとした。
でも、僕に気づいた彼女は、途端に悲しげな表情になり、うつむいて、早足になって、僕のとなりをすれ違った。
僕は、振り向いて彼女を追うことができず、その場に立ちすくんだ。笑顔も消えていた。
やはり、彼女を悲しませていたのだ。自分のみっともなさに、腹が立った。
***
あふれ出した涙は、しばらくの間止まらなかった。どうにかしゃべろうと思っても、それは嗚咽にしかならず、ほとんど言葉を伝えることもできずに、桧里は泣き続けていた。どうしてこんなに涙が出るのかはわからない。わからないのだ。なぜ自分が泣いているのか、なぜこんなにも涙が出てくるのか。
陵の腕の中、桧里はなにがなんだかわからなかった。頭が混乱して、どうすればいいのか分からないでいた。でも、陵の腕の中は、とても暖かかった。
ようやく泣き止み、陵の腕から抜け出す。陵はもう少し抱きしめていたかったが、今はそんなことは言っていられない。
「……ごめん、なさい……泣いてしまって」
「全然。むしろ……」
言おうとして、陵は言葉を切る。不思議に思った桧里は首を傾げた。
「ごめん。……こんなこと言っていいのかわからないけど……嬉しかった。頼ってくれてるって感じがして。実際違うのはわかってるんだけど、ね」
ちょっといい思いもさせてもらったし、と言葉を付け加える。すると、桧里は涙目のまま笑った。陵の発言が面白くて、笑ったのだ。それにつられた陵も笑う。
「あの……陵さん……」
どこか決心したような表情で言う。
「私、陵さんのこと……」
「ストップ!」
「え?」
唐突に遮られる言葉。今度は陵が、それをつないだ。
「僕、桧里さんのことが好きです!」
とたんに、真っ直ぐな目に、吸い込まれる感覚におちいった。その言葉を聞いて、桧里は心底嬉しかった。
「……私も、陵さんのこと……好き、でした」
「桧里さん」
「でも……ごめんなさい」
しかし、彼女はそれを受け入れなかった。
受け入れることができなかった。
「……え……?」
「本当に、ごめんなさい」
「え、ちょ、桧里さん?どういうこと?」
ついさっきまで笑顔だった表情が、また、悲しげなそれに変わる。
「私、本当にあなたのことが好きでした」
「なら……」
「でも、二年生の時、私はあなたに避けられていると思った。だから、もう、諦めたんです。諦めたことが、避けられていたことが、その時すごく悲しくて……」
実際、避けられていたわけでも、ふられたわけでもなかったのだが、当時の桧里には、大きな傷が残った。
「もう、誰も、好きになることができないんです。……だから、ごめんなさい」
また泣いてしまいそうな声でそう言って、桧里は頭を下げた。それを見た陵は呆然とする。自分がおかしてしまったことを、心底悔やんだ。ただふられたわけじゃない。彼女が誰かに恋をすることさえできない、大きな傷を彼女に刻ませてしまったのだ。
自分は、一体何をしてきたのだろう。彼女に自分から話しかけて、彼女の気を引こうと本まで読んで、彼女に告白されても、用事を理由に結局は放置していた。挙げ句の果には、彼女を悲しませ、泣かせてしまった。
このまま、諦めるのだろうか。彼女がそうしたように、自分も?
このまま、彼女の傷をそのままにしておいていいのだろうか。原因は、自分だというのに、逃げるのか?自分は……。
「そっか。……うん。わかった……」
逃げるのか?
また彼女を悲しませていいのか?
「…………でも」
そんなのは、嫌だ。
「諦めないよ、僕。桧里さんのこと」
「……え?」
「諦めない。絶対に振り向かせてみせる」
「……でも」
「好きになれなくてもいい。でも僕はアタックし続けるからね。桧里さんが、誰かを好きになれるまで。だから、いつでも僕のこと好きになって。大歓迎だから」
そう言い切って、陵は口角をあげる。それに桧里は、なんだか救われた気がした。
「……はい」
そう、返事をする。すると陵が安心したように言う。
「今、『はい』って言ったよね?」
「え?は、はい」
「……よし」
と言って、片手でガッツポーズをする陵。
「え、あの…なにが『よし』なんですか」
なんだか、こわい。
「覚悟、しといてね、桧里さん」
「……え?」
「自分で言うのもなんだけど、僕って変態だから。感情にまかせて何するかわかんないよ?」
「へ、へんたい?」
「そうは見えない?だろうね、結構ギャップあるって二人にも言われるし」
今は二階で数珠を探している武瑠と宗谷のことだろう。
「でも大丈夫だよ。そこらへんのスケベとかじゃなくて、品の良い、紳士的な変態だから。ね?」
ね?と言われても困る。
少し身の危険を感じるが、笑顔は本物なので拒否できない。桧里には異性の免疫がまったくといってないので、この先不安だ。
そんなことはつゆ知らず、二階では武瑠と宗谷の二人が無事数珠を発見していた。木箱の角に引っかかっていたそれには傷もなく、特に支障もなさそうだった。
(第三話 刻 終)