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その瞳にひかりを  作者: 錐兎
3/7

第二話 陰陽

***


「力が欲しくはありませんか?」

突然現れ、女は言った。

「ちから?」

「はい」

笠に隠れた目を細め、女は答えた。

「力など、とうに持っておるわ」

「それは、秘宝を護る為の物でしょう。私が言っているのは、そのような物ではありません」

「ならば、何だと言うのだ」

「善妖ともあろう狐が、この程度をわからないとは…」

呆れた様子の女は息をつく。

「ほざくな。たかが数十年しか生きられぬ人間が大層な口を利くでない」

「人の命は、短いとでも?」

「他に何が言える」

「たとえ短くとも、その間に得られる事は、妖怪にはわからぬ事です」

その時笠から現れた女の瞳は、着ている袈裟と同じ紫紺色をしていた。

「私が言った力とは、今の貴方には無い物」

きん!と、女は片手の錫杖を鳴らし、もう片方の手をこちらに突き出す。

ひとを護る物です」

その瞬間、俺の体は光に包まれた。


***


「美味しい!」

「っふ、そうだろうそうだろう。少なくとも武瑠の作りあげた炭魚よりは美味だろう」

好きなだけ笑って、二人が互いの距離を縮めたのは、既に正午を過ぎた頃だった。

そしてその時、武瑠の腹の虫は鳴いた。

前回、温かいご飯をつくって桧里を迎えようと計画していた武瑠の策は、実力をすっかり忘れていた武瑠自身によってことごとく崩された。

その為、言いはしなかったが、エプロンをつけたまま桧里の前に現れた武瑠は、彼女にご飯をつくれなかったことを謝罪しに来た。…のではなく。彼女にご飯をつくってくれと頼みに来ていたのである。

そして桧里はと言うと、武瑠に様々な事をして恩を返すと決めたらしく、基本武瑠からの頼まれごとは受けるらしい。

よって、「ご飯つくって下さい」と、失敗した時の無残な姿になってしまった魚を思い浮かべ、泣きそうな(という以前に涙目の)顔で頼んだ武瑠の様子を見て、吹きそうになりながらもなんとか堪えた桧里は、先程まで炭だった魚を蘇らせたところだ(もちろん武瑠の失敗作とは別のものである)。

「桧里さんって、料理上手いんだね!」

「ああ、そうらしいな」

「ところで、桧里さんって白狐になる前は…」

「狐だった。何の力もないただの狐」

箸を進め、次々にご飯をかきこみながらも、疑問に思った事を訊く武瑠。質問の内容を察した桧里は、言葉を遮り即答する。

どうやら、食べながら話すというのはあまりしてほしくないらしい。

特に武瑠は、口に料理をかきこんでいる為、それだけ頬も膨れている。尚更その状態でしゃべって欲しくは無いだろう。

「食いながらしゃべるな」

現にこう言っている。

「ご、ごめん」

ごくり、と、口の中の白米と魚を喉に押し込む。

「その、狐の時は…」

「一年中、雪が降る山の奥に住んでいた」

「あ…そう…」

またも言葉を遮られる。

しゃべらせてくれないのか…?

「じゃあ、料理なんてしなかったんじゃない?なのになんでこんなに…」

料理が上手いの?

「あー…」

今度は遮られなかったが、訊くと桧里は無表情で首に手をやる。

そして気まずそうに言った。

「実は…見様見真似だ」

「………え?」

見様見真似という事は、何度か見た事があってそれを手本にしているという事。だとしたら、何を手本にしたと言うのか。

「前に、大きな建物の中に入って見た事があってな」

「建物?」

「ああ。不思議な事に、そこにはこの家にもある…家電、というのか?それがこう…ずら―っと沢山並んでいたんだ。何故あんなに沢山の家電とやらを並べる必要があるのかはさっぱりわからんが、どれも同じ形をしていて、妙に迫力があった」

「……あぁ、そゆことね」

この会話からわかるのは、桧里が時の流れに付いていけない妖怪だと言う事だけだ。

「ごちそうさまー!」

未だに箸を進める桧里の前で、両手を合わせ、元気いっぱいの声色で言う武瑠。

白米、鮎の塩焼き、みそ汁と、基本的な和食だったし量も武瑠の方が少し多い位なのに、この差は何なのだろう。

武瑠は先程、ほんの五分前に食べ始めたはずだ。その証拠に、一緒に食べ始めた桧里の皿の中には、まだ鮎の原型が残っている。

しかし武瑠の皿には、魚の頭と骨しか残っていない。

驚異的な速さで、しかもちゃんと骨と身を分けて食べている。…すでに人間業ではないような気さえする。

「……武瑠、ちゃんと噛んで食べたか?」

「え?うん、ちゃんと噛んだつもりだけど…」

「嘘吐けえ!だったらなんで、そんなに速く食べ終えることが出来るんだ!」

本当なのか嘘なのかわからない武瑠の反応に、一瞬呆れの表情と冷や汗を浮かべ、桧里は思った事を素直に叫んだ。

「………さあ、慣れでどんどん食べちゃってるからね。そんなのあんまり気にしてないし…」

「ちったあ気にしろ阿房!噛むと言う行為はな、健康にも良いのだぞ!せめて一口で三十回は噛め!」

今更ながらも、立ち上がった桧里は武瑠の母親になった気分だった。

「大丈夫だって!ちゃんとそれ位噛んでるから」

「だからってもうちょっとゆっくりっ………はあ」

再度叫ぼうとしたが、武瑠にはこれ以上言っても無駄だと察し、諦める事にしたようだ。もう何も言うまい、と、溜め息を一つ吐き、桧里は椅子に座った。

そしてその時。

ピンポーン。と、インターホンが鳴った。


***


武瑠の家の近くには二人の幼馴染の家がある。

彼等とは幼稚園も同じで、ほとんど同じ時間を過ごしてきた。だから仲もそれほど良い。それは、彼等の両親同士も同じになる程。

その二人はいずれも男子なのだが、個性がとても豊かである。…良い意味でも、悪い意味でも。

まぁ簡単に説明すると、片方はいわゆるちびで、もう片方はいわゆるのっぽだ。

そしてその間が武瑠であり、並べば綺麗な斜め線を見る事が出来る。

では、今回はのっぽの方は置いといて、ちびの方の話をしようと思う。

先程からちびちびと言っているが、これが実際単身で、桧里の百五十六センチを裕に下回り、身長は百四十九糎と、中学三年生の女子の平均身長よりも下という訳でありまして。本人もそれをかなり気にしているらしく、彼の前では「ちび」や「小さい」は厳禁になる。

しかし、そんな彼は秀才で、中学三年生にして学年トップの座を常にキープしている。

身長を除けば武瑠達の中で唯一の常識人であり、ずれていく武瑠と非常識人であるもう一人の幼馴染をまとめるお母さん的なポジションでもある。

そんな日々が何年も続いていた所為か、いつの間にやら彼の口は毒を吐くようになっているのだが、何故か一種のいじられ役も担っている。

しかし、一見普通な彼にも、普通の人間とは違うところがあった。それは、先祖代々続く血統からである。

霊感を持ち、常に錫杖をどこかに持ち歩いている。

霊を成仏させることができ、悪霊を祓う事も出来る。更には、人間では敵いっこない妖怪の相手をすることだって可能。

妖怪を祓う事の出来る家系とは、つまり。

陰陽師である。


***


夏休みに入って、二日目の未の刻。

武瑠の幼馴染の一人、鴻上こうがみ 宗谷そうやは片手に鞄を持ちある家の前に立っていた。

木造で二階建ての平屋。その周りを、年季が入り焦げ茶色に変色した、これまた木造の塀が囲っている。

如何にも昔の家という雰囲気が醸し出されているが、今この家には中学生が一人しかいない。

はずなのに。

宗谷は、その血統から繋がる霊感で、今この家に武瑠以外の何かが存在していると気づいていた。

人間ではない、何か。

生を持っていない何かが、此処にいる。

もしかしたら、武瑠がその何かに襲われているのかもしれない。現に先程インターホンを押してから、既に四、五分は経っている。

しかし、もし本当にそんな事が起こっていたとしても、邪気や妖力を感じない。妖怪が人間を喰べる為に妖力を少しでも出していたなら、霊感のある者ならわかる空気の震えが生じるのだが、先程からその様子は無い。

だとしたら、今此処にいるのは何だ?

それに何か、何かおかしい。

この感じは、何か膨大な力が無理に抑えられているような、そんな感じがする。

と、その時。

塀の扉が慌てた様子で開いた。その途端。

ごんっ。と、少し痛そうな音がする。

この扉は、外からすれば手前に引いて開ける物。中からすれば奥に押して開ける物である。宗谷は先程から門の目の前で考え事をしていた。扉が開いたのには気づいたものの、その速さには付いて行けず、顔面を強打したのである。

「っ痛ー…」

「えっ?ああっ宗谷さん!」

以外にも武瑠の力は強いらしい。

顔面を手で覆い、しゃがみ込む宗谷。小さな身長が更に縮こまった為、武瑠は門を開け切っても宗谷の存在に一瞬気付かなかった。

「だ、大丈夫っ?」

「大丈夫?って………大丈夫な訳ねえだろうが!」

勢いよく立ちあがり、反論を叫ぶとともに牙を剥く。

が、鼻が赤くなり痛さゆえに涙目になり、極めつけとして約十九糎もの身長差がつくりあげる上目づかいの所為で、少しも怖くない。逆に可愛らしい。しかしそれを彼に言うと何をされるかわからないのでやめておこう。

「ご、ごめん!…あ、鼻赤くなってる」

「誰の所為だ誰の」

般若のごとく表情を歪め言い返す。

しかし、今はそんなことよりも武瑠に訊かなければならない事がある。

「武瑠、お前…」

「っていうか、どうしたの?今日って、何か約束してたっけ?」

言おうとする宗谷の言葉を遮り、疑問に思った事を訊く武瑠。しかし、今遮るのは良くない。

「夏休み中は親がいないから、お前ん家で宿題しようって提案したのはお前だろ!忘れたのか!」

「………あ」

「忘れてたな…?」

「ああ!いや!わ、忘れてた訳じゃないよっ?ただ、その…」

「そんな事をすっかり忘れてしまうほどの何かが起こった、とかか?」

「………………」

言い訳を考えようと思ったが、その前に図星を突かれ目を見張る武瑠。

まずい。 

今、中には桧里がいる。何かと勘づく宗谷なら、すぐにばれてもおかしくない。

彼を家に入れてはいけない。そう思った。

もし宗谷が、桧里が妖怪で自分と同棲する事になった事を知れば、きっと反対する。何をするかもわからない。だから、絶対にだめだ。

「どうしてすぐに出てこなかった?」

「…えっと…。む、虫が出て!パニックになっちゃっててさ!」

咄嗟に法螺を吹くが、それでは弱い上に少しおかしい気がする。

「お前、虫は普通に対処できるだろ。ムカデでもゴキブリでも」

「…あー……」

やはり駄目であった。

武瑠は嘘をつくのが下手な類のようだ。

「正直に話せ。武瑠、この家に今お前以外の何かがいるだろ」

「え…?」

「…まさか、もしかして…」

今思えば、自分と小中学校九年間同じクラスと、なんとも奇跡的な女子が一人いるのだが、そいつの左掌には力を感じる文字が常にあった。他のクラスメイトはそれが見えていないようで、どうやら霊感のある者だけが見えるものらしかった。

そんな特殊な文字は、あれしか思いつかない。

「………伊駒桧里」

「!」

ぼそり、と、確かめる為に小さな声で、しかし武瑠の耳に届くよう声を出し、その女子生徒の名前を呟く。

案の定、武瑠は反応し、中にいるのが体に封印呪がある伊駒桧里だと言う事が確定された。

「やっぱり、そうか」

しかし、武瑠はそれを否定しようとする。

「な、何言ってんの?桧里さんが…何?」

「隠そうとしても無駄だぜ?この家からは、お前の気配ともう一つ、何かが存在してる」

「な、何かって…。宗谷さん、わかるの?」

そう言い、眉を少し寄せた。まさか、とでも言いたそうな。

「…って事は、いるんだな」

「え?…っあ、そうじゃなくて!」

「入らせてもらうぞ」

言って、宗谷は扉が閉らないよう支えている武瑠の腕をくぐり、中にずんずんと入って行った。呆けた武瑠は一瞬遅れたが、慌てて宗谷を追う。

玄関を潜り、続く廊下を渡り、平屋にはあまり似合わないテーブルのある部屋を見つける。

そこには、二人分の食事の跡が残されていた。片方にはまだほとんど食事が残っていて、もう片方には魚の骨しか残っていない。そして、残っている側の椅子には何度か見た事のある花柄のエプロンが掛けられていた。

考えるとするなら、食事が残っていない方が武瑠で、もう片方が伊駒の食事あとなのだろう。

だが、何か違和感があった。妖力とかそういうものではなく、多分、食器の配置に伊駒との矛盾があるのだ。矛盾と言ってもささいな事。もしかしたら、ただの偶然か何かかもしれない。だが、気になる。

それは、箸の置いてある場所である。

人は箸を置く場合、自然と利き手側に置く。が、見ると箸は両方とも双方から見て左側に置かれている。武瑠は元々左利きなのだが、伊駒は右利きだったはずだ。九年間も見てきたし、間違いない。しかしこれでは、伊駒も左利きという事になってしまう。

そこで思い返す。外から感じた妙な気、まるで膨大な力が抑えられているような、不安定な気。そして、初めて見た時からあった、伊駒の左掌の封印呪。

間違いない。あいつは妖怪で、何らかの理由で力を封印されているのだ。その所為で、利き手が反転しているのかもしれない。

ここでやっと(遅い)武瑠が追いついた。

二人分の食器を見つけ、シンキングポーズをしている宗谷を見て、武瑠はぞっとした。宗谷が恐ろしいとかそういう訳ではなく、桧里の事がばれると、否、もう既にばれていると思ったからだ。

武瑠に気付いた宗谷は、厳しい目つきで武瑠を見上げ、言った。

「あいつは、どこだ」

何らかの方法でこの家に入り込んだ妖怪は、言葉巧みに武瑠を騙し、利用し、最後には喰らおうとしている。

それが、宗谷の考えだった。

武瑠は、今まで見た事のない宗谷の冷たい目を見て、怖くなった。彼は妖怪の事を知っているのかもしれない。ならば尚更、桧里に何をするかわからない。

否、今の彼なら、人間を食べる妖怪を、逆に殺してしまいそうだった。

それほど、恐ろしかった。

彼の瞳は、憎悪と、何かに対しての執着のようなものが入り混じり、黒く濁って見えた。

「…宗谷、さん…?」

「教えろ、武瑠」

宗谷は鞄に手をいれ、一尺ほどの何かを取り出し、言った。

「あいつはどこだ」

棒状の持ち手、先端には輪の形をした装飾があり、それに少し小さい輪が幾つか通っている。持ち手の部分は木で覆われていて、それ以外は全て金色。

きん!と、独特の音を立てたそれは、小さな錫杖だった。


***


インターホンが鳴ったと思ったら、武瑠があからさまに動揺し始めた。どうしたんだと訊くと、友達が来たかもしれないと言う。

来たら何だと言うのだ?何か困る事でもあるのか?とまた訊くと。

「困るに決まってんじゃん!桧里さんが此処にいることが知れたら、きっと大変なことになるよ!」

と叫ばれた。

「なぜだ?何が起こると言う?」

「目が紅い桧里さん見たら、誰だって変に思うでしょ!」

「そんなもの、何とでも理由を付ければ良い話だろう」

「俺嘘吐くの苦手だもん!」

頭を抱えて武瑠は言う。俺を騙したのはどこのどいつだ、という考えは考えだけにしておく。

「だったら、俺が隠れていればいいだろう。お前は客人の相手をしてこい」

そう言って箸を置き、食事をそのままにして、桧里はニ階へ上がった。それを見送った武瑠は、急いで玄関を出る。

武瑠の部屋の窓に付いている松葉色のカーテンを少し開け、隙間から外の様子をうかがう。客人は武瑠の影で見えないが、少し話しこんでいる。予想通り友人だった様だ。もし家の中に入るようでも、見つからないよう隠れていればいいだろう。

カーテンを閉めてベッドに腰掛ける。

しかし、武瑠の部屋に来たのはまずかったかもしれない。友人を招くとしたら、居間か自分の部屋だろうから、やはりまずかった。今からでも場所を変えるか。そう思い、立ち上がった時。

きん!と、一階から音がした。

それは、忘れる事のない、あの時と同じ音。

自分を封印した、法師の出した音と酷似したそれ。

聴いた途端、目の前が怒りで真っ赤に染まる。

脚に妖力を込めて瞬時に部屋を出る。音の出所に無我夢中でたどり着くと、錫杖を持った少年の首を掴み上げた。武瑠は驚いたように目を見開き、目の前の少年は苦悶の表情でこちらを見下ろす。

「…っぐ、出たなっ…妖怪」

「………貴様」

「や…やめてっ、桧里さん!」

「っは…俺を殺して、その後武瑠を、喰う気か…?ざけんなよ…妖怪がっ」

「………黙れっ…」

ぐっと、首を掴む手に怒りで更に力が加わる。それと同時に、鋭くなった爪が首に食い込み、血が流れた。

「やめてっ…やめてよ!桧里さん!」

武瑠が何か言っている。肩にしがみつき、俺の行為を止めようとしているようだが振り払った。

「っいた…桧里、さん…」

壁に体を打った武瑠に目もくれず、少年を更に高く持ち上げた。

「………っ」

だんだんと体から力が抜け、少年は錫杖を落とした。きん!とまた耳障りな音が響く。音によって怒りが増幅するように、首を絞める力が強まっていく。

こいつを殺す。俺をこんな目に遭わせた人間を殺す。

頭の中にはそれしかなかった。少年があのときの法師に重なる。怒りに染まった頭では、少年が武瑠の客人であり法師とは別人だということを理解できなかった。

「やめろおおおおお!」

武瑠の叫び声、きん!という音が耳元で聞こえた途端、今度は雷のような光が視界にった。殴られたことを自覚したときには、少年から引き離されるようにとてつもない力で弾き飛ばされ、今度はごん!という音が頭に響き、そこで意識が途切れた。


***


シリアスな場面から一転すると言うのは、きっとこういう事だと思う。

宗谷を救うために武瑠が錫杖で桧里を殴ったあと、桧里は雷のような光と共に弾き飛ばされ意識を失った。次に彼女が目を覚ました時、両手は楮家の大黒柱に繋がれ、身動きが取れないでいた。そこまでならまだシリアスな方だ。しかし、柱に繋いだ物が悪かった。

「………何だ、これ」

腕を動かすと、カチャカチャと音がする。見ると、後ろに回された手には、黒く、金の封印呪が描かれた…。

手錠が、かけられていたのである。

「………………」

何故手錠?という以前に、何百年も前に生まれた上に狐だった為、手錠という物を知らない桧里には、手錠プレイという言葉さえも知る機会は無かった。

そのため、この場合は手錠ではなく、それに描かれている封印呪に対しての反応しかできない。

が、縛る物が手錠になっただけで、シリアス感は吹き飛ぶのだろうか…。そういう疑問はきりがないので一旦忘れておこうと思う。

「封印呪…という事は、これはあいつが…」

あいつ、というのはこの場合、桧里が殺そうとした宗谷の事だろう。

桧里に殺されかけた宗谷は、武瑠のとった行動によってその首がはちきれる事は無かった。しかし、身体にかかった負担は決して小さくは無く、首に残った数本の指のあととそれと同じだけある切り傷が、桧里がどれだけ本気だったかを証明している。

その為、桧里が気絶した後もしばらくの間は宗谷も動けないまま、武瑠に運ばれた居間で休むことしかできなかった。

となると、桧里の考えは矛盾してくるのだ。

実は、桧里に手錠をかけたのは、他にない武瑠であった。

桧里が気絶し、宗谷は動けなくなり、彼を居間に運んだ武瑠はすぐに桧里のいる所へきびすを返した。壁際に倒れた彼女のそばには、宗谷の鞄が落ちていた。宗谷がそこからあの錫杖を取り出していたのを思い出し、武瑠は自分が桧里に対してつかったそれを、元あった場所に戻そうとした。

その時、鞄の中には元々する予定だった夏休みの宿題と、一尺ほどの長さのものとその半分ほどの長さのある、二つの巾着袋があった。大きい方は何も入っていないからの状態で、おそらくそれに錫杖が入っていたのだろう。試しに入れてみると大きくも小さくもなく、幅も少し余裕があるほどぴったり収まった。もう一つの小さいほうの巾着袋には、既に何か入っていた。これも同じようにぴったりと収まっている。中身が少し気になったが、勝手に開けては宗谷に悪いと思い、一度手にとってはみたものの開けはしなかった。だが、鞄から取り出した時に、チリン、と心地の良い音がしたのは印象に残っている。

そして、もう一つ。ふと、自然と目にとまった物があった。

黒い、金の文字が入った…手錠。

「えっ手錠?」

つい二度見をしてしまう武瑠。

あの、真面目だけが取り柄の、子ども嫌いな宗谷が、おもちゃの手錠を持っているなんて……。

「って……おもちゃなわけ、ないよね」

明らかに、刻まれている金の文字は封印呪だ。(ちなみに封印呪のかたちは桧里が実際に描いて教えてくれた)

武瑠は鞄からそれを取り出し、マジマジと見てみた。

やはり、手錠だ。どこからどう見ても。金色の封印呪がちらつくそれは、わずかに力を放っているようにも見える。まあとは言え、武瑠には霊感はこれっぽっちもないため、見えるといっても雰囲気でなんとなくなのだが。

最初は、手に取っても何をするでもなく、ただ見て、ただいじっているだけだった。しかし、武瑠はその時あることに気がついた。

これを使えば、桧里を暴れないようにできるのでは?と。

何故桧里が宗谷を殺そうとしたかは分からないが、目を覚ましてまた殺そうとしたならば、自分はもう一度宗谷を助けることができるだろうか?

不安だった。自分の力が足りないせいで、宗谷を失ったり桧里を傷つけたりしてしまう事が。自分は二人のように特別な力は持ってないし、積極性があるわけでもない。剣道部に所属していたが、特に強いわけでもないし、桧里を守ることも妖怪を相手にすることもかなわないだろう。

ならば、その前に止めればいい。

封印呪は妖力を封じ込めるものだ。と、桧里が言っていたのを思い出す。この手錠を桧里に対して扱えば、目を覚ましてもきっと思うように動く事はできないはず。

長くなったが、これが武瑠が手錠を使った理由である。もちろん、桧里にそれをかけるのに罪悪感はあったが、彼女を疑っている宗谷にこれ以上誤解させない為だと思い、その場を後にした。

しかし、一方そんなことは露知らず、宗谷が手錠をかけたと思いこんでいる桧里。その見知らぬ枷には、自身もよく知っている封印呪が描かれている。これだけでも、彼女の怒りを再度沸騰させるには十分な材だった。

法師に封印された時の事は、片時も忘れたことはない。彼女の持っていた物やその時に聞いた音も、すべて繊細に覚えている。だからこそ、宗谷の錫杖が鳴った時はすぐに分かったのだ。

それだけ彼女の怨念は深い。

「っふん!」

桧里は、太く大きな柱に回されている自分の腕を、力の限り引っぱった。前方に全体重を乗せて、枷と枷を繋げている鎖を引きちぎろうとする。

しかし、いくら引っぱっても鎖がちぎれる気配はない。ギリギリというような音が鳴る事もないし、枷自体が悲鳴を上げることも傷が付く事もない。

手錠がとても硬い、頑丈にできている。と言うわけではなく、封印呪が描かれているせいで本来の力を出す事ができないのだ。桧里は、はたから見れば華奢な体つきで、とても運動ができるとは思えないが、妖力の所為か馬鹿力と言うものを身につけているのだ。それが抑えられているため、手錠を付けている今は、もはやただの人間を下回るくらいの身体能力と言う事になる。これではとうてい手錠を壊すことはできないだろう。武瑠の案も上手くいったという訳だ。

しかし桧里は諦めることを知らない。諦めるという行為をしたことがないのだ。この何百年間、一度も。息切れをするほど腕に力を込める。が、やはり手錠がちぎれることはない。

その時だった。一瞬。微かに、しかしはっきりと正確に、彼女はそれを感じ取った。

遠くからこちらに近づいてくるそれは、無数の妖気だった。


***


それからはあっという間だった。

武瑠は宗谷のところに戻り、彼が目を覚ますのを待った。彼に桧里の事を説明して、誤解を解こうと決めていたのだ。しかしそれが叶う前に、悪夢は訪れた。

空が赤くなり始めた時だった。ふと、武瑠は窓の外に目を向けた。日が沈みかけ、青い空と赤い空の境目ができた。そこに、きらりと光る星が出たのだ。

「一番星…」

武瑠は星が好きだった。昼間に照る太陽や、夜を見守る月。空が暗くなってそこにちりばめられる幾億もの星は、まるで宝石のように輝く。少し乙女チックだが、そんなことは気にならないほど、星が好きだった。ゆっくり星を見るのは、なんだか久しぶりな気がする。桧里がこの家に来てまだ一日しか経っていないのに、とても長く感じたのだ。とても、長く。

そんなことを感じさせた一番星は、明るく輝いている。ゆっくりとその星をながめているうちに、武瑠は違和感をもった。今までで見てきた星との違いを感じた。

星が、とても近くにある様に見えるのだ。否、そう言うよりは、まるで星がこちらに向かって迫ってきているような…。輝いていたそれは、武瑠が瞬きをした間に光ることをやめ、黒く、漆黒の光を帯びてこちらに向かってきた。

それは、星ではなかったのだ。無数の、三本足の烏だった。

そうと気づいた時にはもう遅かった。烏の群れは武瑠めがけて猛スピードで迫り来る。そして次の瞬間には、部屋の窓を突き破り、二人に襲いかかろうとしていた。武瑠は身の危険を感じ、窓が割られる前に咄嗟に避けた。窓のわきにもたれさせておいた宗谷の身体を気遣いながら、衝撃を少しでも抑えようと、自分の身体で宗谷を覆う。

「…武瑠?」

その時、ようやく目が覚めた宗谷は、武瑠の表情と、彼の肩越しに見える今にも襲いかかってきそうな烏の群れで、現状を一瞬で把握する。

「…おはよう、宗谷さん」

「なに能天気に挨拶してんだよ!」

「だって…」何が起こっているか分からないから、ただ笑っておはようと言う事しかできないんだもん。と、心の中で思う。

「とりあえず今すぐここから逃げるぞ!」

「やっぱりあれって、逃げなきゃいけないモノ?」

「死にたくなきゃな!」

そう言って宗谷は立ち上がろうとするが、身体が重く、動きそうにはない。桧里の攻撃の影響が、まだ身体に残っているのだ。宗谷はそれを察知し、舌打ちをした。

「宗谷さんっ?」

「先に行け」

「えっ?」

「お前は先に逃げろ。身体が動きそうにない」

「そんな!」

「俺が普通じゃない事くらい、もうお前でもわかるだろ?俺はああいうの専門なんだよ。……それに俺は、足手まといにゃなりたくねえんだ」

そう言った宗谷はどこからともなく、短冊型の白い紙を出す。

「安心しろ。俺はそう簡単には死なねえ」

それを武瑠に向けて放った。その途端、突風のような覇気にあてられ、武瑠は部屋から押し出された。同時に扉もかたく閉ざされてしまう。

「宗谷さん!宗谷さん!」

扉を何度も叩き、彼の名前を呼ぶ。しかし返事は聞こえず、ただ烏の鳴き声が無残に響くだけだった。

武瑠はゆっくりと立ち上がり、二階に上がる。自分の部屋に入ると、迷うことなく押入れを開けて、ほこりをかぶった竹刀を取りだした。それは夏休みに入ると同時に引退した、剣道部だった時に使っていた物だった。

竹刀を収納している布を外し、それを取り出す。三年間だけだが、使い古した竹刀はまだ手になじんでいる。武瑠は竹刀を確認して、一度深呼吸をした。

今から自分がすることは、命知らずで無謀なことかもしれない。でも、今動けるのは自分だけだ。自分の身は自分で守らないといけない。

部屋から出た武瑠は、一階へ降りる。

あまりにも、静かだった。

さっきまで、烏の鳴き声が響いてやまなかったのに、ペタペタと裸足で歩く廊下はとても静かだった。ここは自分の家なのに、武瑠はこの時、酷く恐ろしく感じたのだ。

しかしそれもつかの間。廊下の角をまがった時に、それは現れた。まるで武瑠がこちらに来るのを待っていたかのように、大きな羽音をたてて鋭い目で睨んでいる。それは先程の烏の群れだった。心なしか増えているような気がするが、武瑠にとってはそれどころではなかった。群れの中で唯一赤い目をした烏の嘴に、その目と同じ赤色の液体が塗られていたのだ。

きっと、宗谷のものだ。と思った。あんなに弱っていたのに、烏はそれを気にもせず襲う。妖怪は、自分が強くなるためなら手段は選ばない。桧里がそう言っていたのを思い出す。

しかし、武瑠は宗谷を信じた。信じたかった。生きている、と。例え弱っていたとしても、あの宗谷さんだ。そんなに簡単に死ぬはずがない。これが終わったら、『無茶しやがって』何て言って、説教を始めるに違いない。

次の瞬間、武瑠の目が変わった。

それはまるで、強い相手に対して楽しんでいる剣士のような、たくましい目だった。

本気になったのだ。

竹刀を構え、こちらに迫る無数の烏に立ち向かう。妖怪に対して、喧嘩を売っているようなものだった。命知らずな、剣士だった。


***


家の中に妖怪が入り込んだことを、妖気とガラスの割れる音で察知した桧里は、どうにかして未だに外れない手錠を壊そうと試みていた。すでに、手首には擦り切れたあとが生々しくできており、血も滲んでいる。

しかし、やはり手錠は外れない。

武瑠が襲われていたらと思うと、気が気でない。この時だけは、桧里は宗谷を頼りたかった。彼が霊力を持っている事はすぐに気がついたし、何よりあの錫杖がある。彼が陰陽師だという事は明確だ。武瑠もそこまでは分かっていないだろうが、宗谷が妖怪に対して対等にやりあえる事はわかるだろう。だが、その宗谷も自分が殺そうとしたおかげで、今はまともに動けない。

「あの時、俺が怒りにまかせておかなければ……」

武瑠はきっと助かるのに……。

「今更後悔してんじゃねえよ……」

「!」

まるで地を這うような声だった。低く、怒りと苦痛が混ざったそれは、いつの間にか目の前にいた、血だらけの小さな陰陽師の発したものだった。身体のあちこち傷だらけで、服も破れ、そこからは刃物に斬られた様な物や、えぐり取られた様な傷跡が覗いている。服に染みついた赤は、なんとも生々しい。

「…陰陽師、お前」

「一回俺を殺そうとした奴が何ほざいてやがる!」

「っな」

今にも倒れそうな身体を支え、痛みを耐えて震えた口から出た罵倒は、ある意味では桧里を励ましていた。宗谷は壁を支えにして座る。

「陰陽師ってのは、てめえら妖怪からしたらただの死神だけどな、てめえのさっきの攻撃はそんなんじゃなかった!邪魔だから消すんじゃねえ、何かの恨みを晴らそうとするもんだった!」

「……だったら、何だよ」

「過去に封印されたんだろ……陰陽師に」

宗谷の答えは核心を突いていた。と言う以前に事実そのものだった。

「てめえの抑えられた妖気と左掌見て、一発で分かったぜ。陰陽師ってのも限られてくるが、どう考えても俺じゃあねえことぐらいてめえも分かってただろ。なんで俺を襲った?」

「…同じだったんだよ」

「あぁ?」

「音が全く同じだったんだよ!お前の錫杖と、あの法師の錫杖のが!」

片時も忘れたことのないあの記憶。

「なに?」

「錫杖を精製するのは至難の業、その時の気温や室温、環境だけで、音も全く同じ物が作られることは決してないと聞いている」

「じゃあこの錫杖が、お前を封印した陰陽師が持っていた物だって言いたいのか?」

「まちがいない。鮮明に覚えているからな……」

ならば、何故それを宗谷が?

「この錫杖は、俺が曾祖父から受け継いだ物だ。でも俺はこの錫杖の事はあまり分かってない。俺が生まれた時、曾祖父はすでに亡くなっていた。祖父に聞いても何も話してくれない」

きっと、これからもずっと、曾祖父の事は明かされないのだろう。

「……そうか」

一瞬の沈黙が訪れた時だった。

(うわああああああああ!)

「!」

確かに聞こえた、武瑠の悲鳴。きっと妖怪に襲われているのだ!

「武瑠……!」

「どうした?」

耳が良い桧里に対して、宗谷は何も聞こえなかったようだ。

「武瑠が!」

桧里の必死な表情で、宗谷も意味を捉えたようだ。彼の顔が驚愕で満ちて行く。

「まさか!あいつらあの札を突破したのかっ?」

陰陽師の妖怪との戦闘で、主である錫杖が手元になかった為、宗谷は封印力のある札を使って、烏の群れをあの部屋に閉じ込めておいたのだ。しかし、烏たちは札が剥がれるのを見逃さなかった。弱っていた上に烏の群れからの攻撃を受けた宗谷には、もうほとんど体力が残っていなかった。そのせいで、札をちゃんとはれていなかったのだ。

「くそっ!」

座って休ませていた身体を、無理やり持ち上げようとする。が、思うように身体が動かない。

「陰陽師!この枷を外せ!」

桧里はさっきから自分の自由を奪っているそれを、宗谷に見えるようにした。

「何でそれが…」

「お前がかけたのだろう!」

「俺じゃない」

身に覚えがない。ましてや、自分はずっと気絶していたのだ。桧里に手錠をかける時間なんてなかった。

「お前に手錠をかける暇があったんなら、その前に錫杖を取りに来るだろ」

「………」

珍しく桧里が黙った。

「わかったか、この妖怪が」

「手錠と言うのか、この代物は」

「ってそっちかよ!」

「そんなことはどうでもいい、さっさとこの手錠とやらを外さんか陰陽師!」

「それが人にものを頼む態度か妖怪?」

そう言う宗谷の後ろには、鬼が見えた気がした。

「俺は妖怪ではない。伊駒桧里という列記とした白狐だ!」

その時初めて知った。桧里の正体が、白狐だという事を。だが、

「白狐?嘘つけ、白狐は立派な善妖だ。それが封印されるわけがねえだろ」

「こうして封印されているだろう!今お前は弱っている、そんな体で妖怪を祓うことはできないだろう!」

信じることは難しかった。しかし、疑う余地がないのは事実。それに、この妖怪には謎が多い。自分の曾祖父も関連しているようだし。

何より、自分が妖怪を祓う事ができないのは本当だった。錫杖はあるが、自身の体力は無い。こんな状態では歩く事も困難だ。ならばこの妖怪に賭けるか……。

「陰陽師!」

「俺は陰陽師って名前じゃねえ。鴻上宗谷だ」

真実を知ることができるなら、そうするしかない。

「武瑠を殺したら、俺がてめえを殺す」

自分の身体に鞭打ち、宗谷は鞄から取り出した黒い鍵で、桧里の手錠を解いた。

「安心しろ。俺は武瑠に借りがある。それを一生かけて返すまで、あいつを守ると決めた」

自由を手にした桧里は、その場から消えるように走った。

「約束だぞ。……伊駒」

そう言った宗谷は、力なく桧里の縛られていた柱に背を預けた。


***


やはり、自分のしたことは無謀だった。無謀だとしか言えない、先のことを考えない、ただのバカのする行動だったんだ。今になって思い知る。

広い家の中を、ボロボロの竹刀を持って走り回る。烏の群れは自分の後ろをずっと追ってくる。運動は得意な方だが、相手は飛んでいるためすぐに追いつかれてしまう。竹刀を振り回してもまれにしか当たらない。それに、気のせいだろうか?最初の時よりも烏の数が増えた気がする。

「はあ、はあ、はあ…」

息切れが止まらない。走っても走っても、群れとの距離は離れずに縮まってしまう。この際、外に逃げたほうが…。いや、ダメだ。外に行けば、関係のない人まで巻き込んでしまう。一体どうすれば…?

その時だった。廊下の角を曲がると、そこに烏がいたのだ。後ろにいたはずなのにいつの間にか目の前に。

いや違う。ここは竹刀を部屋から持ち出して、最初に烏に出くわした場所だ。逃げるのに夢中になっていたせいか気づかなかったようだが、どうやら自分はいつの間にか廊下を一周していたらしい。烏の群れは最初から半分に分かれていて、目の前にいるのはきっと、俺がもう一度ここに来るのを予想して、挟み撃ちにしようと待ち伏せていたのだろう。なんて頭のいい烏だ。

足を踏ん張って止まろうとしたが、全速力で走っていたから急にそんなことはできず、俺はその群れに突っ込んでしまった。このまま走り抜けようとしたが、一度は止まろうとした為足がついて行かない。

烏達はそんなことはお構いなしに、鋭い嘴で体をえぐってくる。体中に走る痛みは、まるで電流が駆け巡っているようだった。

「うわああああああああ!」

痛みに悲鳴をあげる。えぐられたところからは血が流れ出し、だんだんと熱を帯びてきた。流れた血が腕を伝って、竹刀を握る手をぬらす。

痛む体を無理に動かして、視界を覆う黒を竹刀で振り払うも、それが減ることはない。その時、血で滑って手から抜け飛んでしまった竹刀が、偶然赤い目をした烏に当たった。するとなぜか群れ全体が止まったのだ。それを見て、目の前の烏を押しのけて走り出す。烏は止まったまま追いかけてこない。そのすきに階段下にある物置きに身を隠す。小さくて見つかりにくいが、体はギリギリ入るし隠れるにはもってこいだ。

「……これからどうしよう」

ボロボロでも唯一の武器だった竹刀は飛んでしまった。そのおかげで逃げることはできたが、物置きの中に竹刀の代わりになりそうな物はない。

傷が痛む。血も止まらない。夏だというのに、なぜか物置きの中が寒く感じる。足を曲げて膝を両腕で包む。だんだんと体の感覚がなくなっていく。

怖い。

まるで死ぬ寸前みたいだ。そんな状態になったことはないけど、体が弱っているのはわかる。休む間もなく走り続けていたせいか、体力も限界だった。

もし今あの烏に見つかったら、きっともう逃げられないだろう。

逃げられず、されるがままに喰われ死ぬだろう。

もし、そうなったら…。自分が死んだら…。桧里さんは、宗谷さんは、どうなるだろう?どう、思うだろう。

恐い。

「…助けて」

死ぬのが、恐い。

「桧里さんっ…」

「呼んだか?」

「っ!」

体に射す光り。体を包む温もり。冷えていたそれが、温かみを取り戻していく。

まるで、体の中から温まっていくようだった。

抱きしめられ、彼女の笑顔を見て、ホッとする自分がいた。

知らず知らずのうちに、涙を流していた。

「頑張ったな、武瑠」

優しい声と、温かい手。

安心で力が抜けそうになった。

「動けるか?」

「大丈夫」

ゆっくりと体を動かし、物置きから出る。体に鞭を打って立ち上がるが、少しふらつく。

「よく、ここがわかったね」

「血のにおいを追ってきたんだ。あの陰陽師のものとは、別のにおいがあったから、もしかしたらと思って」

桧里さんによると、白狐は聴覚と嗅覚が獣並みに良いらしい(狐も獣だが…)

「やっぱり、宗谷さんも怪我してたんだ」

「ああ。全身傷だらけだったが、手当をして少しの間休めば、すぐ動けるようになるだろう。結構図太そうだし」

「あははっ」

良かった。

「さあ、俺たちは妖怪退治をするぞ。早く終わらせて、お前と陰陽師の手当をしないと」

「うん!」

そう言い、一旦階段の下に座る。

「相手はどんなやつだった?」

ずっと縛られていたから、桧里は何が家に侵入してきたかを知らない。

俺は、あの烏の群れのことを事細かに話した。

「…なるほど。そいつは、きっと八咫烏やたがらすだ」

「八咫烏?」

「足が三本ある烏の群れ。その中に、赤い目をした烏がいただろう?」

「うん」

「そいつが本体だ。ほかの群れはその本体が作り出したモノ。いくら攻撃したって分裂してしまう」

「攻撃すればするほど、群れは増える?」

「そうだ。増えれば本体の防御も変わるし、攻撃力も上がる。何より、八咫烏は頭が良い。下手な作戦は打たないほうがいい」

「…じゃあ、これしかないね」

「え?」

武瑠は桧里に耳打ちする。その表情はどこか涼げだ。

「…なるほど。…しかしそのままだな」

「ストレートって言ってよ」

「そっちの方が、なんか悪くないか?」

清々しい顔で言われると、なんだかこわいが。

自分と宗谷をボロボロにした相手だ。いつもは優しい武瑠も、今回は容赦という言葉はでないらしい。

「竹刀も壊されちゃったし」

「それが本音か?」

「まさか」

「…ならいいが」

ともあれ、作戦(の様もの)は決まった。

「早速実行だ」

「うん!」

「武瑠は危ないから、ここで隠れてろ」

「…うん」

明らかにテンションが下がった。

「お前…絶対自分も戦うきだったろ」

「だって!」

「お前は怪我をしてる。何より、お前のような霊力を持たない人間は、妖怪とやりあっても死ぬだけだ。今回は怪我で済んだが、次は無い。…いいな?」

「…わかった」

そう言って頷くのを見て、武瑠の頭を撫でる。桧里は立ち上がり、廊下に出た。

一見静かだが、耳をすますとわずかに羽音が聞こえる。こちらに近づいているようだ。前からと、後ろから。また二つに分かれているのか。

さあ、どちらに本体がいるのか…。

前か?後ろか?

「当たって砕けろ…か」

下手な作戦が打てないのなら、ただ単純に突っ込めばいい。それが武瑠の作戦だった。

「まあ作戦とも言えないが。…武瑠らしい」

羽音が近い。もう、すぐそこにいるみたいだ。足と手に妖気という名の力を込める。するとみるみるうちに、双方の爪が長く鋭く変化していく。すでに鋭利な刃物と化した。

前方からの八咫烏の群れを待つ。音で判断するのは苦手じゃないが、あまり好きじゃない。人間の姿になってから、耳も鼻もおちた気がするからだ。

音というものは、周りの環境で響き方が変わる。廊下の角を曲がるのと曲がらないのとでは、音も全く違うのだ。それが変わる瞬間。否、それよりも少しだけ早く動かなければ、不意をついて突っ込むことはできない。

ついにその瞬間が来た。こちらに本体がいる事を祈る。

体を前に倒し、床板に足の爪が食い込むほど、床を思い切り蹴る。次の瞬間には、黒い塊が姿を現しており、その中に突っ込む。邪魔をしようとする烏を腕で叩き落として行くが、本体の姿はない。

足の方向を真逆に変え、体をねじる。再度床を蹴ると、反対側にはすでにもう一つの黒い塊があった。その中に、赤く鋭い光を見る。

いた。

本体めがけて一直線に走る。他の烏はそれに気づいたようで、一斉にスピードを上げ、攻撃を仕掛けてくる。向かってくる烏をまた腕で叩くが、数が多い為すべて落とすことはできず、顔や腕に嘴で傷をつけられる。目をつつかれるのだけは避けなければ。

その時、視界に赤い光が見えた。そちらに手を極限まで伸ばすが、今度はその腕を中心的にえぐられる。痛みを感じつつも、さらに腕を伸ばした。本体をつかもうとするが、増殖した烏が邪魔でつかめない。

「邪魔するなああああ!」

体を回転させるように動かし、一気に周りの烏を爪で切り裂く。一瞬だけ視界が晴れた。そこには、無防備になった本体がいた。もう一度床を蹴り、腕が届く範囲まで接近する。腕を後ろに引き、思いっきり、振る!

ザシュッと音をたてて切り裂かれる八咫烏。最後に悲鳴をあげるように鳴いて、本体は黒い煙になって消えた。それと同時に、何十羽もの烏も同じように消える。

ようやく、妖怪退治が終わった。

頬にできた切り傷から血が流れ、同じような傷がいくつもできている腕でそれを拭う。武瑠や宗谷と比べて傷の数は多いが、ほとんどが切り傷で、えぐられたものが多い二人よりは軽傷と言える。

「……はあ」

なんだか、久しぶりに妖怪を祓った気がする。

武瑠の家に来てから、まだ一日しか経っていないのに。時間が流れるのが遅く感じる。その点では、桧里も武瑠も考えは同じのようだ。

八咫烏の血で染まった手を見て、再度ため息をつく。

自分の手は、すでにたくさんの妖怪の血で染まっている。人間を妖怪から守るためには仕方のないことだ。しかし、こんなに汚れた手で、自分は武瑠に、人間に触れてもいいのだろうか。

他にも不安はいくつもあるが、悩んでいても意味がないこともわかっている。今は前を向いて、止まらずに歩き続けるしかない。

服で手の血を拭い、桧里は武瑠のもとへ足を進めた。


***


その後、二度目の気絶から目を覚ました宗谷と、もう少しで失血死になりそうだった武瑠の手当をし、ようやく桧里の手当も施した。

なんとか、桧里が本当に白狐であることを認めさせ、武瑠に害を及ぼすことはしないと、宗谷にかたく誓った桧里。彼女が昔、女の陰陽師に封印されたことも話すと、宗谷はその陰陽師の事を調べてみると言ってくれた。

聞くと、宗谷は小学生の頃に病気で母親をなくしたらしい。その頃から、妖怪や霊の存在を知り、祖父に修行をつけてもらったそうだ。

ただ、母親のことを聞こうとすると、やはり辛いのか、表情を暗くしてしまう。

「俺は…人に化けて人を騙す妖怪が大っ嫌いなんだ」

彼がぼそりと放った言葉は、まだ桧里の頭に残っている。彼女に向けて放たれたようにも感じたが、実際は違う。彼は、妖怪の中でも人に化けるモノを一段と嫌っているらしい。否、細かく言うならば、人にとり憑くモノ。その真意はわからないが、彼のそれに対する怨念は、桧里が法師に対するものと同じだった。それほど、妖怪を憎んでいる。

これからも、妖怪は武瑠を狙ってくるだろう。おそらくそれは、強いモノ(すなわち桧里)が近くにいない時。今回もそこを突かれた。

武瑠を守ると約束した以上、自分の命を賭けてでも彼を守り通す。と、桧里はかたく決心した。



(第二話 陰陽 終)

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