第一話 逢(あい)
雨の日の翌日と言うのは、大抵がまた雨か晴天晴れのどちらかであろう。どうやら今日の場合は後者のようだ。
屋根にとまっていた雀が囀り羽ばたく中、その家の唯一の住人である楮 武瑠は目を覚ました。
とは言っても、武瑠はまだ中学三年生の受験生であり、親が既に亡くなっていて一人暮らしをしているという訳ではない。武瑠の両親は父親が日本人で母親がタイ人であり、実質上その間に生まれた武瑠は日本とタイのハーフと言う事になる。しかし、日本で生まれ、日本で育った為、タイの言葉を話せると言う訳でもないし、黒人同様黒いという訳でもない。ただ少し日本人より肌が焼けているように見えるが、それは個性として取られる程度のものだろう。実際、彼の周りには更に肌が黒い者もいたりする。
話がそれたが、今この家に武瑠の両親はいない。
それは、夏休み初日に二人が出逢った場所だと言う母親の母国、タイに長期の旅行に出たからである。その為、二人の邪魔をしたくなかった武瑠だけこの家に残っているのだ。
だがしかし、今この家に存在しているのは武瑠だけではない。ペットかと訊かれれば、確かに白猫のミルクを飼ってはいるが違うと言えよう。
そこまで難しい問題でもない。答えは人間だ。しかし、人間と言っても迷子になった子供をとりあえず預かっているという訳ではなく、両親が旅行に出たという事を知らずに来た親戚と言う訳でもない。
焦らさずにさっさと教えろと言われては困るのでここで発表しておこう。
伊駒 桧里と言う少女だ。
武瑠のクラスメイトであり、特別仲が良いという訳でも悪いという訳でもない。同じ部活に入ってはいたが、最後の大会が終わり既に引退しているし、話した事があるのかと訊かれれば、頷けるかは分からない程度である。
つまり微妙だ。
そんなクラスメイトが家に居る。それは何故か。
遊びに来たという前提すら首を傾げなければならないだろうが、まあとりあえずそうだとしよう。
考えてみよう。今は何時だろう。
最初に綴った通り、武瑠は今起きたばかりだ。
別に武瑠は、休日は起きるのが遅いという訳ではない。それなのに既に桧里は家の中に居た。
これはつまり、どういう事か。これまた答えは簡単。
桧里は昨日からこの家に居た。
つまり、一泊したという事だ。
***
「あ、お、おはよう」
目が覚めた武瑠は目の前にいる少女(桧里)に声をかけた。
しかし、返ってきたのは典型的な返事などではなく、規則正しい寝息だった。目を開けた途端桧里の顔だった為、一瞬で緊張の糸が張られ、起きていると勘違いしてしまったようだ。
自分の早とちりに気づいた武瑠は張った糸を緩め溜め息を吐いた。
今更ながらも自分は昨日、何故あんな事をしたのだろうと思う。雨の中、公園で傘もささずに一人ベンチに座っていたクラスメイトを、嫌がらなかったとはいえ、自分の家に連れ込んだのだ。今頃彼女の両親はさぞ心配しているのだろうと考えると先が思いやられる。
静かにベッドを出た武瑠は、床に敷いてあった布団を音を立てないよう気をつけながら押し入れにしまい部屋を出た。木製の家の木製の階段を降りながら、武瑠は更に思った。
そもそも、普通に出て普通に反応してしまったが、何故自分は彼女と一つのベッドで共に寝ていたのだろうか。
自分は昨晩、確かに彼女の為に布団を用意し、彼女もそれに何も言わず入り床に付いたはずだ。しかし事実、彼女は今朝、ベッドに潜り込み熟睡していた。少し上擦ってしまってはいたが、自分もそれなりに大きな声でおはようと言ったはずなのだが、彼女はそれに気づかないほど熟睡しきっていた。そして何故かその彼女と自分の間にミルクまでもいた。彼女はミルクを抱きしめて寝ていたのだ。(いや、決して邪魔だとか、お前がいなかったら今頃彼女は俺を抱きしめていたはずなのに、とかは思っていない)
彼女は猫が好きなのか、ミルクを抱きしめた状態で眠りたかったらしく、昨晩も確か二人(この場合一人と一匹が正しいであろう)で布団に入っていた。考えられるとすれば、自分が眠った後にミルクがベッドに入り込んできて、彼女も猫欲しさで入ってきたのかもしれない。否、そうとしか考えられない。
ふと、武瑠は何故桧里が昨日雨の中公園に居たのだろう、と、今更ながらも考えた。
それに、そこまで話した事もないような男子の家に連れてこられたというのに、まったくと言って武瑠の事を気にしていない。という以前に眼中にすら入っていないような気さえする。
何故桧里は、そんなに周りに無関心なのだろうか。
少なくとも学校では周りに興味・関心を持ち、普段から笑顔だった。
しかし、思えば昨日武瑠が桧里を拾った時から、彼女は一度も笑顔を見せていないのだ。
人間は、一日中無表情でいる事が果たして可能なのか。
武瑠には、そんな事は難しすぎてできる訳がない、と自分でも自負しているらしいが、彼女の場合はどうなのだろうか。
学校と普段では態度が全く違うのか。
学校での笑顔は紙に張り付けた偽物なのか。
はたまた二重人格なのか。
そして更に、もう一つ大きな疑問、否、謎があった。
それは、彼女の瞳の色である。
普通、日本人の瞳(この場合目と言った方が良いかもしれない)は黒か茶色だと言われている。しかし、昨日から見てきた彼女の瞳は、見間違える方がおかしいくらいはっきりとした紅だった。
そう、昨日からである
昨日より以前、つまり夏休みが始まる前までは、彼女の瞳は黒かったはずだ。と言うかそれ以前に、紅い瞳を持って生まれてくる人間など存在するのであろうか?
碧眼、いわゆる青い瞳ならわかる。外国人がいい例だ。しかし紅となると見た事はおろか聞いたこともない。いや、昨日から見てはいるが…。
これはつまり、どういう事なのだろう。
常識として考えられるとすれば……カラーコンタクトか?
いや、何の為に付ける必要がある。何らかの理由で人目を集めたかったのかもしれないが、それならば何故昨日付けたのか。昨日は夏休み初日と言うのに雨に見舞われた。それも小雨程度のものではなく、大雨だ。自分は傘をさして出歩いていたが、人とすれ違った覚えは無い。それほど雨が降っていたのだ。外に出る気だって失せる程。
ならば…薬とか…?
いやその考えは却下だ、やめておこう、頭の中からかなぐり捨てておこう。何故かと言えば薬が絡んでくるといろいろと面倒だからだ。
まあとりあえず、今の彼女が普通ではない事は確かだ。
それにこのまま話をせずという訳にもいかない。彼女が目を覚ましたら温かいご飯と共に迎え、そのまま話を訊こう。
……と、漸く桧里への疑問が頭から離れる武瑠。
武瑠の桧里が普通ではないという考え等は、いずれも当たらずとも遠からず。否、当たっているのかもしれない。
その事実は後に嫌でも聞かされることになる。
***
目を覚ました途端、何かが焦げたにおいと共に男の悲鳴が聴こえる。
桧里の腕から抜け出した猫、ミルクはベッドから床へと飛び降り伸びをした。
ぬくもりを失った事に気付いた桧里は、光の灯っていない、まるで死人のような目を開けゆっくりと起き上がった。
「………………」
起き上がったは良いものの、桧里は無表情のまままるで動こうとはしない。
それを床で見るミルクは、自分を腕に納めていたのがこの家の主人じゃない事と、どうして桧里が動かないのかを疑問に思い首を傾げた。
その時、階段を急ぎ足で昇ってくる音が聴こえ、ミルクの白い耳がピクリと反応した。
ばんっ、と、音を立てて開いた扉。そこには何とも可愛らしい花柄のエプロンを身に付けた武瑠が焦った表情で立っていた。
大きな音を立てて突然扉が開いた為、びっくりしたミルクは急ぎ足で武瑠の横を通った。武瑠はそんなミルクに目もくれず、自身の登場にも反応を示さず、未だにぼーっとしている桧里に近寄る。
雨でびしょ濡れになった桧里の服は、昨日洗濯して今は庭で干されている。しかしちゃんとした正しい方法で洗濯できているかは武瑠にはわからない。それは、単に武瑠が不器用なのに加え、女子の下着を触ると言う行為がいろんな意味で難しすぎて、べたべたと触る事はしなかったからである。しかし一番の原因は、武瑠の頭がヒートして、その時の事をあまり覚えていないせいだろう。
まあとにかく、代わりに今桧里が着ているのは武瑠の服だ。
あくまで仮定だが、武瑠の身長は約百六十八センチ。そして桧里の身長は約百五十六センチだ。身長差が十二センチある女子が男子の服を着ると当たり前のようにぶかぶかになる。
襟口から覗く胸元に、武瑠は顔を赤く染めた。しかし桧里はそのことにも気付かない。まるで、この部屋に桧里以外誰もいないように、何に対しても反応を示そうとしない。
「あの……桧里さん」
勢いよく部屋に入ったは良いものの、ミルクのように驚いたりしない桧里に、先程までの焦りは消え、気まずそうに声を絞る武瑠。(名前呼びなのは小学校が一緒だった時からの名残である)
「実は…ね、桧里さんにあったかいご飯つくろうと思ったんだけど、さ…」
語尾に近ずく度に、武瑠の声は申し訳なさそうに小さくなっていく。
「………ごめん。失敗しちゃった」
どうやら『温かいご飯と共に迎え、そのまま話を訊く』と言う武瑠の作戦は、自分の実力を忘れていた自分自身の失敗に終わってしまったようだ。先程の焦げたにおいは黒焦げの魚をつくってしまったからである。
「あはは、俺こういう家事とか全然ダメなんだー。自分でもできない事すっかり忘れててさ。こんなんで夏休みやってけるのかなー……」
極力穏やかに言っているが、男とは言え家事くらいできなければダメだろう、と、心の中では自己嫌悪に達している武瑠。
しかし、そんな武瑠のダメダメなところが出ても、やはり反応しない桧里。
「……あー、そんな事桧里さんからしたらどうでもいい事だよね…」
大抵の短気な人間なら、この時点でもう既に「いい加減なんかしゃべれよおい!」と掴みかかっているであろうが、武瑠はとても気が長い為、そんな事は絶対にしない。そしてこれは気が長いという以前に、武瑠の少し抜けているところや、天然なところなどもプラスしてると言えよう。
しかし、そんな武瑠でも、流石に昨日から一言もしゃべってくれない、話してくれない、反応さえもしてくれないとなると、キレる以前に「自分は嫌われているんだ」と思いこんでしまう。しまいには某漫画のように押し入れにこもり、きのこを栽培してしまう羽目になるだろう。
そこで武瑠は行動に出た。
と言っても、寝ている人を起こす時のように肩に触れてゆするだけの事だ。
しかし。
「……ねえ、桧里さん?」
とん、と。
武瑠の手が桧里の肩に触れた時。
「……………っ…」
「え…?」
一瞬。武瑠の手が触れた一瞬だけ、桧里の紅い瞳にひかりが射し、同時に彼女が少しだけ反応したのが分かった。
紅い瞳。
まるで、ガーネットをそのまま入れたような煌き。
しかしそれも一瞬で散り、また絶望に満ちた瞳に戻ってしまう。
次の瞬間、桧里の体はふらりと揺れ床に吸い込まれていく。
「えっ?か、桧里さん!」
隣にいた武瑠は反射的に桧里の体を支える。
その時、何かが桧里の中から飛び出した。
「なっ。何だ……これ……」
武瑠は桧里の体を支えながら目をこすり、これが目の錯覚か何かではないかと確かめてみるも、現実のようだ。
黒く、モヤモヤとした何か。
それは宙に浮かび、がさごそと動いているようにも見えた。
見たこともない、生き物とも思えないそれは、生きているように動いていたのだ。
しかし、動いたと思ったら次にそれはまるで霧のように、消えた。
跡形もなく、消えたのだ。
「なん、だったんだ……?」
幾度も瞬きを繰り返す武瑠。
奇妙な現象が目の前で起こり、部屋に来た時の焦りとは違う焦りを体中で感じる。否、焦りと言うよりは、信じられない出来事に対して驚愕したと言った方が正しいだろう。
「………夢喰いだ」
腕の中から突然声がし、びくっとする武瑠。
目を向けたそこには、先程見た紅い煌きがあった。
***
「………………」
「……………っ……」
「………………」
「………いい加減なんかしゃべれよおい!」
どげしいっ、と効果音がするような威力を持った蹴りが、桧里の前でぽかんと魂が抜けたような情けない表情をして正座している武瑠の左肩に直撃した。
声を上げずに反動で後ろに倒れる武瑠は、床に頭を打ってようやく戻ってきたようだ。こめかみに青筋を浮かばせた桧里を、信じられないものを見るような目で見ている。
先程の黒い何かを見た時のように。
「そんなに寺子屋での俺との差が激しいか、小僧」
ベッドに腰掛け、腕を組み、武瑠を睨む桧里。
それは先までの無反応・無表情とは全く違い、感情のある普通の人間の姿だった。
しかし、武瑠のようなクラスメイトなら思うだろう。「違う」と。
普段の学校では、彼女は極力穏やかで武瑠と同じく気は長い方だった。一人称は『私』だったし、二人称は『○○さん』だったはずだ。
しかし、今の桧里は短気な人間の例をそのまま撮って映した様な物言いで、そこまで長くもない沈黙をすぐに破りキレた。その上、容赦なく武瑠を蹴りあげ小僧呼ばわりしている。更には自分を『俺』と言っている。学校を寺子屋と呼んでいて、言葉も少しおかしい。まるで、江戸時代の人間と現代人の言葉が入り混じっているようだ。
「小僧って…同い年だよね?俺達」
なんとか顔の筋肉を働かせ、苦笑しながら言う。
「同い年だ?お前は何百年も生きているとでも言う気か?」
「え……?」
「………まさかお前、先の俺の話を聞いていなかったのか」
「いやまさか!ちゃんと聞いてましたよ!」
眉間に皺を寄せて目を細める桧里の、洒落にならない圧力で敬語になってしまっている武瑠。
いやしかし、人間とは目が紅いだけでこうも怖く見えるだろうか。
「ならば普通、俺とお前が同い年だなどと思える訳がなかろう?」
「……………えっと…」
自分の考えの間違いがわからないからか、夏特有の蒸し暑さからか、武瑠の額からは数滴の汗が流れていく。
「お前……馬鹿なのか?」
「……さぁ」
「俺は、てっきりお前は頭が良いのかと思っていたのだが……思い違いだったようだな」
目を閉じ溜め息をひとつ吐く。
「あの……どうしてそう思ったんですか」
「………お前が、俺を救う事が出来たからだ」
「え?」
「……いや。やはり今は、その事よりも先に話すべき事を話しておかなければ、結局はわかるまい」
桧里は組んでいた腕を解き、両手を握り合わせてそのまま前かがみになった。
「とりあえず、そのままではそのうち足も痺れるだろう。座れ」
ベッドの自分の隣を目で示し促す桧里。武瑠は汗をシャツで拭うと、無言で桧里の隣に座った。
「先に言った通り、俺は妖怪だ」
先に言っておくが、俺は人間ではない。妖怪だ
瞳にひかりが宿った後、桧里は唐突にそう言った。
そして、今俺の体から出たモノも同じ妖怪だ
次にそう言われ、武瑠は意味が分からず目を見開き、ただじっとこちらを見る紅い瞳を見つめ返していたのだ。
この世に妖怪と言うものが存在していたという事実は、はっきり言って受け入れられない。あり得ない事実を受けれるなんて事、武瑠にとってはそれこそあり得ないのだ。
それは自分だけではない。誰だって妖怪なんて存在信じるわけがないのだ。
「信じられないかもしれないが、これは事実だ。お前も目にしただろう」
しかし、自分は今それをこの目で見た。触れてこそいないが、あれは確かに実在していた。
「この世には、死んだ者が地上に悔いを残し逝ききれていない状態の「霊」と、力を欲するが為に霊から進み、後戻りのできない状態になってしまった『妖怪』が存在する」
成仏が出来なかった霊と、進化した妖怪。
「霊は生きている者にとり憑くことができてな、その力を悪用するものを『悪霊』と呼んでいる」
生きているものにとり憑く悪霊。
「妖怪はほとんどが人間の命を狙っていて、隙あらばといつも人間をみている」
人間の命を喰らう妖怪。
「その妖怪から人間を護るのが、数少ない善の心を持った妖怪…『善妖』だ」
妖怪から人間を護る、善妖。
「俺も善妖でな、人間の命は喰わんから安心しろ」
「善妖……」
「誇り高き白狐だ。……今は封じられているがな」
「封じられて……?」
憂鬱そうな顔をして言い、桧里は大きく溜め息を吐いた。
「白狐は神社の守り神として祀られている。それは知っているだろう?」
「……もしかして、お稲荷さんとかこっくりさんの事?」
「そう。人間からすれば神社の方をまもっているように思えるだろうが、実際はそうではなく、そこに祀られている秘宝を護っているんだ」
「秘宝?」
「『神の涙』と言われる、強大な力を持った宝。それを神社で護るのが、俺達白狐の役目だ。俺も、百年程前までは京にある神社でそれを護っていた」
「護っていた?」
意味深に過去形なその言葉に疑問を持ち訊き返す。
「……ずっと昔、俺の前に一人の法師が現れた。そいつが俺に二つの封印呪をかけた」
「封印呪?」
「法師が妖怪を封印する時に使う特殊な字だ。それによって俺は妖力をなくし、強制的に人間の姿にされ、神社を追い出された」
肩まで伸びた髪をいじり、桧里は続ける。
「何もできず、ずっとさまよい歩き続けていると、出雲にある祠でこれを見つけた」
そう言い、武瑠の前に左腕を出す。
そこには、黒い石で作られた二連数珠があった。
「そういえば、昨日からずっと付けてたね」
公園で見つけた時から、肌身離さず付けていたものだ。
「これ、なんなの?」
「『封印呪破りの数珠』。これを身につけている間は、身体能力とか性格とか……あと、瞳の色が元に戻るんだよ。少しだけなら妖力も」
「……ってことは、これを付けてなかったら、ただの人間になるの?」
「まぁ、周りから見ればそうなるだろうな」
「へぇ……」
つまり、学校での桧里は数珠をつけていない人間の状態という事。今の妖怪の状態の彼女と違いがありすぎた訳である。
「……で、そのままこの街に辿りついてな。その時見た目は小学生くらいだったから、近くの寺子屋に通い始めた」
「入学する年が偶然一緒だったんだね」
「……今思ったんだが、お前はまさか同級生とやらか?」
「……え?」
不意にそう訊く桧里は、本気で武瑠の事を知らないらしく、眉間に少し皺を寄せ、首を傾げて見せた。
「うん。俺達、小学校一緒。中学校も一緒。同じクラスになったのは初めてだけど…。もしかして人間の時の記憶って、無いの?」
「……その通りだ。すまないな。この姿で同級生に逢うのは初めてで……」
「……そっか。いや大丈夫。傷ついたりしてはいないからそんな申し訳なさそうな目で見るのやめて!」
「す、すまん。何分、人間と対等に話すのはあまり慣れていないものでな。どう反応すればいいのか、いまいちわからん」
手を口元にやり唇をいじりながら言う。
「桧里さんって、動揺とかすぐわかるね」
「え……」
「さっきは髪いじってたよ」
自分の短い髪を代わりにいじって見せ、にこりと笑う武瑠。それを訊いた桧里は少し意外そうな顔をした。
「……良く見てるんだな」
「こ、このくらい誰だってわかるよ」
急に褒められ、頬を掻きながら謙遜する。
「集中していないと出来るようなものじゃない。話を理解しながらちゃんと相手の行動を見るのは案外難しい事だ。観察力に長けているんだな」
いい事だ、と続けた後に微笑する桧里。
そして、武瑠はその桧里を見て目を見開いたまま一時停止。
「……?おい、どうした。なぜ止まっている。おい!」
止まった武瑠を大げさな程揺さぶるも、反応がない。……という訳ではなく、桧里の揺さぶりは尋常じゃないくらいきつかったらしい。すぐに音をあげた。
「か、かいりざん!」
「す、すまん!何かあったのかと焦って力を入れすぎてしまった」
どうやら、人間と妖怪では身体能力が大きく異なっているようだ。
「頭がすっ飛ぶかと思った……」
首をさすりながら言う。冗談ではなく本心だ。揺さぶられる時に掴まれた両肩だって、悲鳴をあげている。
「ご、ごめん。桧里さんの笑顔……なんか、久しぶりに見た感じがしちゃって」
紅い瞳になってからは初めてだけど、という言葉は呑み、苦笑しながらまたも驚いた表情の桧里を一瞥する。
「そう、か。寺子屋では、そんなに笑っていたのか……俺は」
「……うん」
視線を落とし、左の掌をじっと見る桧里は、悲しげな面持ちをする。何もないそれに、何か怨念のようなものを抱くその顔を見て、武瑠は不思議に思う。
「……何か、あるの?その手に」
パッと顔をあげた桧里にもう先程の顔色は無いが、咄嗟に閉じられた左手にやはり何かあるのだと武瑠は確信する。
「…さっき言っただろう?……封印呪だ。霊感の無い人間には見えないだろうがな」
眉間に皺を寄せ、左手をぐっと握る。
「これがなければ、俺は今もずっとあそこにいて秘宝を護っているはずなのに……。何故善妖の俺が力を封印されなくてはならないんだ。あの法師は…何がしたかったんだ」
手に爪が食い込む音がした。
武瑠は桧里の悔しそうな表情を見て、何を思ったのか、強く握られた左手を自らの両手で包みゆっくりと開いた。案の定、手には爪の跡が残っており、その内の幾つかからは血が滲み始めていた。それを見た武瑠は眉を寄せ、指で優しくなぞっていく。
桧里はじっと武瑠を見つめる。
人間の優しさに初めて触れたような気がした。
「……お前は、優しい人間のようだな」
「俺は、自分の心に素直に行動してるだけだよ」
「…なぜだ?」
「え?」
「妖怪は、人間を喰らうんだぞ?俺はそうはしないが…化物なことに変わりは無い。なのになぜ……お前は優しくできる?」
当然と言えば当然。妖怪とは、誰もが嫌う存在である。
「なんでって言われても、そんなの難しくてわかんないよ。俺からしたら、君は普通の女の子と変わらないもん」
「見た目に騙されてるんだよ……」
「ううん、そうじゃない」
首を横に振り、武瑠は微笑みながら続ける。
「俺、君を拾った時から決めてたんだ。君の瞳にひかりを取り戻して見せるって」
「……ひかり……?」
「うん。君からあの妖怪が出てきてひかりは戻った。でもね、それで終わりじゃ駄目だと思うんだ」
優しい瞳が、強い意志のこもったものに変わって行く。
「俺は君に、幸せがどんなものなのかを知ってもらいたい。そんで、幸せになってほしい。心から笑えるようになってほしいんだって、思ったんだ」
桧里の両肩に手を置き、なだめるような姿勢になる。
「人間にも妖怪にも、幸せになってほしいんだよ。だって、妖怪だって元はこの世に生を受けた生き物だったんだろう?だったら、死んだって元は変わらないはずだよ」
桧里は、武瑠のまっすぐな瞳に吸い込まれる感覚に陥った。
「君は、幸せになるべきだよ!」
ぷつり、と。
桧里の中で、何かが切れた。
***
「………落ち着いた?」
頭を撫でていた手を止め、胸にしがみ付く桧里にそっと訊く。
「……多分」
ぐすり、と鼻をすする音が聴こえる。
俯いている桧里の顔は見えないが、先程まで枷が外れたかのようにボロボロと涙を流していた為、目元がはれている事は見えずともわかる。
「だい、じょうぶ……?」
「……多分、な」
「そ、そっか……」
「…………」
「ホントに大丈夫?」
「……多分」
「……ホントに」
「大丈夫だ!」
武瑠の言葉を遮りながら、再び青筋を浮かべ顔をばっと上げる。やはり目ははれ、目元にはまだ涙の粒が残っている。そして頬はほんのりと赤く染まっていた。
しおらしい泣き顔とは違い、羞恥と少しの怒りが混ざり、涙の飾りがあるその顔は言っちゃあ悪いが可愛らしい。
それと同時に武瑠は思う。
「そっちの方が、桧里さんらしいよ」
「『思う』って、言ってんじゃねえか!」
泣き顔で言われても怖くないです。
「もう泣いとらん!」
「まぁまぁ、落ち着いて」
というか、膝の上で暴れないで下さい。
「何なんだこの第三者は!」
「はいはい気にしない気にしない」
少しずつ怒りが増していく桧里をなだめる武瑠。だんだんと桧里の扱いに慣れてきたようです。
「小僧!」
「は、はい!」
「お前は何故そんなに恥ずかしい事を軽々と口にする!」
「……え?そんなに恥ずかしい台詞だった?」
「恥ずかしいわ!」
恥ずかしいと思うかどうかは、人によって違うのでは?と心にしながら自分の言った台詞を思い出す。
「思った事を素直に言っただけ…」
「素直すぎるわアホ!」
「っ痛」
どんっ、と先程自分が蹴った部分を拳で叩く桧里。すると、無意識に力を込めてしまったのか武瑠は顔を歪めた。
「あっ、すまんっ」
「…………」
「お、おい…大丈夫か?」
「……多分」
「多分とは何だ!もっとちゃんとっ……」
言葉を途中でとぎらせ、はっとした顔になる桧里。それを見た武瑠は、痛みなど感じていないかのようににこっと笑う。
いや、実際そこまで強い衝撃ではなかったのだ。
「お前、わざと演じたのか?」
「えへへ、こうしたらわかるかなぁって」
「多分」じゃあ、相手は安心しない事が。
それを聞くと桧里は安堵し、残っている涙を綺麗にぬぐって武瑠から離れた。
「まったく人間とは、可笑しなことをする……」
「今のは、わかって欲しかったからやっただけだよ」
「しかし、妖怪の俺が騙されるとはな」
「ね?そう言うところだって、人間も妖怪も一緒でしょ?」
「……そう、だな」
妖怪と人間は同じ。死んだって元は変わらない。
「人間に思い知らされるとはな」
「皮肉?」
「まさか。敬意と言え、小僧」
「……敬意って言っておいて、まだ小僧呼ばわり?」
「……あー」
言われてみれば、桧里は目が覚めてから武瑠の名を一度も口にしていない。
それ以前に…
「名は、何と言うのだ?」
「……そういや、知らないんだったね」
数珠を外した人間の状態の時の記憶は残らない為、武瑠の名前を知らないのは当然だ。
「じゃあ、改めまして……」
一つ咳払いをして紅い瞳を見る。
「楮武瑠です。よろしくね、桧里さん」
再度頬笑み言う。
が。
「別によろしくせずとも良い」
「……え?」
まるで突き放すようなその言葉に武瑠は動揺する。
「それって、どういう意味…なのかな?」
納得のいくわかりやすい説明を願う武瑠に桧里は言った。
「俺はもう、この街を去ろうと思っている」
実にわかりやすい答えだった。
それゆえに衝撃が大きすぎて、武瑠は何も言えなかった。
「夢喰いに憑かれてしまっていたとはいえ、お前に白狐特有のこの瞳を見られてしまったからな。お前も頭が悪くはないんだ。俺を拾った時から普通ではないことぐらいわかっていただろう?」
桧里を公園で拾った時、既に瞳は紅く染まっていた。
白狐特有の色、という事は、この瞳はカラーコンタクトで作られたのではなく、本当の色という事なのだろう。
ならばなおさら、普通ではないことが嫌でもわかる。
ましてや、あまり関わりを持っていなかったとは言え、共に小中学校の九年間を過ごしてきたクラスメイトが『妖怪』だったなんて……。
どこか抜けている自分が聞いてもこれだけの驚愕なのだ。しっかり者の幼馴染達が聞いたらどのような反応をするのだろうか。自分は受け入れたが、もしかしたら、この街から彼女を追い出そうとするかもしれない。否、きっとそれが当然の行動なのだろうが……。
「それに、たった今妖怪や秘宝の事を一人の人間が知ってしまったのだから、尚更だ」
「で、でも!それは桧里さんが勝手に……」
ふと、疑問に思う。
何故彼女は、自分にここまで話してくれたのだろうか。
知ってはいけない事だとわかっているのに、事細かに教えてくれた。
更には、自分の過去や封印されている事までも。
「どうして?駄目だってわかってたのに。どうして俺に教えてくれたの?」
「…………」
桧里は目を逸らし、見上げる形になっていた顔を少し下に傾けた。
「俺が去ると決めていたからだ。お前は、こう言う事を口外するようには見えなかったし……」
そこで一旦言葉を止め、眉間に皺を寄せ目を閉じる。
「……いや、違うな。お前に事を話したのは……気が、緩んでしまったのだろうな」
次に開けた目には、はっきりとした自己嫌悪と自嘲が混ざっていた。
「お前は俺から夢喰いを取り払った。夢喰いは心の弱いものにとり憑き、『夢』…所謂、希望や全ての感情を食べてしまう妖怪だ。体から出すには、心の強き者に触れてもらわねばならない。それも、芯から強い…お前のような」
言いながら、武瑠を再度見上げる。
「俺……みたいな……?」
「お前は、俺に元に戻って欲しいと強く思い、俺に触れた。もし俺が拾われないまま心を喰われ続け、全て喰い尽くされてしまったなら……」
眉間の皺が先程より深くなる。
「……どうなってたの?」
その様子を見た武瑠は、恐る恐る訊く。
「…生ける、屍と化していただろう」
「生ける……屍……?」
「心が死ぬと言う事は、何に対しても反応を示さなくなるという事。感情も無く、ただ何もせずに生きていく。そして、気付かぬうちに野垂れ死ぬ」
「自分の死もわからないの?」
「何に対してもとは、己に対しても同じだ」
可笑しな妖怪もいたものだ、と小さく言う桧里の目には、未だに負の感情があった。
「俺の心……精神は既に弱り切っていた。封印された時から前が見えなくなって、居場所を失くした俺には、これからどうすれば良いかもわからない。己の姿や力さえも失い、総てを失った。そして、絶望寸前のところに夢喰いにとり憑かれ……」
今の桧里は、また、泣いてしまいそうなほど、脆かった。
「しかし、そこでお前が光を射してくれた。命を、救ってくれた。そんなお前だったから、気を許してしまったのだろうな……」
「…………」
儚く、脆く、弱い。
自分よりも強いはずの桧里は、今はとても、弱弱しく見えた。
「妖怪と少しでも関わりを持った者には、その妖怪の匂いがつく。それを目印として他の妖怪はその者を襲う。妖怪と遭遇しているのに命がある、それは強き者だからこそ逃れられたのではないか。そう思い、やつらは少しでも強き命を喰らおうとする。だからお前も、いずれ命を狙われるかもしれない」
「……俺……妖怪に、食べられちゃうの?」
「可能性が高くなったまでの話だ。だからこそ、匂いが今より強くならないうちにここを去らなければならない」
それはつまり、武瑠を護る為にこの街を去ると言うこと。
落ち着いた場所ができたというのに、また違う場所に移らなければならない。
その場所を探すのも容易ではない。人に触れ合わずに生きていける場所と言うのは、無いと言っても過言ではないのだ。
「……家とかは、どうするの?親だって」
「家は元々持っていない。夜はいつも路地裏とか山とか、人の来ない場所で過ごしている。親も、元々いない」
「えっ?」
「少しは考えろ。俺は既に死んでいるんだぞ?」
「あ……」
妖怪である以前は狐だった桧里が命を落としたのは、もう何百年も前になる。
ならば当然、親である狐も既に亡くなっているだろう。ましてや人間となって、今も桧里の世話をしているはずがない。
「でも、家がないって…」
「家など持たなくても生きてはいけると思ったからな……」
そこで一つ、桧里は咳払いをした。話を戻す合図のようなものだろう。
「とにかく、そう言う事だ。お前の命を失うことはしたくない。人間は、事故や病気で死ぬよりも、寿命が尽きた方がずっといいからな。……それに、お前は俺を救ってくれた。ならば尚更だ」
そう言い終えると桧里は立ち上がり、部屋に付いている引違い窓の傍まで行き、窓を全開する。エアコンのドライ機能で作られていた冷えた空気が、外から入ってくる涼しい風に変わっていく。
桧里の髪を風が靡かせ、彼女は気持ちよさそうに目を閉じ微笑む。
何だか絵になりそうだな…、と一人思う。
しかし、なんだかこのまま桧里が窓から家を飛び出しそうで、すぐに消えてしまいそうに感じる。
まるで掴もうとすれば拒絶し、風に煽られればすぐに消えてしまう火のような。
本当に、消えてしまいそうで…。
咄嗟に武瑠は立ち上がり桧里の傍まで進み、彼女の体を反転させ、抱きしめた。
消えてしまわないように、しっかりと。
突然抱きしめられた桧里は、驚きはしたが武瑠の様子が先程とは違う事に気づき、何も言わずにじっとしている。
「………さっき言ったじゃん……」
ぼそり、と、声を絞る。
「君に、幸せになって欲しいって……言ったじゃん」
風が、武瑠の跳ねた髪をふわりと動かす。
桧里は何も言えず、ただじっと武瑠の声を聞いた。
「幸せになって欲しい、幸せが何なのか知って欲しい。もしかしたら、俺でもわからないものなのかもしれないけど……。だったら一緒に探せばいいじゃんか、桧里さんは……人を大事に見すぎだよ。妖怪に狙われやすくなるかもしれない。それならそれでいいよ、周りの人は狙われなくなる」
自分が狙いなら、他には手は出さないはずだ。
「それでもいいから……消えないでよ。自分から闇に行こうとしないで。君はここにいる、ここに存在してる。人間の姿が本物じゃないとしても……生きてるじゃないか、体だって温かいじゃないか」
例え何百年も前に失っている命でも、死人のように冷たくない。
熱を持ってる。
呼吸もしてる。
鼓動だってある。
全てが生きている証拠になる。
「家がないなら此処に住めばいい。家族がないなら、俺が君の家族になるよ」
だから――
「……逝かないで」
ぎゅっと、抱きしめる腕に力を入れる。
どこにも行ってしまわないように。
小さな灯が消えてしまわないように。
「……ありがとう。……武瑠」
「!」
優しげな声で、それは紡がれた。
初めて呼ばれる自身の名前。それは、自分を心から信じてくれているような感覚だった。
自分の思いすぎかもしれない。でも嬉しかった。
何だかくすぐったい感じもするけど、とても嬉しかった。
「俺は今まで、生あるものの命を消したくなくて様々な事をしてきた。ほとんどが妖怪を祓う事だったけど、それで命が消える事は無かった。でも、命を消したくないのなら、護るしか、ないんだよな。傍にいて護った方が、良いんだよな。……わかってた。わかってたよ。でも、出来なかった。傍にいたらもっと危険になる。もっと命を狙われる。だから諦めてた。でも……今なら、できるかもしれない」
武瑠を見上げ、頬笑み、笑った。
「それに、俺は助けてもらった身だしな。恩は最後まで返さないといけない」
「……狐の恩返し、だね?」
「俺は鶴のような隠し事はしない主義だ」
「あははっ」
初めて、二人で共に笑いあった。
(第一話 逢 終)