ゆめのあと
あの日、友人と3人で、日本を牛耳り変えていこうと語り合ったことを、今でもハッキリと覚えている。
20年ほども前のことだ。
高専生だったころの自分に、特別なりたい職業があったわけではない。
だが、不思議と幼い頃から2つの確信があった。
それは「他人に雇われている限り自由な人生など無い」ということ、そして「慈善団体や、NPO、NGOは信用ならない」という想いだ。
業種など関係がない。従業員である限り、自分の時間や人生を切り売りしなければならない。下請けである限り、他人の尻拭いをしなければならない。
自分に家族が出来た時、妻や子供を常に優先したい。それにはどうしたらいいのか?
その上で困っている人を助けたり、適切な支援をできるような人間になるには?
自分で会社を興すしかない。
それしかないように思えた。
頭の中でハッキリと言葉になってから、その考えに取り憑かれた。
授業中に自己啓発の本を読み、開業方法の本を読んだ。
夜中まで開業プランを考え、授業中に寝た。
今思えば現実逃避にしか思えないが、本気だった。
そのころは自分の人生で最も友人が多い時期だった。
その中に2人、同じ志を語り合った友がいる
東根くん(仮名)と安井くん(仮名)だ。
東根くんは体育会系のイケメンで、ヤクザの親分の息子だ。
いずれは父親の跡を継いで組長になると言っていた。
安井くんは大柄で弁の立つ男だ。
今風に言うとヒロ◯キのような話し方で、政治家志望だった。
自分も含め、3人とも工業高専の機械工学科にいた意味がわからない。
3人で日夜語り合った。
日本はこのままじゃダメだ。
俺たちで変えていこう、と。
俺は経済から、安井くんは政治から、東根くんは裏の世界から。
教室の真ん中で桃園の誓いというわけだ。
4年生になるころには、夢は極限まで肥大化していく。
「中小企業を次々と立ち上げ、軌道に乗ったものから後進に任せ、社長の個人報酬の1%を徴収しよう!現代のコンチェルンを作り上げ、会長におさまって40歳にはセミリタイアだ!!」
正気ではないと笑うだろうか。
正気じゃなくても本気ではあった。
この頃、ろくに勉強もせずに起業のことばかり考えていた自分の成績はブッチギリの最下位だった。
物理で0点を取ったこともある。
全問記入しての、0点だ。
当然ながら進級できない。
担任に留年の話をされた時、自分から退学を選んだ。
当時読んでいた本にはこう書かれていた。
「思うだけで行動しなければ何も始まらない。個人事業なら一万円もあれば始められるのだから今始めよう」
学校を退学し、2日後に税務署に個人事業開業届を提出しにいった。
行動したのだ。
特別な技術も実績も持たない自分がどんな会社を作ったか。
広告のコンサルティングだ。
ヴィジョンはあった。
成果報酬型で返金保証をすれば実績無しの若造でも試してくれる会社はあるはずだ。
広告の会社なのだからレスポンスのある広告を一発当てられればすぐに顧客がつく、と。
だが広告を出す金が無かった。
そう、会社を作るのに金はかからなくても運営するのに金はいる。
チラシ等を新聞に折り込むのに50万、ホームページを作りサーバを借り、多くアクセスされるところに表示させる広告に20万等々。
金が無ければ何も出来なかった。
プレスリリースを出して、新聞社に逆に取材してもらおうとした。
うまくいけばコレならFAX1枚だ。
だが、何度やっても反応は無かった。
親に金を借りるべきだっただろうか。
当然親は反対していたわけだが。
銀行に借りるか。
当時その発想はなかった。
日雇いのバイトをしながらアレコレと試す日々。
1年も経たないうちに考え直さなければならなくなった。
収入は無いのに税金がかかるのは面白くない。
廃業届けを出すのに抵抗はなかった。
お金を貯めながら必要な勉強をしよう!
公的書類は手こずったし、確定申告とかも全く意味がわかってないから、まずは経理の勉強だ。
そう思い、ハローワークで探したのだが
未経験可の男性で経理は1件しかなかった。
街の中古車屋さん、未経験OK、アットホームな職場です、社員旅行年2回!
基本給は少ないけれど、頑張り次第で報酬アップとも書かれていたな…
とんでもないどブラックだった。
定時に帰れたことなど無く、日曜しか無い休日も出勤当たり前。
社員旅行は社長が行きたいところに経費で行くため、社員は自腹、不参加ならボーナス無し。
これで手取りは10万以下。
計算してみたら時給300円くらいになったんですが?
目的であった経理も、それっぽいことをしていただけで簿記やビジネス会計を学ぶ時間もなかった。
1年頑張ったが、心が無理になった。
当然貯金は増えなかった。
次は何を頑張ろう。
事務の仕事はしばらくしたくない。
結局のところ顧客を獲得するスキルが無ければダメだ。
営業の仕事をしよう!
電話回線プランの飛び込み営業だった。
最初は社員も騙されている。
このプランはお客様に得しか無いし、手続きも面倒なことなど無くて、自分も報酬がもらえてWin-Winなんだ。
だから最初は割と契約が取れる。
でもバカじゃないならすぐに気がつく。
大してお得でもないし、ただの顧客の奪い合いだし、事務手続きは面倒で手数料もかかる。
だから飛び込み営業なんてゴミ虫のように扱われる。
それが当然だと自分でも思うようになると、飛び込むことも出来なくなる。
会社からもお荷物として扱われる。
完全に鬱になった。
お金も増えてはいなかった。
解雇され、引きこもる日々。
何もしたくない。
自分は悪くない。
いつかチャンスはある。
前に進まなければいけないのに、家からでることも無い。
言い訳ばかりで何もしない時間は、自己嫌悪を更に加速させる。
本当に限界までお金がなくなった時だけ日雇いのバイトをする。
工場のラインで何も考えずに手を動かす。
電気店で教わったとおりの説明をする。
箱を並べ、調味料を測り、レジを打ち、イベントの設営をし、果物を並べ。
思い返せば様々なことをやったが何も身につかなかった。
このままじゃいけないと毎日悶え苦しみながら、何も動けなかった。
キッカケはなんだろうか。
家を出なければならないと思っていたある日、まとめサイトで何気なく読んだ記事。
「ニートは自衛隊にでも入れ」という内容だった。
考えたこともない。
自衛隊について何も知らない。
運動も嫌い。
だがなんとなく頭に残っていた。
日雇いバイトの報酬をもらった帰り道、駅前に自衛隊の協力本部があるのを見つけた。
資料だけもらおうと中に入ってみると、広報官という人に熱心に説明された。
完全な寮生活だから実家は出れるし、運動苦手でも3ヶ月で体力がつく。任期制自衛官は2年勤めれば150万近い満期金がもらえる。
キツいのさえ除けば理想的に思えた。
とりあえず試験を受けてみるだけ受けてみようと思った。
君なら受かりそうだからと曹候補生を薦められた。
曹候補生は一生自衛官で生きていく前提のものだから給料は多少多いが満期金はない。
会社をつくるつもりでその資金が欲しかった自分にはメリットが無いのだが、満期金の説明をされなかったので曹候補生を受けてしまった。
受かった。
入隊した。
勘違いに気付いたのは入隊後のことだった。
自分でも調べろや。
自分が入隊したのは2011年4月。
その1ヶ月前に東日本大震災が起こった。
教育を受ける予定だった駐屯地は水没し、先輩自衛官は災害派遣で余裕が無かった。
そのため、その年の新入隊員は西の地域で教育を受けることになった。
琵琶湖のほとり、大津駐屯地に行くことになったのだが、飛行機も、電車もバスも東京まで行けず、辿り着くのに4日かかったのを覚えている。
詳細は省くが、正に地獄の日々だった。
まともに運動もしてこなかった人間が、わずか3ヶ月で自衛官として最低限の肉体に仕上げられるのだ。
逃げ出したものも1人や2人ではない。
自分が耐えられたのは実家が近くに無かったからだと思う。
逃げる場所があり、休みのたびに帰省していたら駐屯地に戻ってこれなかっただろう。
3ヶ月後、ほとんどの人間は地元に戻ることになった。
だが極一部、関西圏に配属された新隊員がおり、自分もその1人だった。
京都に配属となった自分はそれなりに努力したが、日に日にギャップが大きくなっていった。
地元に戻りたい思い。
一生続ける気なんて無いのに任期制ではないので昇進試験を求められるギャップ。
それでも、関西で恋人も出来、3年ほど経つころには自衛官として生きていくのも悪くないと思うようになっていた。
しかしそんな折、母の体調が思わしくないという連絡が届いた。
糖尿病が悪化し、人工透析が必要になり、頻繁に手術を繰り返しているという。
地元に配属させてほしい。
意を決して頼み込むも、10年は難しいと断られた。
退職し、地元で就職するしか道はなかった。
自衛隊は退職者への就職先の斡旋に熱心だ。
その中に一社だけ広告印刷の会社があった。
そこに勤めれば、また会社をつくった時に広告を出せるのでは?ヒントになるのでは?
トントン拍子に話は進んだ。
恋人には頭を下げた。
地元に付いてきてほしい。
その覚悟があるのなら、結婚しよう。
彼女の中で葛藤はあっただろう。
人生プランもメチャメチャになってしまう。
私は彼女を置いて地元に帰った。
退職の際、満期金は無いが、退職金とあわせて50万ほどが手元に残った。
新しい仕事は給料も安定しており、多くはないが毎月少しずつなら貯金も出来る額だ。
これなら何年か後には、また夢を追える。
半年ほど経った後、一度は離れた恋人が自分を追ってきた。
憎くて離れたわけではない。
私が振り回した結果なのだ。
改めて再スタートを切り、結婚することになった。
引っ越し等でまたもお金がなくなった。
だが共働きなら少しは余裕もできるはず。
と思っていた矢先に妊娠が発覚し、第一子が産まれた。
そうなってくると収入が足りない。
とにかく稼がなくてはならないが、当時の会社は固定給で副業も禁止。
またも転職を決意することになった。
次の職場は給料で選んだ。
会社を作るのには何も関係のない、トラックドライバーの仕事。
生きるためには仕方ない。
子供を育てていくためには、金がいる。
育児に奔走する妻に働かせなくても済むようにするには、金が。
金、金、金、金。
夢を忘れ、時間もなくなった。
平日は家に寝に帰り、休日も疲れが溜まり家族サービスも出来ない。
昔の自分が思ったことは間違っていなかった。
従業員でいる限り、時間や人生を切り売りしなければならない。
家族に不自由させないためには、自分が不自由にならなくてはならない。
身を粉にして働いても何もなすことは出来ない。
それから数年。
第二子も産まれ、平凡な人生も悪くないと思った。
日本を変えることは出来なかった。
当時の友達に会うことも無い。
でも俺には家族がいる。
それで十分じゃないか。
ある日、仕事から家に帰ると、誰もいなかった。
妻も、娘も、息子も。
少ししたら帰ってくると、書き置きを残して。
帰ってくることは、無かった。
おわり